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井筒『意味の深みへ』×丸山『生命と過剰』で深層意味論に踏み込む

井筒俊彦を読んでいく途上で、導きの糸を貸してくれるのが丸山圭三郎氏である。

丸山圭三郎氏といえば言語学者ソシュールの研究者として第一級の業績を残した方として知られる。

ソシュールは20世紀はじめのスイスで活躍した言語学者であり、その言語観は、後の言語論的転回(言語学的展開)と総称される思想上の運動に決定的な影響を与えた。

言語論的転回(言語学的転回)

言語学的転回。それは要するに、言葉を「モノに貼り付けられるラベル」であると考えてはダメであるという考え方である。

この考え方がなぜダメなのか。

言葉が単なるラベルで、好きなように貼り替えられるものだという発想は、ラベルを貼られる側の「もの」の方が本質・正体・本物で、ラベルである言葉はどうにでもなる代理物・代役・偽物である、という考えに支えられている。

この考えでは、本物の正体である「もの」の側は、単なるラベルの言葉などとは無関係に、はじめからものそれ自体の世界の中で、整然と区別され、それぞれの自己同一性を保っていることになる。

ソシュールの影響を受け言語学的に転回した思想では、この、「もの」が本物で、「言葉」が偽物・代理物である、という考え方を「転回」する。

「言葉」の方が「もの」に先行して動いているのであり、「もの」は言葉の根源的な働きによって他のものと区別されることで、後から、何らかの「もの」として私たちが思考可能なものになる、と考えるのである。

いや、言葉などとは無関係にモノはそれぞれ別々のものではないか?と思われるかもしれない。言葉をしゃべらない動物だって「テーブル」と、その上に置いてある「りんご」を識別できているではないか、と。

残念ながらこの問いは、モノが予め整然と区別されている、という考えに徹底的に貫かれている。

問題はそこではない。なぜその硬い板状のものが「テーブル」で、その上に載った球体が「りんご」であるのか、それが問題なのである。

小さい子どもが、椅子の座面にりんごを置いて遊んでいる。この場合、この硬い平面は、「椅子」なのか、それとも「テーブル」なのだろうか。そしてこの子はりんごを手にとっては転がしたり放り投げたりしている。この場合、はたしてこの球体は「りんご」なのだろうか。「ボール」ではないのか?

球体に「りんご」というラベルを貼ろうが、「ボール」というラベルを貼ろうが、どちらでも構わない、と言えるだろうか?

仮に、球状の果実がりんごでもボールでも、自分の人生とは一切関係がない、どうにでも好きに呼んだらいい、という主張はできるとしよう。

それでは、例えば「死」はどうだろうか?「愛」はどうだろうか?

問題はモノそれ自体ではなく、つまり単なるラベルではなく、あるモノに関わる個々のヒトにとっての意味である。

死であるとか、愛であるとか、あるいは「私」であるとか、自分自身の存在に関わる退っ引きならない事態や事柄の自分自身にとっての意味を言葉を頼りに思考しようとするときに、いつもいつも「そんなものはラベルの問題だから」と突っぱね通すことができるだろうか。

ものが先か、言葉が先か、ではなく

言語学的転回は、単にモノが先か言葉が先か、という問題を、「モノが先」から「言葉が先」にひっくり返したということではない。

ものが予め出来上がったものとして転がっているのでは無いのと同じように、言葉もまた、予め出来上がったものとして転がっているモノではなく、その転がっているところから私たちの頭に完全コピーされるようなものではない、と考える。

言葉が言葉に「なる」動き、プロセス、ダイナミズムへ、ものでも言葉でも、まだ何も予め個として他から切り分けられていないところで、その区別自体が生じるプロセスに立ち会おうというのが、言語学的転回後の思想の行き着くところである。

そういう意味の蠢き、意味が生じる発端を言葉によって記述しようと格闘されたのが「深層意味論」の井筒俊彦氏であり、ソシュールの諸概念の中で特に「ランガージュ」に着目した丸山圭三郎氏なのである。

特に丸山圭三郎氏の『生命と過剰』は、井筒俊彦氏の『意味の深みへ』に呼応して、井筒氏が東洋哲学を手がかりに記述にもたらそうとした意味の表層と深層の区別、その区別を作り出す運動体の動態を、こちらはソシュールの概念「ラング」と「ランガージュ」の区別を手がかり言葉の網の目に写像させていこうとする試みである。

もし「意味」という言葉を聞いて、妙な恐ろしさや艶めき、違和感や恐怖を覚える方であれば、ぜひこの二冊『意味の深みへ』と『生命と過剰』を精読することをおすすめしたい。

そして特に、『生命と過剰』の第二部、『ホモ・モルタリス』、特にそのエピローグ「赤の”ひとかた”」である。

これについて書くと長くるので別のnoteに書くことにするが、果たして生きている間にこれについて何かを書くことなどできるのだろうかと思わせる凄みもある。

つづく


参考になる一冊

井筒氏の『意味の深みへ』はいきなり読むのはかなり思いかもしれない。

丸山氏の『生命と過剰』も、とても読みやすく書かれているとはいえ、いきなり入り込むにはコトが込み入りすぎているかもしれない。

そこで、この深層意味論の取っ掛かりになりそうな本をいくつかご紹介する。

まず、丸山圭三郎氏の『言葉とは何か』である。
ソシュールの概念、ラングとランガージュの差異を理解する上で、入り口となる一冊である。

そしてこちら、加賀野井秀一氏の『20世紀言語学入門ー現代思想の原点』も、言語の思想、言語学的転回の全貌についての見取り図を与えてくれる。

ぜひご参考いただきたい。

関連note


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