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言葉が過剰な時代に、どのように言葉を紡いでいくか

1. 話し言葉と書き言葉

人間の生活と言葉は不可分の関係にあるけど、従来の関係とは少し変わった付き合い方になってきているのではないかと思うんです。

いま人間と言葉は「新しい関係」にあると言える。なぜなら、書き言葉が話し言葉の影響を強く受けるようになっているからです。

インターネットの存在が大きいと思うのですが、この僕のnoteみたいに「誰かに語りかけている風の文体の文章に多く触れるようになっていますよね。いまの僕の文体からは、教科書や論文みたいな「お硬い文体の書き言葉とは異なる印象を受けると思います。

LINEやTwitterのようなSNS、このnoteもそうですね、これらの興隆によって、「みんなに話してます風」「自分語り風」の言葉に僕たちは取り囲まれるようになったわけです。

この言葉の変容について、今回は考えていきます。それは、みんなの話し言葉がテキスト化、つまり「文字化」して溢れているというこの時代状況について考えることでもあります。

2. 言葉のエリートからの解放と逸脱

最近はあまり聞かない気もするけど、僕が子どものころは「若者の言葉の乱れ」、とか言って怒ってるおじさんおばさんがけっこういたんですよね。でも言葉は変化していくものです。言語学では、言語の経済性と言って、言葉はより効率的にコミュニケーションできるように変化するものだと指摘されています。

言葉は本来音声であり、生身の人間同士がコミュニケーションをとるために存在していました。文字がない言葉はあるけれど、音声がない言葉は存在しません(ラテン語のように、話されなくなった言語というものはありますが)。言葉はその場限りのコミュニケーションツールとして、進化の過程で習得したものだと思われます。

やがて、文字という発明によって、人間は思考の過程を残せるようになりました。いまここにいない人にも自分の思いを伝えられるようになったわけですね。すごい!

ただ、今まで本のような形で言葉を残せたのは、知識人、学者、新聞記者、ジャーナリストなど頭のいい人たちに限られていました。加えて、みんな学校で標準語(という名の東京方言)を習うわけです。言葉を、採点される。すると、どこか「正しい言葉」があって、しかもそれは「論理的に構成された文章」という形で記述されているみたいに考えられちゃったんじゃないかなぁと思うんですよね。

知識人の言葉から、大衆の言葉

でも、いまは僕たち一般人でも好き勝手書けるようになったわけですよ。しかも、会話のノリで。インターネットには毎日、誰も読み切れないほどの言葉が記述されています。

テクノロジーが、「コミュニケーションできる人は実際に会って話せる人だ」という制約、出版物を刊行できるほど偉い人でないといけないという制約を破壊したのです。また、書き言葉(論文調)から話し言葉風の文体の書き言葉に出会うことが多くなったのです。

3. 言葉とどのように向き合うか 人間は言葉の番人である

では、私たちはこの「言葉が過剰な時代」にどのように向き合えばいいのでしょうか。以下、今の書き言葉の性質を僕になりに考えてまとめてみました。

現在の書き言葉の性質

自分が触れる言葉は、自分の思考の源泉です。となれば、触れる言葉の「質」が悪ければ、思考の質も落ちていくでしょう。悪意のある人の言葉や、論理的に構成されていない質の低い文章に触れることが多くなればなるほど、アホになっちゃうのではないかと思うのです(このアホという表現自体、あまり適切ではないですね)。

吟味されていない言葉に触れることは、害であると言えると僕は考えています(あ、でも思考のサンプルとしてヤバい奴の過激な考えを見聞きするのは楽しいのですけど)。

このようなネガティブな側面はあるけれど、今の書き言葉のメリットは人類にとって計り知れないと僕は考えています。特権的な人だけが関われた書き言葉の世界に、みんなが参加して議論できるようになったわけですから。私たちは、各人が「自分はこう考えたよ!」と言える素晴らしい時代に生きているわけです。このnoteというサービスにも感謝。Danke schön!

ハイデガーというドイツの哲学者は、「言葉は存在の家である Die Sprache ist das Haus des Seins」とその著書で述べています。言葉には、「ーは~である」と「あらしめる」力があるわけです。その言葉は、人間だけが操れます。言葉を、存在を守る責任が人間にはあります言葉が過剰な時代に、よりよい言葉を紡ぎ言葉を守り抜く「番人」として人間はあるべきなのです。


思考の材料

参考文献

今井むつみ『ことばと思考』、岩波新書、2010年

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2012年

フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』町田健訳、研究社、2016年

マルティン・ハイデガー『「ヒューマニズム」について』、ちくま学芸文庫、1997年

丸山圭三郎『言葉と無意識』、講談社現代新書、1987年

丸山圭三郎『ソシュールを読む』、講談社学術文庫、2012年

その他

僕が受けた言語学の講義


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