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大衆はどこにいるのか?
哲学を学ぶと、現代の”常識”と呼ばれるものがどれだけ一時的なものかが感じられるようになります(そして捻くれていきます)。それで、「現代人は~なところがバカだよね」とか考えたり言っちゃったりします。
けれども、哲学を学ぶ自分もふつうの現代人として日常生活を過ごしているわけですから、自分で自分に説教しているとも言えます。
哲学を学んでいる自分は特別だぜ!と僕は思っているけど、実情は凡庸な大学生の一人です。僕が専らやっていることと言えば、YouTubeの再生数1を刻むくらいのことなのです。
僕は一般人の一人だという意識がうっすらあります。そこで本記事で考えたいのは、大衆や一般人と呼ばれる人々の存在についてです。
ひとまず無名な人間の集合を「大衆」及び「一般人」と考えることとします。たぶん、僕も読者の皆さんも、歴史に名前が残らない人として死んでいくので(すみません)、パンピーです。
そのような大衆は中立的で没個性的だと言われます。つまり、そういう大衆を、哲学者やら社会学者がけしからんと言うわけです。
それに対して、学者センセーが言う大衆ってどこにいるんだろうって僕はふと思ったのです。なぜなら現実に生きているのは個別具体的な人しかいないからです。
みんなオリジナリティーを持って生きています。顔立ちのような身体の特徴、声、性格、母語、考え方、服装、住んでいる場所、趣味など、様々な要素が絡まり合って「自分」はできています。
たとえ遺伝子が同一の双子であっても、人格は変わりますよね。てか、双子ってたいていの場合生育環境までほぼ同じじゃないですか。それでも、兄弟で差異が生じる。
ということはなおさら、人間一人一人は代替不可能な存在と言えそうですね。
学者は概念を用いて世界をある一定の視座から把握しようとしますから、結局一側面しか見れないのでしょう。(もちろん、概念は複雑な世界の現象を人間が理解できるようにさせてくれるという点で、なくてはならないでしょう。)
ビジネスにおけるカスタマー(顧客)とかもそうですよ。GoogleやAmazonがいくらパーソナライズしてこうようが、データのとれる範囲での個人の一側面を見ているにすぎないのですからねっ。
僕としての結論は、自分が大衆的な側面(みんなと同じ)であることを認めつつ、「オレはオレだぜ」と主張できる領域があればいいんじゃないのということです。というか、わざわざ主張しなくてもすでにオリジナリティーは形成されちゃってますぜ。
思考の材料
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