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hyper-Δ項 虹、そして金星 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(22)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を意味分節理論の観点から”創造的”に濫読する試み第22回目です。

これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。


前回の記事では、図1に示す八項関係においてΔのうちのどれかひとつが空っぽの「抜けた穴」になった場合、そこにしばしば「プレヤデス星団」という項が充当されるという話を検討した。

図1

なぜ唐突に「プレヤデス」なのか?

それはプレヤデスと非-プレヤデスの対立関係「分節している/分節していない」「存在する/しない」といった極めて抽象度の高い対立関係に置き換えられるものだから、である。


七色に分かれる虹

神話には、しばしばプレヤデスと置き換え可能な項として「」が登場する。

虹は、七色が一つの束になったものとして経験される。
このことが端的に、「虹」という項を「分節していること」の象徴にする。

分節していること / 分節していないこと
||
虹 / 非-虹

神話は「経験的な区別」を「概念の道具」にして、「抽象的観念」を思考する。

虹は「ひとつ」でありながら七色である。
七色、つまり七つに分かれている

七つに分かれていながら、個々の色がバラバラになることはなく、ひとつの「束」になっている

虹は分節しながら繋がっている、分かれながら繋がっている、束。

レヴィ=ストロース氏は『神話論理1 生のものと火を通したもので次のように書く。

は[…]雨の終わりを告げる。第二に、虹は病気とさまざまな天災の原因である。虹は第一の相では、雨に媒介されて繋がっていた空と大地分離する。第二の相のもとでは、正常で善をなすこの結合を異常で害をなす結合に置き換える。そのとき虹は水に取って代わり、自分で空と大地を結合する。」

『神話論理1 生のものと火を通したもの』pp.347-348

この一節は非常に重要である。
神話論理の「論理」のエッセンスが凝縮されているといってもよい。

上に引用した箇所を詳しく読んでみよう。

分離の象徴としての虹 / β分離とβ結合の分離と結合

まず虹の第一の相。
に媒介されて繋がっていた空と大地分離するものとしての虹である。

空 =>結合する”雨”<= 大地

Δ1 
空 << / 分離する”虹” 〜雨の終わり / >> 大地 Δ2

空(Δ1)と大地(Δ2)の区別と対立は、経験的にきわめて明瞭なものである。経験的に、人間は大地から浮かび上がることはできないし、空を飛べないのである。この経験的にはっきりと分離された空と大地、二極の間に「雨が降る」。

雨は、空から大地へと降り注ぐ。
雨は大地に降りた空のものである。

雨は、空(Δ1)と大地(Δ2)の間を媒介し、結合する。
雨は空の水でもあり、大地の水にもなる。

図1

この点では、図1でいえば、空(Δ1)と大地(Δ2)の対立に対して両義的な媒介項βの位置を占める。注意してほしい。「雨」なるものが”それ自体として”いつでもどこでも、他と無関係にβ項「である」わけではない。「雨」がβ項であるのは、空(Δ1)と大地(Δ2)の対立に、いうなれば「交差」する限りでの話である。図1の八項関係は、あらかじめ個別に存在する項たちが、二次的に結集してこのような陣形をとるものではない。八項関係の八項は、まさにこの関係が分節することーー分かれつつ結合する動きーーを通じて、はじめてひとつひとつ、その姿を人間の思考の中に形成していくのである。

この雨が止むとき、虹が見える。
雨が「大地と空の結合」であるとすれば、この雨の終わり、雨の終わりを告げるというそのあり方において雨と対立する虹は、「反- 空と大地の結合」である。「反- 空と大地の結合」は、つまり「空と大地の分離」である。

β項のペアのペア

雨(β1)と虹(β2)は対立する。

二つのΔに対する両義的媒介項βもまた、他のβとペアになり、対立し、他のβ”ではないもの”である限りにおいて、あるひとつのβとして分節され、その姿を区切り出される。

これを四項関係に描き直すと、結合する”雨”と、分離する”虹”の対立が、空と大地の対立(あるいは神話によっては、病と非-病の対立だったりする)と、直行するように交差(強いて二次元平面に写像して考えるなら)していることになる。

β1結合する”雨”
  Δ1空       +       Δ2大地
β2分離する”虹”

Δ項の対立関係に析出されるのは、経験的な事物のあいだに感じられる差異であるのに対し、β項の対立関係に析出されるのはしばしば「抽象的な」対立である。それこそ「結合」と「分離」の対立のような。

意味分節のアルゴリズム

私たちが通常「○○は××だ」式に思考する意味(仮に表層の意味と呼ぶ)の世界は、図1でいえば、最外郭のΔの四項関係を最小単位として、この単位がいくつも連なって、出来上がっている。

図1


Δ1/Δ2

Δ3/Δ4

四つのΔ項は、図1に仮に表す動きにおいては、四角形の四すみに析出される。

これに対して、結合する雨と分離する虹、空と大地の四項は、図1でいえば、β項であり、これはΔの四角に対しては90度回転し、”十字”の形をなす。このΔの四角に対して十字形をなす位置にくるβの四項関係は両義的媒介項=β項の四項関係である

虹は完全分離ではない

「雨」空と大地の対立に対して、そのどちらにもつながりつつ、そのどちらか一方だけのものになるわけではないという点で両義的で媒介的である。

そして「虹」もまた両義的で媒介的である。
「虹」が出現するのは降雨の「終わり」であるが、未だカラリと晴れ渡っているわけではない、空も大地もおおいに湿った状態である。
これは晴天と雨天との中間のどちらでもない領域である。

この中間領域において、大地と空は、いまだ繋がったまま、しかし、切り分けられようとしつつある

雨の世界がいわば”完全な”結合で、虹の世界がいわば”完全な”分離であるということではない。雨でも虹でも、どちらにしても空と大地はまだ分かれながらも繋がっている。ただし、より強く結合しようとする方向で繋がっているのか、分離しようとする方向で繋がっているのか、ここに雨と虹の対立がある。

雨と虹の対立が、結合的媒介と分離的媒介の対立に重なる

雨 / 虹
×
結合的媒介 / 分離的媒介

両義的媒介項がつかずはなれず脈動する動きを、言葉によって思考する

ところで、ここで注意が必要である。
雨/虹、結合的媒介分離的媒介。
この二つの対立関係が対立する「向き」は決まっていない。

虹は、神話の語りによっては、上の場合のように分離的媒介のポジションに収まる場合もあれば、逆に結合的媒介のポジションに収まる場合もある

これが上の引用でいう第二の相、β項「虹」が「自分で空と大地を結合する」ものにもなる、という話である。

話が錯綜して申し訳ないが、ここが分かると神話論理が分かるのだと思う。

図1の図式でいうと、Δ項たちには経験的な(仏教の言葉でいえば前五識での)分節によってはっきりと区別され、対立関係にあるもの(というか情報)が収まる。そうなると両極に対立するふたつのΔは容易には混じり合わない。

それに対し、βの対立関係は四つに広がったかと思えば一つに収縮し、収縮して密着したかと思えば、四つに別れようとする、分離と結合のあいだで脈動し続ける

この脈動の中で、四つのβ項同士が互いに「変身」するようなことも起きる。つまり「虹」がそれと対立する「雨」が先程まで析出されていた位置に析出されたりすることもある。

虹と雨をβ項に充当し、空と大地をΔ項に充当した場合、
これを初期条件として神話の論理が動き出し、神話の語りを創造する。

脈波のパターンのようなものであるβ虹は、対立する両極の間で一方から他方へ変身したり、ある二項を結合しつつ同時に別の二項を分離する(分離することと結合することを分離しつつ結合する)といった動きとして語られる。

虹の二という側面

これに続いてレヴィ=ストロース氏はの「二という側面」にフォーカスする(『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.349)。

たとえば、ある神話では、その結論部において虹が二つに分かれる話がある。西の虹と東の虹、上の虹と下の虹、魚の主としての虹と陶土の主としての虹といったことである

西の虹 / 東の虹
上の虹 / 下の虹
魚の主としての虹 / 陶土の主としての虹

ある種の神話の最後で、なぜ虹が、「二」に分かれるのか。それは神話の語りが終わり、日常の世界へと帰ってくるとき、ほとんどの場合、β項たちを脈動させたまま語りを終ることをせずβ項たちを「排除」して、四つΔ項の関係だけを全面に打ち立てて、そしてΔたちの対立関係が安定しました、というところでもって語りを終わらせようとするからである。

虹は、大地と空や、正常と異常といったΔの対立関係に対しては、両義的媒介項βの位置を占める。

β項としての虹をそのまま神話の語りの最後まで置いておくことはできない

神話の論理は虹を、β項の空間から、Δ項の空間へと写像させようとする。このとき、一つのβ虹は、二つのΔ虹に分かれてみえるようになる。

西の虹Δ1 / 東の虹Δ2
上の虹Δ1 / 下の虹Δ2
魚の主としての虹Δ1 / 陶土の主としての虹Δ2

ここが肝心である。
「二」であるΔ虹は、同時に、隠れた、潜在的なβ虹でもある


二つのΔが同時に、潜在的にβであること
相対的にさまよう惑星

β項としては「一」でありながら、Δ空間に写像されるとΔ項としては「二」になるもの虹もそうだし、前回のプレヤデスも、そして「金星」や、「樹木」も、そうした二Δ項に分かれてもいるβ項である

神話M138をみてみよう。

かつて金星は人間の男の姿で、人間たちとともに暮らしていた

『神話論理1 生のものと火を通したもの』 M138

図1を片手に分析してみよう。

金星が、人間の姿で、人間とともに暮らしている。
これは神話の始まり、この間の検討においては仮に”α未分離”と呼んでいる状態である。

このα未分離を言語化するために、二つのβ項、この場合は「β1星と一緒に暮らしていたかつての人間」と「β2人間と一緒に暮らしていたかつての星」が区別できないほどひとつになっている、ということになる。

つまりβ項とβ項の過度の結合関係によって、α未分離を象徴するわけである。

金星の体は悪臭のある潰瘍に覆われていた。
ほかの人々は、自分の家にこの金星男が入ってくることを許さなかった。

『神話論理1 生のものと火を通したもの』M138

ここで神話はおもしろい展開をする。

金星男は人間のような、というか人間そのものの身体を持っており、”潰瘍に覆われる”という姿になることもできるような存在である。ほとんど人間、どう見ても「星」という感じがしない、完全に人間のおじさんなのに金星、というのがα未分離状態にあるβ項らしい姿である。


β項×4の過度な分離と過度な結合のあいだの脈動

しかしここに分離が動き出す。
四つのβ項が、一つに収縮したり四つに分離したりと、脈動し始めるのである。

このβ項金星男は、他の人々の家に入ることを許されなかった、というのである。ここにβ1”金星男”とβ2”星と共に暮らしていたかつての他の人々”との分離が生じる。しかし分離したといっても、個々の家に入れないだけで、同じ集落の仲間としてはまだ一緒に暮らしている。分かれているが繋がっているし、繋がりながらも分かれている、分離と未分離(結合)の間の微妙なバランスが、この金星男と他の人々との「つかずはなれず」の関係から浮かび上がる

とはいえ、同じ集落に暮らしながら決して家に入れないとは、やはり異様な感じ、過度な分離の気配がある。

α金星男 >< 結合 ><α他の人々

 / β3潰瘍ー悪臭

β1金星男 << 分離 >> β2他の人々

ここで「潰瘍ー悪臭」こそ、β金星男と他の人々の間を結合しつつ分離する、三つ目のβ項であるといえようか。

匂いというのは、匂いの発生源とそれを嗅ぐ者の間に距離を隔てる(つまり分離する)と同時に、匂いそのものによって感覚レベルで両者を結合する。

ふと「薫習」という言葉を思い出す。

ここで神話はおもしろい展開をみせる。

しかし、ワイカウラという名の男だけが金星を家に迎え入れた
ワイカウラは金星を真新しいゴザに座らせ、礼儀正しく接した。
潰瘍の傷を洗うための湯を用意し、娘の膝に金星男を座らせて手当てをさせた。

『神話論理1 生のものと火を通したもの』M138

金星男を家の中に迎え入れる「ワイカウラ」という人物が登場する。
金星男とワイカウラは分離せず結合する。
金星男の傷の汁で汚れることも厭わず、新しいゴザに座らせる。
さらには娘の膝の上(!)に金星男を座らせて、潰瘍の手当てまでさせる。

過剰とも言える身体接触。
他の人々が金星男を家に入れようとしない、というところで生じた「分離」が、ここでは「結合」へと逆転する。

娘の人格は尊重されないのかと心配になるが、これはあくまでも神話である。金星男もワイカウラの娘も、あくまでも八項関係に分節した「」である。別の神話ではこれが逆転して、金星が女性で、主人公の娘ではなく「息子」が登場するパターンもある。二項対立関係の対立関係の対立関係が八項関係をなしていることが重要なので、個々の項目がそれ自体として何であるかは大きな問題ではない。

仮にワイカウラとその娘をまとめてβ4と置こう。

四つのβ項たちの間で、過度な分離と過度な結合が急展開する。

四つのβ項が登場したところで、神話はΔ空間を発生させる、四Δ項の分離へとフェーズを移す

この神話が分節するΔ項の第一は「死」(生/死の分節)である。

、金星がワイカウラに「何がほしいか」とたずねた。

ワイカウラが何を問われたかわからず困っていると金星はさらにたずねる。

生きることか? 死ぬことか?

実は、人間たちがたがいに殺し合う様に腹を立てた太陽が、近々人間を罰する予定なのだという。
金星はワイカウラにこっそり逃げる準備をするようすすめた

金星はハトの骨で船を作り、ワイカウラと家族はそれに乗り込んだ



金星は、旋風に運ばれ空に昇って行った

遠くから雷鳴が聞こえ、水が村に押し寄せ、多くの人が溺れた。
溺れず生き残った人々も、すぐに寒さと飢えで死に絶えた。

『神話論理1 生のものと火を通したもの』M138 p.354

「ソドムとゴモラ」のロトの家族の話や「ノアの方舟」の話を思い出す話である。あるいは蘇民将来もこれと同じ八項関係を分節しているのかもしれない。レヴィ=ストロース氏は「超自然の人物が、老人や身体障害者、貧者などという人間の姿をとって、人間の雅量を試す神話は新世界の端から端まである」と書く(p.360)。

上の引用を詳しく見てみよう。

まず夜になる。

夜といえば金星が夜空で可視化される時間である。
夜、私たちが経験できる金星の姿を取りうるようになった金星は、生と死の分離を告げる。ここでそうとは書かれていないが、β項金星男が、Δ項金星へと変身しはじめる。

そしてワイカウラとその家族だけを生き延びさせる
金星は、生き残るべき人間と、死すべき人間を分離したのである。

Δ1生 / Δ2死
||
ワイカウラの家族 / 非-ワイカウラの家族

金星を家に入れることを拒んだ人々は「死」の側へ振り分けられ、金星を助けたワイカウラの一家は「生」の側へ振り分けられた。

こうして生き残ったワイカウラの子孫たちが、どうやら今日まで生きている人間たちであり、そして金星自身は「空に昇って」、潰瘍に覆われた男の姿ではなく、私たちがいつも空に見ることができる経験的な金星になる。

金星は女性?男性?

ここでレヴィ=ストロース氏が注目するのは金星である。

金星は、この神話では悪臭を放つ男であり、清浄/非-清浄の区別でいえば、前者の側と結合する者である。

しかし別の神話(前に紹介したM5)では、金星は純潔な女性だった。

Δ男性 / Δ女性
Δ非-清浄 / Δ清浄
Δ汚すもの / Δ汚されるもの
||
β金星

経験的にはっきりと区別されるΔ両項に対して、金星はどちら側にも収まることができている。金星はβ両義的媒介項の位置を占めている。

なぜ金星が両義的媒介項の位置に収まりやすいかと言えば、それは地上から観測できる金星の運行が、星座レベルの天体の運行に比べると、相対的に彷徨っているように見えるからである(この話は『神話論理』の後の方につながっていくのでその時に詳しく読んでみよう)。

いま注目したいのは、両義的媒介項の位置を占めていた金星が(上の神話でいえば、「潰瘍に覆われた男の姿で人間の村に暮らしていた金星」)が、そのままの姿、β項の姿のままでは神話の語りを閉じることができず、ひとつのΔ項へと変換される、ということである。

** **

さてそれでは、このΔ化した金星とペアになるΔ項は何だろうか。

この金星男とワイカウラの神話を読んでも、それがどうもよくわからない。
直接的にΔ金星と対立する非-Δ金星に関する話が残されていない。

この神話、よく眺めてみると少し中途半端に終わっているような気配がある。ワイカウラがどうなったのか、何も語られていないのである。虹が二つに分かれる、といった丁寧さでΔ項の分節を語る神話に比べると、どうも中途半端である。

あるいは、天に昇ったΔ金星と対立する非-Δ金星は、地上に残って生き続けたワイカウラの子孫たち以外にはなく、あえて語る必要もない、ということかもしれない。

そういえばワイカウラをふくむ人々もまた、もともとは金星と共に暮らしていた、金星の仲間の片割れなのであった

天に昇った金星と、地上に残ったワイカウラの一族は、どちらも”β金星男とその仲間たち”が二つに分かれたものなので、ある。(ということにしておこう)

つづく
↓つづきはこちら


”虹の金星 曼荼羅風”をAIに描いていただくとこのようになる


同上
ただし円の周囲が宇宙風になっている。
宇宙の「黒いところ」は何も存在しない空っぽの領域ではない。
人間が「光」でもって観測しにくいだけで、
あるとかないとか、空っぽとか充満とかは別問題である。


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