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「私」という意味分節のカルマ -井筒俊彦著『意識の形而上学』を読む

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しばらく前から井筒俊彦氏の『意識の形而上学』を読んでいる。

今回は下記の記事の続編ですが、今回だけでもお楽しみいただけます。

さて今回は『意識の形而上学』の最後の部分、締めくくりを読んでみよう。このくだりのキータームは「薫習(くんじゅう)」である。薫習というのは香り(薫り)が移ることである。

例えば、雅な着物に香を焚き染め、香りを移すことは薫習である。

そしてまた、湿っぽい押し入れの中で布団がナフタリン臭に染まるのも薫習である。

よい感じの薫り(かおり)が移るのか、それとも微妙な感じの臭い(におい)が移ってしまうのか、薫習にはなにが染み込むかで二つの道がある。

薫習もまたこの本、『意識の形而上学』においては「双面的」なのである。

ここで井筒氏が注目するのは、『大乗起信論』がこの薫習という言葉の双面性によって、私たちの意識が「覚(悟り)」と「不覚(迷い)」とのあいだを揺れ動く」プロセスを捉えようとしたことである。

即ち、「真如という清浄無垢な絶対存在」が「無明」によって薫習されると妄念への執着と迷いのかたまりになる。

逆にこの妄念への執着「真如」によって薫習されると悟りへと開かれる。

薫習は迷いから悟りへという、仏教を信仰する個人にとって極めて重大な契機に関わる。

言語アラヤ織の生成2パターン

ここで双方向で薫習し・される関係にある、迷いと悟り、「覚(悟り)」と「不覚(迷い)」とは、別ぞれぞれ孤立した二つの何かではなく、ひとつのこと、ひとつのことの二つの側面である。

そしてそのひとつのこととは即ち「個人のアラヤ織」である。

井筒氏は『意識の形而上学』で、この双面的な薫習作用を、個人的かつ超個人的な意味分節体系ダイナミックな構造生成プロセスとして捉えなおす。


意味分節システムとしての言語アラヤ織を、個々人においてある特定のパターンで発生させるプロセスとは、どのようなことになっているのだろうか?

まず「薫習」ということを一般化して図式に表すと、以下のようになる。

a → b
強勢 → 弱勢

注意)「→」は強い方から弱い方への「エネルギー」の流れを表す。

ここで強い方aからのエネルギーにさらされた「弱い方b」は、そのまま安穏とbのままでは居られずに「bの性質は次第次第にaの性質に近付いていく」ということになる(p.145)。bはaに薫習されるうちに、あたかもaのようになっていく。

ここでaのようなb、ちょっと香りを吸い込めば、もうaそのものではないかと感じられるようなbが出来上がるわけである。

このaに薫習されてaのようになったbを、強いて仮に図式化すれば次のような具合にできるだろうか。

a → (b →b(a)=c)

aはbを薫習する。

aに薫習されると、bは元々のbではなく、aの薫りや臭いが移った"aではないけれどaのような何か”になる

これを仮にb(a)と書いてもいい

あるいはaでもbでもない第三のものということでcと書いた方がよいかもしれない。


ややこしくなってきた、と思われるかもしれないが、これだけでは終わらない。話はさらに込み入ってくる。

aとbという二者の間の薫習し・される関係が双方向である場合、ここにc→aの「逆薫習」ということがある。

逆薫習というのは、a→bの薫習に対して、その逆b→aとなる薫習のことである。aとbの強弱の差、エネルギー移動の方向は一定ではなく、逆になる。しかも時々稀に偶然逆になることもある、という程度の話ではなくて、正方向の薫習が直ちに同時に逆方向の薫習でもあるという関係にある。

逆薫習ということを考えると、先ほどのa→bの薫習でbがcに変化したとして、今度はこのcがaの方を薫習することになる。c→aの薫習である。

そうなると、cに薫習されたaは元のままのaではいられずに、別の何かa(c)になる。これをdと書いてもいい。

c → (a →a(c)=d)

このあたりのことについて、井筒氏の文章を引いてみよう。

「すなわち、aがbに「薫習」すると、当然、その結果、そこにaでもbでもない何か別の中間的事態cが生起する。[…]『起信論』の思想構造では、cは生起すると同時に反転して自己の原点であるaに「逆薫習」し、その結果dを生み、そのdが新しい「能薫」となって作用し始める、という複雑なジグザグ形のコースをとって「薫習」のプロセスが進んでいくのである。(『意識の形而上学』p.150)

『意識の形而上学』の文庫本のカバーに印刷された無明、真如、妄心、無明、妄境界、妄心…などとある図は、覚から不覚へ、不覚から角へと展開するこの双方向の薫習のジグザグ作用を表現したものである。これについては詳しくはぜひ『意識の形而上学』を手にとって読んでいただけると幸いである。

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さて、井筒氏はこのa、bが「言語的分節単位」である場合について、次のように論じている

a・bという二つの対立するものがある。分節論的にいえば、aは一つの言語的分節単位、bもまたもうひとつ別の言語的分節単位。従って、aにはa独特の意味の広がり、すなわち意味領域、があり、bにはb独特の意味領域がある。(『意識の形而上学』p.145)

このaとbを含む二つの意味領域が、おなじひとつの「言語磁場」の中で「隣接」する場合、二つの意味領域(意味の広がり)のあいだに「働きかけ」が、「薫習」が起きるというのである(『意識の形而上学』p.145)。

仮にaの意味領域の方が強勢で、bの意味領域が弱勢だった場合、aに薫習されることで、aからのエネルギーによって、bの意味領域に「内的変化」が生じる。

ここで意味領域に生じる変化とはどういうことかといえば、第一には「意味領域を構成する諸要素の或ものが消えて、新しい要素が入ってくる」こと、第二に「既存の要素の配置換えが起こる」ことであるという(『意識の形而上学』p.146)。

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ここで井筒氏は、次のように注意を促す。

「この場合、aとbとは互いに離れて別々に外在的に存立し対峙している二要素ではなくて、同じ一個の人間の実存の意識野の内的対立要素、つまり一個人の「アラヤ織」自体の二面性なのであって[…]」(p.147)

aもbも、cもdも、言語的分節単位なるものは、すべて個的であり同時に超個的な「アラヤ織」に属する。

アラヤ織の表面に浮かび上がる語と語の組み合わせ現象を、精密に観察した場合に、aやb、cやdといった「単位」が観察対象として区切り出されるのである。

この辺りの話は井筒氏がクルアーンにおける神と人間 クルアーンの世界観の意味論』の冒頭で展開されている意味論の方法に関する話ともつながる。これについてはまた別の機会に書きたいと思います。

さて、ここまではa→bの一方向の薫習であるが、ここに当然、ただちに、逆方向の薫習を考える必要がある。

即ち、意味領域aに薫習された意味領域bは元々のbとは異なる別の意味領域(b'でも、cでも何と書いてもいい)に変化するが、この変化したあとの新bすなわち意味領域cが、今度は意味領域aを薫習する

そうすると意味領域aはcによって薫習されて、もともとのaとは異なる別のa、新たなa(これをdと書いてもいい)へと変化する

そして、このdは、今度はまたcを薫習し、cを元のcとは別のeへ変化させ、そしてeは翻ってdを薫習し、以下略、ということになる。

このようにして意味領域同士は、互いに双方向に薫習しあい、変化し続けているその変化はすなわち、意味領域の構成単位、言語的分節単位が、入れ替わったり、配置を変えたりするという具合に現象する

言葉が変化したり乱れたりすること、言葉が「進化」即「退化」「退化」即「進化」する現象は、こうした双方向の薫習作用の連鎖によって生じている。

単位間の双方向薫習がアラヤ織を変容させる

互いに異なる意味領域同士の双方向の薫習作用は、人間が何かの声を聞いたり、発声したり、文字を読んだり、文字を記したりする、ミクロな実践の瞬間瞬間に発生している。

その薫習作用の連鎖は、個々人のアタマの中で変化の履歴、即ち互いに区別される薫習の瞬間の連なりとして時間を作り出す。

意味分節のカルマ

薫習作用の連鎖はさらに、個々人の口や手から、身体から飛び出して、他の人のあたまの中の薫習作用の連鎖と連鎖する。

言語的分節単位間の薫習作用の連鎖の連鎖はひとからひとへ、大人から子供へ、かつての死者から現在の生者へ、世代をこえて連鎖しつづけている。

この連鎖こそが井筒氏のいう「意味分節のカルマ(業)」ということになる。

だが、それにしても、実に長く険しい道のりだ、「究竟覚」を達成するということは。『起信論』の語る「究竟覚」の意味での「悟り」を達成するためには、人は己れの一生だけでなく、それに先行する数百年はおろか、数千年に亙って重層的に積み重ねられてきた無量無数の意味分節のカルマを払い捨てねばならず、そしてそれは一挙にできることではないからである。(『意識の形而上学』p.158)

私たちは「数百年はおろか数千年」にわたる薫習作用の連鎖のなかの、ある時点に生まれ、生き、生きている限る触れることができる限りでの言語的意味分節単位と接触しては、それに薫りや臭いを移されて、そうして自己の意識と、自己の意識にとって「存在する」と思われるものたちを、かろうじて分節できるようになる

しかし、そして始まった意識分節存在分節の産物を、日々の繰り返される日常の中で固めてしまっては、妄心を起こして執着する。

この妄心、執着から離れ、「覚」に至ろうとする道は、「「不覚」と「覚」との不断の交替が作り出す実存意識フィールドの円環運動に巻き込まれていく」ことである。井筒氏は『意識の形而上学』の締めくくりでこのように書いている。

実存意識フィールドの円環運動

仏教はもちろんのこと、人類は、人類のアタマは、あるいは人類の言語、もしくは人類に憑依した言語は、この実存意識フィールドの円環運動のことを、数万年に渡って考えつづけ、イメージし続けてきたのである。

それは同じところを毎日ぐるぐる回っている円環運動ではなく螺旋状に展開する円環運動である。

そしてインターネットにSNSにビッグデータにAI現在でも、この「実存意識フィールドの円環運動」は、私たちひとりひとりのアラヤ織において、そして超個的なアラヤ織において、瞬間瞬間至る所でダイナミックに動いている

人間がこの身体、この脳、こういう言語で生き続けている以上、この「実存意識フィールドの円環運動」の螺旋状の展開が動き続けることは変わらない。たとえ社会の表層の固着しがちな分節単位の世界、物の世界、妄心と執着の領域がますますその強勢を誇ろうとしているとしてもである。

強勢化した「妄」は、自らが薫習し別のものへと変容させた「覚」から、不意に逆薫習される。それによって「妄」は一旦「妄」を解かれ、束の間の「覚」の時間を過ごしたのち、そしてまた別の新たな「妄」へと転じるのであろう。


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