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鬱と嘘


 皆さん、こんにちは。ウッソ・エヴィンです。ウソです。木賃ふくよし(芸名)です。
 と、いつも通り最初に挨拶をする訳ですが、ワタクシ、気になる事があります。
 SNS、とみにTwitterで見掛ける事が多いんだけど、


 鬱とかADHDとか
 障害者とかLGBTなどを
 表明してる人がいる。


 まず誤解なきように言うと、コレを一緒くたに考えている訳ではない。並べたのは、単純に「世間様」から、「異端のレッテル」を貼られやすいカテゴリという括りである。そこは誤解しないで欲しい点だ。

 コレも誤解しないで欲しいが、表明が悪い訳ではなく、それを否定するつもりはさらさらない。いつも言ってるが、SNSなんて道具だ。使いたいように使えばいい。折り紙を見たら鶴しか折っちゃダメって事はない。ヤッコさんでも騙し舟でも好きに折りゃいい。紙ヒコーキを飛ばしたって、切り絵にしたって、メモ帳にしたっていい。そんなのは自由だ。
 強いて言うなら、ケツを拭く紙には向いてないってことぐらいで、そうするなら、折り紙を揉んでほぐして、柔らかくしてから拭くことをオススメするってぐらいか。

 んで、LGBTについては、ワタクシゃネットで出会う人間は全て男性だと思うようにしている。その方がトラブルが少ないからだ。変な勘違いを起こさないように、そう思うことに決めている。
 で。直接会わなきゃ男か女かなんてわからないし、それはつまりLGBTかどうかも関係がない。したがって、性別や性対象は関係ないと思っているのだ。

 次に、身体障害。
 これも、ネットの上ではまず関係ない。
少なくとも、こちら側にはまず関係ない。

 で。残るは精神障害、鬱、ADHDなどだが、身体障害やLGBTを含め、その立場からの発信をする人も沢山いる。それは良い事だと思う。
 右であれ左であれ、障害者であれ、セクシャルマイノリティであれ、オタクであれ、フェミニストであれ、ヴィーガンであれ、その立場からの発言はとても大事だと思うのだ。

 だが、日々の発言がそこに起因しないなら、その表明は、あまりメリットがないのではないか、と言うのが、ワタクシには気になる。
 先ほども言ったように、SNSなんて道具だ。好きに使えばいい。他人のSNSの使い方に文句をつける気はない。
 しかし、ワタクシは思うのだ。


 だから、どうしろと?


 それがわからないのである。わかりやすい話、ネット上で、外見が醜いキモ男です。って言われても、会う訳じゃなければ、見目は関係ない。
 もし、あなたが不細工でも、片足がなくても、耳が聴こえなくても関係ないのである。


 
 そこにもし、障害持ってるから大目に見てね。


 という意識があるなら、少し考えて欲しいのである。

 ワタクシは割と近しい所に障害を持った人がいる。精神的な疾患だったので、とにかく周囲が振り回された。
 もう10年以上前の話になるが、かなり長期にわたって、そのケアをしてきたつもりだ。他にも、知人から、割と近しい所にまで、鬱を患った人がいる。

 例えば、

 鬱の人に
 『頑張って』は
 【禁句】です。


 というモノがある。おそらく、それは正しい。
 だが、鬱病の人に、なんとか「頑張って」元気になって貰いたいのは、単純にその人が好きだからであって、その「頑張って」に悪意なんかあるはずはない。そうでなければ、そばに立ってケアなんかしない。
 無論、同時に昔ならいざ知らず、今現在は、その「頑張って」が鬱病の人を余計に苦しめたりする事も知ってはいるのだ。
 いや、まだまだ知らない人は多いかも知れない。その「頑張って」が良くない事を広めることは大切かも知れない。
 だが、我々は精神科医でも看護師でもない。知らないかも、知ってても、つい口を衝くかも知れないのだ。そんな訓練を受けてないんだから。

 無論、その人との距離感は大きい。
 冷たいようだが、ワタクシの周囲にいないなら、どうでもいい。残念だが、世界には戦争や飢餓で亡くなる人がいるのと同じだ。いちいち気にしていたら生きていけない。
 言うまでもなく、自分に近しい人には幸せであって欲しいし、ちょっとの労力で出来る事なら、協力はしたいと思う。

 自分の生活を脅かさない程度の協力ならば惜しみたくはない。

 しかし、相手との関係が近ければ近いほど、負担は指数関数的に増す。

 ただ単に、大事な人が病んでしまっただけで、病んだことに罪がないのと同じく、大事な人に病まれてしまった事にも罪はないのだ。

 病んだことも病まれたこともない人間から「頑張って」って言葉が出るのも、悪意などではないので、それも知っていて欲しい。いや、知ってるかも知れんが、気に病まないで欲しいんだよ。それが無理なことも知ってる。けれど、つい、出てしまう。
 そして、また「頑張って」を言ってしまった自分を責めてしまう。言った方も言われた方も傷付いてしまう。

 苦しんで欲しい訳じゃない。むしろ、重荷を取り去ってあげたいと思う。
 でも、専門医でも何でもないんだよ。そりゃ、話ぐらいは聞く。けれど、話を聞いただけで快復する訳じゃない。それが何時間も何日も続く。
 繰り返すが、聞かされ方は専門医じゃない。鉄人でも聖人でもない。
 精神疾患かどうかじゃなく、何時間も何日も暗い話を聞かされりゃ、そりゃこっちの心が折れる。当たり前だ。「頑張って」と言ってしまう。「頑張れよ」と言いたくもなる。「頑張れない」って言われりゃ、そりゃつい語調が荒くもなる。
 付き添う側も、弱い人間なのだ。

 そこには善意しかないはずである。しかし、良い結果が出るとは限らない。別に誰が悪い訳ではないのだ。心を病んだのはその人の責任じゃない。

 ワタクシは去年まで繁華街でバーを経営していたが、わかりやすい話、こんな例がある。


 明け方の繁華街に、
 財布が落ちている。


 ありがちな話だ。失くした人は困っているだろう。手続きが面倒で時間も取られるが、仕方ない。で。



 100%の善意で
 警察に届けるも、
 既に誰かに
 現金を抜かれた後だった。



 落とし主が現れるも、ワタクシが中身を抜いたのではないかと疑われる。コレは非常に胸糞が悪い。そりゃ、金は欲しいが、あんな疑いの目を向けられたら、謝礼金なんか要るかボケ!ってなる。

 明け方の繁華街なんで、泥酔者の介護でも似たような経験がある。
 どう考えても前後不覚の泥酔者が道端で寝てるので、少しでも安全な場所に移動させたはいいが、既に誰かに財布を盗られた後で、ワタクシが盗ったのではないかと疑われるのだ。
 てか、明け方に落ちてる財布はこうやって盗まれて、捨てられている。

 こーゆー経験が何度かあると、何が起きるか。


 簡単だ。


 見て見ぬ振りである。


 財布なんか落ちていなかった。
 泥酔者などいなかったのである。


 それが正しくない事はわかってる。しかし、見知らぬ他人の財布より、自分の保身の方が大事なのだ。




 話を戻そう。

 これと似たような事が起きる。そこには善意しかなかったはずなのに、その結果が事態の悪化を招く。
 誰が悪い訳じゃない。しかし、お互いに傷を深めるだけだった。
 ならば見て見ぬ振りをしよう。鬱病になったなんて知らなかった事にしよう。障害のある人とは距離を置こう。
 もし、そうなる人がいても、責めないであげて欲しい。
 皆が皆、専門医じゃない。金銭も時間も精神も余裕がある訳じゃない。誰しも我が身が大切である。

 もう一度言うが、ワタクシ自身はSNSで、障害がある事を表明する事を否定はしない。その表明で同じ境遇の仲間が見つかるかも知れないし、妙な輩が近付くのを避ける事が出来るかも知れないのだ。

 だが、それと同時に、もしも、



 障害を持ってるから
 このぐらいの発言は
 大目に見てね。



 なんて意識があるなら、言わせて欲しい。



 色んな目に遭ったから、
 これぐらいの発言は
 大目に見てね。



 (´・Д・)」 障害を持ってる事は大変な事だと思うけど、それを支えようとしてくれてる健常者の大変さが、健常者だからって理由であまりクローズアップされないのってフェアじゃないよね、って話でした。


 うん。今日は言葉を選ぶのがとにかく面倒な記事だった。


 なんか、各方面に気を遣う文章は書くと疲れる。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。