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現世界グルメ異聞「調味料」


 これまでの経歴からか、よく「料理上手になるためにはどうすればいいか?」と質問される。
 概ね、答えは3つだ。
 1つ目は、美味しいものを食べること。それが目指すべき場所だからだ。目標を持たずに進む事は難しい。だから、美味しいものに目敏くなり、食べて、知る事だ。
 その際、自分の味覚に自信なんかなくていい。味覚なんてものは揺らぐ。だからこそ、その揺らぎの中心を見つけるために食べる事が肝要。
 2つ目は、料理すること。どんな事でも同じだ。練習や経験、失敗や成功なくして成長するなんて不可能に近い。繰り返し繰り返し、料理をしていく事こそが近道である。
 3つ目は、調味料にこだわること。
 基本的に、良い肉、良い野菜、良い塩・胡椒があれば、焼くだけで美味い。しかし、良い食材を買えば食費は爆発的に上がる。
 肉、野菜、塩胡椒。この中で、一番安くで買えて、しかも簡単になくならない物は何だ?
 そう。塩胡椒をはじめとする、調味料だ。
 これはソースでもドレッシングでもいい。極端な話、味付けの味さえ良ければ、多少焼き方が悪かろうと、イマイチな食材だろうと食えてしまうのである。
 肉の焼き方を習得するには時間と努力が必須。しかし、そんなに惜しまず労力を掛けてられる程、情熱がある訳でもない。人間なんてそんな物だ。
 だからこそ、調味料にこだわるのが、手っ取り早い近道なのである。

 調味料。それは料理に欠かせぬ裏方である。
 主演がメインの食材なら、副菜や付け合わせは助演。皿やグラスが舞台なら、ソースは音楽。調味料は、演出と言ったところか。
 この調味料、英語ではコンディメント、あるいはシーズニングと呼ばれる。
 この分類は少し難しくなるが、基本的に調理中の味の調整をするのがシーズニング。
 出来上がった料理に振りかけたりする物がコンディメントになる。つまり、ソースやドレッシングもコンディメントのカテゴリに振り分けられる訳だ。
 また、調味料を広義で捉えるならば、スパイスやハーブもそこに含まれる。
 この、スパイスやハーブもややこしい。概ね「香辛料」と「香草」と言う翻訳で間違ってはいないが、これを厳密に分類する事は至難の業であろう。他には「薬味」と言う呼び方もある。これはネギも山椒も含むので分類が難しい。
 大雑把に言えば、それ自体を食べることも可能な緑の葉が香草ことハーブに多く、葉以外の根や実、種子を擦り潰したり、味や香りだけを付けて、調理後に取り除く物が多いのがスパイスこと香辛料とされる。
 しかし、例外はあまりにも多く、国や地方で分類方法が違っていたり、同じ植物でも葉を使うのか実を使うのかで変わるケースなどもある。
 例えば、葉を食べる方ではタイ料理などで知られるパクチーはハーブと呼べるだろうが、ヨーロッパではコリアンダーシードとして種子を食べる。つまりはスパイスに該当するだろう。
 日本では同様に、山椒がスパイスの代表だが、その若芽は木の芽として使用される。
 この場合も、ちりめん山椒では実自体を食べるし、逆に木の芽は食べられないケースもあるので、スパイスなのかハーブなのか断定するのは難しいと言えよう。
 また、前述のコンディメントとシーズニングにしても、日本ではどちらかと言うと料理の上から「ふりかけ」るものにシーズニングという名称を用いる事が多い。本来なら逆だ。
 それに、塩や胡椒はもちろんのこと、一味や七味、山椒といった調味料は、調理中にも、調理後にも使用される。
 ケチャップひとつにしても、調理後のオムライスにかけたり、調理中のチキンライスに混ぜたりもする。
 つまり、考えれば考えるほど、そのカテゴライズは実に難しい。とてつもなく複雑な表を作って分類するか、あるいはフィーリングでその場のノリで割り振るしかないのだ。
 例えば、オニオンフライとして捉えると、玉ねぎはメインの食材である。
 しかし、ステーキのガルニチュール(付け合わせ)として提供されれば、文字通り付け合わせだ。
 また、シャリアピンスソースや、すりおろしてオニオンドレッシングにすれば、これはもはや調味料である。
 またもはや日本食と言えるほど普及したカレーの下味としては欠かせない。こういったベースとなる食材は、料理を完成させる上で必要不可欠と言えるだろう。
 したがって、調味料とは何か? という問題に対する解答は、とても複雑で長時間を必要とする。
 下味に使う、味の調整に使う、仕上げに使う。そして、食べる直前に追加するだけでなく、食べている最中に追加するものもある。
 香りを足す、味を整える、味を変化させるなど、目的も様々だ。
 だが、それでも調味料にはもっとわかりやすい基準がある。
 調味料は「メインの食材にはなり得ない」言うことだ。例外がないとは言わないが、調味料はほぼ確実に、「調味料自身をメイン食材として食べるものではない」のである。
 わかりやすく言えば、「メイン食材を食べるために存在する」のが調味料なのだ。
 具体的に言うならば、塩胡椒を食べるために肉を焼く訳ではない。肉を食うために塩胡椒を振る。
 ドレッシングを食べるために生野菜を切る訳ではない。サラダを食うためにドレッシングが必要なのだ。
 醤油を飲むために刺身を食うのではなく、刺身を食うために醤油をかけるのだ。
 多少複雑になるが、ナンやライスを食うためにカレーが存在する。無論、カレールゥ単品が楽しめない訳ではないが、カレールゥには肉や野菜が入っていたり、カレールゥ自体がそもそも小麦粉入りだったりするので、調味料と言うには「メイン料理」に近い。
 また、酒の肴として塩そのものを舐めたり、健康のためだとか言って、酢やオリーブオイルを飲んだりもするらしいから、例外がない訳ではない。確かに、居酒屋で次の料理を待つ間に、わさび醤油を舐めるなんて事は侭ある話だ。
 そう言った曖昧な点や、例外はあれども、調味料は主体として「それを食べるもの」ではなく、「それを食べさせるもの」なのである。

 その点において、例外中の例外として理解に苦しむのが「マヨネーズ」の存在だ。
 正直に個人的な好みを言うとマヨネーズが得意ではない、という部分は認める。しかし、食べられない訳でも何でもない。特に味が嫌いな訳でもないのだ。
 何が駄目かと言うと、「マヨネーズは調味料の域を出ている」からである。
 前述の定義に基づくなら、調味料は食材を食べるために存在する筈だ。だが、マヨネーズはその支配的な味と使用量で、「マヨネーズを食べるために、他の食材にかける」いう主従の逆転が生じてしまっているのである。
 考えても見て欲しい。新鮮で美味しい刺身を、醤油でボタボタにしてしまうだろうか。
 揚げたてサクサクのコロッケをソースでビタビタにするだろうか。
 美しく仕上がったオムライスを、ケチャップで真っ赤に染めるだろうか。
 それほどにマヨネーズは支配的なのである。支配的であるにも関わらず、その使用量は正気を疑うレベルだ。
 もう一度言うが、マヨネーズに対して否定的なのは、個人的な味覚の問題に起因するものではない。
 少量であれば実に素晴らしい調味料だと言える。
 チャーハンなどの炒め物の油としても優秀だ。
 個人的にはトーストなどの焼きマヨネーズは好物だと言える。
 また、個人的には「料理は一皿で完成していること」が前提となるので、「味変」を好まないが、途中で味に飽きないための追加調味料としても活躍する。
 使い方によっては、マヨネーズは素晴らしい調味料である事は否定しない。特に、ブロッコリーとの相性は随一であろう。
 だが、世間でのマヨネーズの使い方は粗雑に過ぎる。何でもマヨネーズ味に染めてしまう。マヨネーズに対して否定的なのは、このような現状に抗議するためである。

 日本人は、とにかく醤油が好きだ。そう言われても仕方ないぐらいに煮炊き炒め掛け付け漬けと醤油に頼る。それは事実だろう。
 だが、どんな食材もただひたすら醤油に漬け、醤油味に染めるなんて事はしないのだ。
 その醤油だって色んな種類があるし、生姜醤油、わさび醤油、酢醤油、砂糖醤油とバリエーションがある。
 しかしそれでも、醤油に味に染めたり、醤油を直接飲むなんて真似はしない。それは砂糖も塩も酢もそうだ。
 一部の料理では、確かに味噌田楽であったり、一部名古屋近辺では、とにかく何でも味噌を使う習慣があったりもするが、それでも食卓を染め上げるような真似はしない。
 詰まるところ、用途や量なのである。
 マヨネーズだけではない。世に横行している「激辛」なんかも同様である。無論、その人にとって「それが美味い」と感じているのならば、それを否定する気は毛頭ない。
 しかし、その調味料で染めてしまえばいいなんてスタンスで、グルメ、美食の名乗りをあげるのは些か方向性が違うのではないだろうか。
 辛い料理は大概辛くても好きだが、それもやはり、辛さに負けないだけの旨みを有しているからだろう。ただ、悶えるほどに辛いのが美味いと言われても、それはもはや「ただの痛み」に過ぎず、それが至高と言うならば、美食ではなく、歪んだマゾヒズムに過ぎないのではないか。
 あるいは、「これだけ辛くても食べられる」という、ただの酒飲み自慢と変わらない。
 酒を飲んで酔っ払って楽しくなる事には肯定的だ。酒の飲める量を競い合うのもいい。
だが、それは美食とは異なる楽しさではあるまいか。
 酒も、飲み過ぎて嘔吐するようでは度を過ぎたという事だ。調味料も同様である。
 ならば、読んで字のごとく「調味」のバランスこそが美食の求める道なのではないかと考える次第だ。
 「調味」とは、味を調整する事である。どれが正解かはわからぬが、我々はその究極のバランスを求めているのではないだろうか。

 例えば、牛丼屋のチェーン店で、牛丼を食べたとしよう。
 牛丼に紅生姜はなかなかに素晴らしい組み合わせだと言える。何しろ、無料でカウンターに置いてあるのだ。個人的に乗せ過ぎるのは好みではないが、好みの量だけ加えるといい。
 だが、同じ牛丼屋のチェーン店で、親子丼を食べたとしよう。
 親子丼に紅生姜は味の調和を乱すと感じてしまう。特に、卵のとろみが絶妙であるほど、紅生姜はノイズになりかねない。
 無料だから、と乗せておけばいい物ではないのだ。
 やはり、親子丼には一味や七味、山椒や三つ葉、海苔などが合うのではないか。

 そう言えば近頃は、何にでもチーズを振りかけておけばいい、と言うような風潮があり、これにも憤りを感じる。
 無論、無性にチーズ味の物を食いたいが、近所にこの時間に開いてる店がない、なんて事態は想像に難くないし、否定するつもりもない。
 だが、美食という観点から考えると、「とにかく何にでもチーズを山盛りにすれば美味い」と言うのは納得しかねるのである。
 ハッキリ言うが、牛丼にチーズの組み合わせは、邪魔になるほどの違和感はないにしても、チーズによって牛丼が際立ったり、牛丼によってチーズが活かされたり、あるいは相乗効果で新たな味が、というようなマッチングではない。
 逆に、親子丼であるならば、チーズとの相性はさほど悪くない。おそらくは卵が仲介役を務めているのだろうが、チーズとの適合性は悪くないと感じる。
 このチーズも、調味料から主材料としての様々な役割を果たしている。
 ツマミとして、具として、調味料として、トッピングとして。実にいい仕事をしてくれる。
 しかし、マヨネーズ程ではないにしても、チーズも度を越すと味を壊してしまう。
 粉チーズも掛け過ぎればその味に染まる。焼いたチーズは美味いが、量が多いと油が出てしまい、クドくなるだけでなく、チーズ特有の苦味が舌に触ってしまう。
 だから、近年の広告でやたらと見かけるようになった「チーズ増量!」「チーズ2倍キャンペーン」なんてモノは、元が少な過ぎない限りは、バランスブレイカーとなりかねない。
 やはりどんな食材でも、どんな料理でも、どんな調味料でも、過ぎたるは何とやらなのである。

 さて。そんな話をしていたら、チーズ味が無性に食べたくなってきた。
 外は雨だし、久々に宅配ピザなんてのも悪くはない気がする。
 確か、チラシがあったはずだな。
 ん? なになに? 「チーズ3倍無料キャンペーン」?
 まったく。
 こーゆー「量を増やしておけば飛びつくんだろ?」と言わんばかりのやり口には辟易とさせられる。
 うむ。
 だが、3倍で、無料、か。
 ううむ。
 いや、せっかくだし、ううむ。
 これは絶対にバランスが悪いぞ。
 いや、でも、無料だし。
 うん。無料だしな。
 文句と後悔は食ってからでいいか。

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 なお、この先には、ワタクシが一番言いたい事が書かれてます。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。