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毎日頑張ろうとするとそれはそれで緩急がなくなり間延びしてしまうから、「休日」を意図的に設けたほうがいいかもしれない

何か大きな目標があるときは、単調な努力を重ねなければならないでしょう。コツコツとか、泥臭くとかそんなふうに形容される行動の積み上げです。例えば、受験勉強とか部活動の大会に向けての練習です。

でも、そうやって必要なことを淡々とこなしていくのは案外難しいものです。これには1つの大きな理由があるように思われます。それは時間(Zeit)の問題です。

目標達成のために毎日淡々と過ごすというのは、昨日と今日と明日がほとんど区別されない等質的な時間を生きることと言えるのです。人は、平均化・等質化された時間には飽きてしまいます(Mir ist langweilig)。だから、単調な努力を続けるのは難しいのです。

ふつう達成困難な夢を叶えるには時間がかかるので、長期的視野に立ってたまにパッーっと憂さ晴らしをするというのが大事なんだと僕は思います。なぜなら、目標が達成されるまでガマンするんだ!みたいに根詰めてやると、間延びしてメリハリがなくなるからです。

これは、一日の時間の使い方もそうだと思います。起きている間ずっと本気でいることは、つまり気を張った状態で過ごすことは、心身ともに疲弊させてしまいますからかえって効率が悪いでしょう。

「休日」「休憩」をあえて設けること。「遊び」を確保すること。この考えを、目標を「堅実に」達成するための一つの方法論として提唱します。


さらなる思考

時々「何もしたくない」と言う人を見かける。けれども、その人は本当に「何もしたくない」のだろうか。

「何もしたくない」という言葉はきっと嘘だろうと、僕は思う。人間はじっとしていることができないのだから。たとえ休日であっても、あなたは何もしないということはできない。例えば、YouTubeの「あなたへのおすすめ」の動画を見続ける。買い物に出かける。何らかの行動で時間を塗りつぶすだろう。

現代には、何かのための時間しかないのではないだろうか。すなわち、スケジュール的な時間時計やカレンダーが表すような時間と言ってもいい。「なすべきこと」で埋めるべき時間である。これらは、平均的・等質的な時間と呼べる。

上のような平均的・等質的な時間を、批評家の小林秀雄は「飴のように延びた時間」と表現した。一方で、これとは本質的に異質な時間があるように思われる。

すなわち、「飴のように延びた時間」から断絶させてくれる時間――それは「聖なる時間」「瞬間が永遠と合一する時間」と呼ばれうる時間――である。そのような特権的な時間を人は欲しているのではないだろうか。

かつてハレの日と言われたような、世俗化された日常から切り離された時間に触れる日。その日こそ、真の「休日」「祝日」と呼ぶことができる。予定でびっしり埋められた休日や、なんとなくネットを徘徊するような休日は、「休日」の意味を果たしていない。

現代日本に住まう無神論者に、真正な「休日」や「祝日」は果たしてあるのだろうか。


思考の材料


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