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C.S.パースのイコン、インデックス、シンボルと、脳と記号過程 ー テレンス・ディーコン『ヒトはいかにして人となったか』を手がかりに

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テレンス・ディーコンの『ヒトはいかにして人となったか』を読んでいると、パースの記号論が取り上げられていた。

『ヒトはいかにして人となったか』では、人間の言葉動物の叫び声やジェスチャーとの「違い」を問う、という問題を立てて、人間の言葉とは何かをあぶり出していく。

パースの記号論はこの違いを理解する鍵として参照される。

パースの記号論は、イコン、インデックス、シンボルを区別する。

ディーコンはこのイコン、インデックス、シンボルという記号の三つの姿から、人間の言語動物のコミュニケーションと「違う」ところを明らかにしようと試みる。

以下、ディーコンによる鮮やかな解説に従って、イコン、インデックス、シンボルの区別を整理してみる。 

【1】イコン ーアイコニックに見ること

何かが何かのイコンであるとはどいうことか。

たとえば、りんごそのものと、紙に描かれた赤くて丸いりんごの絵。

りんごそのものの方を「対象」と呼び、赤くて丸い絵を「サイン」と呼ぶ。

ここで後者が前者の「イコンである」ということは、サインと対象の相似性による。相似性、似ているということ。

何を当たり前のことをと思われるかもしれないが、興味深いのはこの後である。サインと対象が似ている、というのは、ふたつのものが客観的に、物的に、それ自体として、同じようであるということではない。

似ているということの要点は、もの同士が”あらかじめ似ているから”似ているということではなく、人間を含む生物個体が、異なったもの(場合によっては互いに似ても似つかないもの)同士の間を「この二つは違うものだけれども、同じような具合だ」と結びつけることにある。

ディーコンは次のように書く。

もともとイコンであり、インデックスであり、シンボルであるものはなにもない。それに対応する反応によって、そのように解釈されるのである。(『ヒトはいかにして人となったか』p.65)

似ているような気がしてしまう。この異なる刺激の間に「同じさ」を見出してしまうことを「解釈」と呼ぶ。

一つのものの特徴が、その相似のゆえに他のものを想起させるときだけ、その関係はアイコニックである。相似がイコン性を生じるわけではなく、イコン性は物的な相似関係でもない。それは相似を認知した上での推測過程である。イコン性の概念の批判としてよく言われることだが、相似の漠然性次第で、何でもが何でものイコンになり得る(『ヒトはいかにして人となったか』pp.65-66)

似ているのは「物的な相似関係」があらかじめ存在するからではなく、解釈、推測次第である。大きくかけ離れたような何かと何かであっても、「何でもが何でものイコンになり得る」のである。

誰かがふたつのものを見比べて、一方を他方のイコンだと解釈する。

身体表面から脳に至る神経ネットワークが行う「異なるけれども、同じ」と分節していく操作が、何かと何かをアイコニックな関係にあるものとして解釈する。

台所に転がっているりんごと、りんごの絵。

このふたつは「もともと同じ」なのではなくて、「このふたつは似ている」と私が気づき「解釈」するから、似ているということになる。その時に、絵がりんごのイコンに「なる」わけである。 もともとイコンだったのではなく、解釈が赤クレヨンの落書きをりんごのイコンにする

リンゴの絵を構成する紙の繊維に絡み付いた赤クレヨンの上を歩いている一匹の蟻は「我はリンゴ(あの甘い果汁のあれ)の上にあり」と解釈することは簡単ではなさそうだ。

物それ自体に即して「これは云々のイコンであるかどうか」を決定しようというのはナンセンスであるということだ

物が、解釈をする人間を一人も持たずに、即もの自体同士の関係において何かのイコンであったりなかったりするということはない。

その物を、ある生命体はなにかのイコンだと解釈すればそうかもしれないし、そう解釈しないかもしれない

区別できない

この「異なるけれども、同じ」であると解釈することは、明らかに異なる違いを認めざるを得ないふたつのもののを「まったく違うけれど同じということにしておきましょう…」と、苦し紛れにこじつけることではない

ここでディーコン氏はおもしろいことを書いている(『ヒトはいかにして人となったか』p.71)。即ち、同じであるという解釈は、そもそも「区別をしない」「区別できない」「混同してしまう」ことであるという。

あらかじめ別々のものだと識別区別されたものを、後から今度は無理にくっつけるというのではなく、区別ができておらず、同じか違うかわからない状態なのである。不分明で識別困難であることから「違うような同じような」という解釈推定が意識される。この点でアイコニックな認知は、かっちりとした分節システムである日常の言語の手前、自覚的意識の手前で、動き始めていると言える。

【2】インデックス‐あるいはインデクシカルに見ること

イコンにつづいてインデックスである。

インデクスは「サインと対象のなんらかの物的時間的結合」によって媒介されるものであるとディーコンはいう。

物的結合というのは、ふたつのものが隣り合っていたり、接触していたりするために、同時にセットでまとめて一つらなりに、区別できるようなできないような微妙な感じで知覚され、意識に登るということである。また時間的結合は、ふたつのものが区別できるようなできないような曖昧な状態まま知覚され意識に登るということである。

「これはリンゴです」という音声を耳で聞くと同時に、紙に描かれた紅い丸を見せられる。この時、「ああ、この赤くて丸いものはリンゴというのか」と分かるようになるという類のことがインデックスである。

ここで「インデクシカルな能力は複数のイコン関係から構成される」とディーコン氏は書いている。

インデクシカルな解釈は、日常の連合学習反応のアイコニックな解釈の中に発達した特殊な関係である」(『ヒトはいかにして人となったか』p.74)

インデックスとしての解釈もまた、イコンとしての解釈と同じメカニズムであり、区別できるようなできないような曖昧さを受け入れるということである。

あるイコン(アイコニックな解釈)と別のイコン(アイコニックな解釈)が時間的空間的にセットで出現し、両者の区別が不分明なまま付かず離れず、区別できるようなできないような感じになっているところに、アイコニックな=インデクシカルな解釈が動き出す。

物理的な接触(接近または結合)あるいは予測可能な共生起が、一つのものを他のもののインデクスと解釈する基礎となる。しかしイコンと同じように、これらの物的な特性がインデクシカルな関係の原因ではない。[…]なにかをなにかのインデクスたらしめるものは、なにかがなにかを「指し示す」がごとき解釈反応である。p.73

何かと何かのインデクシカルな関係というのもまた、あくまでも「解釈」によるものであり、この解釈はイコンの場合と同様に「混同すること」である。

何かと何かがたびたびセットで、ペアで、物的、時間的に区別ができないくらいに一緒になって登場してくる。ここで何かと何かを、一方を、他方の登場を推測させるものとして扱うという、インデクシカルな過程が動き出す

何かと何かを異なるものとして区別したり、同じあるいは似たようなものとしてむすぶこと(アイコニックな解釈、インデクシカルな解釈)は、ディーコンによれば「神経過程に内在する推測ないし予測能力」による。この能力が捉える差異と同一性は、もともと自然界に人間とは無関係に所与として与えられているものたちの差異のパターンそのものではなく、あくまでも人間が、一つの生命が、分別識別したりしなかったりする動きに由来する。

【3】シンボル‐あるいはシンボリカルに見ること

さて、最後にシンボル(記号)である。

シンボル(記号)についてディーコンは次のように書く。

インデクスがイコン間の関係から構成されるように、記号もまたインデクス間の(したがってさらにイコン間の)関係から構成される。 

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テレンス・ディーコン『ヒトはいかにして人となったか』
(1997=1999)p.87より

シンボル(記号)は複数のインデックス同士を互いにインデックスとして解釈(混同)する、その解釈=混同する処理のパターンである。このインデックス処理とあのインデックス処理は、別々に異なるけれども同じような感じだ、となることである。

そして、複数のインデクシカルな混同同士を混同するシンボリックな「解釈=混同」の結果として、いくつかの刺激信号トークン(符号)とする分節システム(記号のシステム)が発生する。

ディーコンは「解釈過程いかんで、一つのサイン(刺激信号)がイコンでも、インデクスでも、シンボルでもありうる」と書いている(p.66)。

ある特定の刺激信号となるもの(つまりそれがなんだかまだ不分明なままの、他と区別されるようなされないような微妙な刺激)は、イコンであればインデクスではなくシンボルでもない、という排他的なものではない。

同じと解釈する、あるいは違いに気づかず混同する。この過程にいくつものパターンがあり、それがイコン的(区別がうまくできない・混同する)でもあり、インデクス的(空間的時間的にくっついて一つになっている)でもあり、シンボル的(空間的時間的にくっついて一つになっている事柄同士が、空間的時間的にくっついて一つになっている)でもあったりする。

記号は世界の事物のただの写像ではなく、互いの関係を表すものであるから、レファレントの集合に写像するトークンの構造的集合である。記号は世界の事物を直接に指すのではなく、間接に他の記号を指すことによって指すわけであるから、その実体は組み合わせであり、そのフェラレンス・パワーは他の記号との体制の中で一つの決まった位置を採ることに依る。それを最初に獲得し、使用するには組み合わせ分析が必要である。(テレンス・ディーコン『ヒトはいかにして人となったか』p.102)

記号は「他の記号を指す」のであって、「世界の事物を直接に指すのではな」い。記号は記号から構成されるシステムであり、記号同士のインデクシカルでシンボリックな組み合わせパターンによって、多様な意味を分節する。

何と何を区別しつつ置き換えることができるのか。

逆に、何と何を区別しつつ置き換えることができないのか。 

また、区別と置き換えの産物自体を、別の区別の置き換えの産物と、置き換えたり置き換えなかったりする。

この区別と置き換え関係のパターンが描くネットワークこそが、組み合わせのパターンこそが、言語における意味するということの正体なのである。

この記号同士のインデクシカルでシンボリックな組み合わせパターンを組み替えることで、新しい意味を生じることもできる。

動的記号過程

記号を「固定したモノ」として考えないことが重要である

記号とは、「解釈する=混同する」過程で都度新しく「似たような別のもの」として都度発生するなにかである

この動く過程としての記号は「同じような違うもの、違うが同じもの」を痕跡として残していく。「同じではないが違うわけでもない」という両義的なあいまいさの流れの上にその形を表す「渦」のようなもの、それが記号である、ということになろうか。

つづく


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