言葉が過剰な時代に、どのように言葉を紡いでいくか

本記事は、僕のnote初期に出した記事のアップデート版になります! 論文として仕上げました😁

1. 言葉と人間の新しい関係

 言葉と人間は、相互にその存在を支え合う関係にある。すなわち、言葉があるから私たちは現在のような生活が営める一方で、人間が存在し言葉に関わらなければ言葉は存在しないという関係である(1) 。

 ところで、言葉と人間の関係は、従来の関係とは少し変わったものになってきていると言える。というのも、その関係がインターネットの影響を大きく受けているからだ。すなわち、インターネットの普及によって、書き言葉(文字言語、エクリチュール)は話し言葉(音声言語、パロール)の影響を強く受けるようになり、人が触れる言語に変化が起こっている(2)。より具体的に言えば、LINEやTwitterのようなSNS(Social Networking Service)、ブログなどの流行によって、書き手が読み手に「話しているかのような」言葉に私たちは取り囲まれるようになったということである。

 私たちが普段触れる日本語で考えてみよう。インターネットを利用すると、「〇〇です」や「〇〇ですよね」といった丁寧なもの、あるいは「〇〇だよね」や「〇〇だろ」といった砕けたものなど、様々な「誰かに話しているかのような書き言葉」を目にすることが多いのではないだろうか。それらからは、教科書や論文のような「硬い」文体の書き言葉とは異なる印象、親しみやすい印象を受けるはずだ。

 本稿では、このようなインターネットの普及に伴う言葉の変容について見ていく。つまり、書き言葉がますます「話し言葉化」しているという事態について検討する。そうすることで、話し言葉が「文字化」して溢れ、過剰になっているという状況から「言葉と人間の関係」を、改めて問うことができるのである。

 本稿の内容は以下のとおりである。まず、元来音声である言葉が「言葉のエリートたち」によって統制されてきたことを見る。次にインターネットはそのような統制から言葉を開放したことを指摘する。その開放は個々人が自由に言葉を発信し、言葉が過剰になることを意味するのだ。最後に、過剰になった言葉に対し人間がどのように関わるべきかについて、現象学的な立場から提案する。

(注1)このことは、存在と人間の関係についても言える。Heidegger、1927年、7頁参照。

(注2)本稿では、デリダのロゴス中心主義・音声中心主義(エクリチュールに対するパロールの優位)に対する批判については深く立ち入らない。というのも、第2章で述べるように本稿では「言葉とは第一に音声である」ということを明確に主張したいからである。とはいえ、ここで現在の「話し言葉風の書き言葉」の「隆盛」が音声中心主義的なのかを少し検討しよう。今後もパロール(音声言語)に影響されたエクリチュール(文字言語)が拡散されていくことが予想される。だが一方で、文字ないし記号からパロールへの影響も決して無視できないのだ(例えば、ぴえん🥺やまんじ卍など)。したがって、単純に音声(フォーネー)がエクリチュールを抑圧しているとは言えないだろう。むしろ、今後ますますエクリチュールとパロールの境界が曖昧になっていくはずなのだ。音声中心主義については、デリダ、2012年、15-18頁及び高橋、2015年、82-87頁参照。

2. 文字の発明と「言葉のエリート」の誕生

 進化生物学によれば、人類であれば誰でも文法構造を持ち、分節に分けられる言葉を話す(3)。言語はヒト(Homo sapiens)特有の現象であり、ヒトの脳に深く組み込まれているものである(4)。つまり、言語には生物学的基盤があるのだ。

 言葉には2つの側面がある。すなわち、音声コミュニケーションという側面と、世界の認知という側面である。本稿の関心で着目すべきなのは、言語が進化の過程で音声コミュニケーションとして発達したということだ(5)。対して、書き言葉が発明されたのは人類進化史の中でもごく最近、数千年前のことなのである。文字という発明によって、人間は思考の過程を残せるようになった。さらに、印刷技術の向上や各種メディアの発達によって書き言葉に多くの人が触れることになる。

 近代以降、国語教育が推進された日本では、書き言葉は「国民」を創設するための重要な要素となった。つまり、教科書が基準となって、自らの書き言葉、さらには話し言葉が「教育」されたのだ。試験を課され、採点されることによって子どもたちは「正しい言葉」を身に着けたのである(6)。

 では、教科書に記載される言葉を吟味したのは誰だろうか。「国民」が「国語」として身に着けるべき「標準語」を定めたのは誰だろうか(7)。それは、一部の学者と官僚である。彼らが教科書に載せるべきだと判断したものが、記載されたのである。そのような書き言葉の「権力」を行使したのは、何も学者や官僚だけではない。新聞記者、ジャーナリスト、雑誌の編集者もそうである。

 つまり、インターネット登場以前までは、「標準的な」書き言葉の出版に立ち会える「言葉のエリート」が、多くの人の言葉(各人がひとりでに身に着けた母語)に介入するという「権力の行使」を極めて一方的になしていたと言えるのだ(8)。

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(注3)「文法や語彙数からみた言語の複雑さは、文明の程度とは関係がなく、狩猟採集民であれ、遊牧民であれ、現代産業社会に住む人々であれ、同様な言語能力を備えており、相互に翻訳することが可能で」ある(長谷川寿一・長谷川眞理子、2000、263-264頁)。なお、言語運用能力だけでなく、人間の心のメカニズムは「進化の産物」であるとする進化心理学(evolutionary psychology)の知見は人文社会科学の研究においても見過ごすことができない。

(注4)本稿では、言葉と言語を同じ意味で用いる。それらの使用は、語感によって変えている。

(注5)文字がない言葉はあるが、音声がない言葉は存在しない。ラテン語のように現在話されていない言語もあるが、それでもかつては話されていたのである。

(注6)このような「教育」が、現在でも多くの国家でなされている。言葉の正統性(正当性)については、古代ギリシャや古代ローマからそのような思想が認められる。田中、1981年、2-52頁参照。

(注7)「標準語」と言う場合の「標準」は、どのような意味なのだろうか。首都で話されている日常の言葉を指すならば、標準語とは「首都方言」(日本語であれば「東京方言」)と言える。田中、同書、19頁参照。

(注8)筆者は、エリートによる言葉の占有が端的に「悪かった」と主張したいのではない。例えば、「国語教育」は、読み書きという技術習得のために必要(読み書きは学習しなければ身につかない)であり、体系化されていたほうが「効率がいい」。ただ、その場合でも多くの人にとって書き言葉が「所与のものでしかない」ことは問題であるだろう。

3. 知識人の言葉から、大衆の言葉へ

 人類は皆自然と音声言語を習得するのだが、近現代の日本においては特に教育制度によって国民は一方的に「読み書き」を習うようになった。多くの国民は文字に習熟しても、教科書や書籍、マスメディアなど限られた媒体を通して提示される書き言葉をただ読むのみであったのである。

 だが、インターネットの発達と普及が、言語環境を大きく変えた。すなわち、多くの人が自分専用のスマートフォンやパーソナルコンピューターといったデバイスを所持し、多様なネットサービスに登録し、日々利用するようになったという状況──このような状況が、各個人が関わる言語の、そして言語そのものの変容をもたらしているのだ。

 各個人は、インターネットを利用することによって知識人や著名人だけでなく一般大衆(何らかの「つながり」があれば誰でも)の書き言葉も読めるように、発信できるようになった。さらに、利用履歴や閲覧履歴をもとに利用者の好みのページやコンテンツが提示されることによって、自らに関心のある言葉が目に入りやすくなっている。また逆に、その機能を用いて言葉を提示しやすくもなっていると言える(9)。

 言語そのものについては、冒頭でも言及したように、SNSの興隆によって「誰かに語りかけるような」書き言葉が増えたと指摘することができる。それらの多くは、短文かつ平易な表現である。Twitterの「つぶやき」という表現が象徴しているように、世界に開かれた「公」の場に「私的な」言葉が日々発信されている(10)。

 情報技術が、その場に居合わせていなければ自らの言葉を届けられないという音声言語の制約、また出版物を刊行できる立場でなければ書き言葉を広められないという制約を破壊した。そのような破壊を通して、人間と言語の関係が、また言語それ自体が変化しつつあるのである。

(注9)例えばweb広告を、特定の年代や性別に絞って打つことができる。

(注10)「つぶやき」はパロール(音声言語)だろうか、エクリチュール(文字言語)だろうか。それらの境界線が曖昧になっている。

4. 過剰な言葉とどのように向き合うか──2つの提案

 「エリート」からの制約から逃れた言葉は、今やインターネットというヴァーチャルな空間で際限なく「増殖している」。音声言語は発語した瞬間に消えてゆくが、文字言語(あるいは動画のようなコンテンツも考慮すれば音声言語も含まれる)は、その空間に残存し、拡散していく。そのような意味で、私たちは「言葉が過剰な時代」にいると言える(11)。

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 過剰な言葉と、人間はどのように関わっていくべきなのだろうか。誰もが自由に発信できるからこそ悪意のある言葉、虚偽内容が含まれた言葉も溢れている。言論嫌い(ミソロゴス)にならず、言葉を信頼し、言葉を紡いでいくにはどうしたらよいのか(12)。

 本稿では、言葉との関わり方について2つ提案しよう。すなわち、「主張の根拠を意識する」という方法と、「現象学」という方法である。

 主張の根拠を意識するとは、何をもとにしてその言葉ないし情報が発せられたかを意識するということである。発信者がどのような根拠で、またどのような意図で言葉を発信しているのかを推測するのだ。そのような姿勢によって、「過剰な」言葉の中から重要な言葉をある程度選り分けることができるはずだ。自らが発信する場合も、根拠と意図を気にかけるべきだろう。

 現象学(Phänomenologie)とは、一人称的な観点から自らの経験について探究することで「世界」を理解するという哲学的態度である(13)。すべての事象は、「この私」に現れるものであり、そのように現れるものとして経験されるのである。ここには、人間と言葉と現象の深い関わりがある。すなわち、現れるものを見えるようにする(sehen lassen)のが言葉(ロゴス)である一方、人間が存在しなければ事象は現れることができず、言葉も機能しえないのだ(14)。

 哲学者マルティン・ハイデガーによれば、「言葉は、存在の家であると同時に、人間本質の住まいである」(15)。「この私」に現れ経験される世界、まさに生きている世界を、丁寧に読み取り言葉にしていくこと──これは、言葉に関わる人間だからこそできるのである。

(注11)言葉よりも広く、「情報が過剰な時代」とも言えるだろう。

(注12)言論についての技術(テクネー)がないために言葉を信じられなくなった人が、言論嫌い(ミソロゴス)である。プラトン、2019年、148-152頁参照。

(注13)現象学は、哲学以外の諸学問にも有効な一つの手法である。また、現象学が言う「世界」とは、「この私」が経験するあらゆる対象が含まれる(例えば、物、自己、他者、社会、抽象的なもの、出来事など)。詳しくは、吉川、2017年、4-18頁参照。

(注14)Heidegger、1927年、34-39頁参照。

(注15)ハイデガー、1997年、137頁参照。

参考文献

Heidegger, Martin, Sein und Zeit (1927), Tübingen: Max Niemeyer 2006.(マルティン・ハイデガー『存在と時間』全四巻、熊野純彦訳、岩波文庫、2013年)
吉川孝「現代現象学とは何か」植村玄輝・八重樫徹・吉川孝編『ワードマップ 現代現象学』新曜社、2017年
ジャック・デリダ『グラマトロジーについて(上)』足立和浩訳、現代思潮新社、2012年
高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』講談社学術文庫、2015年
田中克彦『ことばと国家』岩波新書、1981年
長谷川寿一・長谷川眞理子『進化と人間行動』東京大学出版会、2000年
プラトン『パイドン——魂について』納富信留訳、光文社古典新訳、2019年
マルティン・ハイデガー『「ヒューマニズム」について』渡邊二郎訳、ちくま学芸文庫、1997年

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