見出し画像

『ホモ・デウス』×『レンマ学』を読む−「知能」と「意識」と「知性」。進化するシンボル体系=意味発生装置の場所


(このnoteは有料に設定していますが、最後まで無料でご覧いただけます)


『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、この本を通じて一貫して、人類の歴史における「虚構」の力に注目をしている。サピエンスの歴史は、虚構の使い方の歴史と言い換えてもよいくらいである。

虚構の力というのは、私たちが、目の前に存在しないもののことを想像・創造し、それについて言葉でしゃべったり、イメージを描いたり=物質化したりして、仲間と共有することができる力である。

そうして共有された虚構を介して、世代を超え、場所を超え、複数のサピエンスが知識と価値を共有し協力できるようになったことによって、人類は「文化」という、物質的自然とバーチャルな虚構がハイブリッドになった人工空間=意味の世界を構築した。

そうして他の動物とは大きく異なって、自然環境を人類にとって都合がいいように作り変えるようになった。自然は、想像上の虚構を具現化するための材料である、という具合に。そうして数万年をかけて、人類による環境の改変は地球全体のスケールでにまで至ったのである。この人類の活動によって生じた地球環境の物質的変容を人新世という概念で捉えようという試みもある。

近代−現代の虚構 「人間至上主義」

虚構の力は、人類が文化を、意味の世界を、生み出す力である。

ハラリ氏は『サピエンス全史』の続編にあたる『ホモ・デウス』において、近代−現代において最も大きなインパクトを与えた「虚構」は「人間至上主義のイデオロギー」であると論じる。

20世紀の世界を席巻した、自由主義も、社会主義も、人種主義も、いずれも広い意味での「人間至上主義」のイデオロギーである。

人間が一番、人間ファースト。もちろん「人間なるもの」をどのようなものと考えるか、「階級」や「党」への所属で“あるべき“人間を定義したり、「血統」で”あるべき”人間を定義したり、自由主義と社会主義と人種主義とでは全く異なる見解をもつのだけれども、それでも何らかの人間ということ、人間による判断と選択を、善と悪光と闇価値の有無あらゆる意味ある区別の根拠として重んじるのが人間至上主義である。

ところが、21世紀に入り、AIのような情報処理のアルゴリズムが発展する中で、この人間至上主義という「虚構」はその力を失いつつあると、ハラリ氏は指摘する。

しかも、失墜しつつある人間至上主義に替わる別の新たなイデオロギー=虚構は、まだ登場していない

これが「虚構」の力を共同で使うことで生き延びてきた人類が、今日において直面する最大の困難なのだというのがハラリ氏の考えである。

では、かつての自由主義や社会主義や人種主義が登場した時のように、どこかの誰かが、新しいイデオロギー=虚構の体系を『○○論』『○○宣言』『○が闘争』といった具合にポンと出版してくれるのを、私たちは待っていればよいのだろうか?

ハラリ氏はそういうアプローチにNoという。事態はそれほどシンプルではないのである。

本による虚構と、SNSのタイムラインによる虚構

虚構の力はたいへんなもので、用法容量を間違えると死に至ることがある。

19世紀から20世紀において、イデオロギー=虚構は、大量生産された書物によって大量コピーされた。本の大量生産というメディアテクノロジーに支えられて、自由主義や社会主義や人種主義のイデオロギー=虚構の体型は、多くの人に読まれ、互いに一度も逢ったことがない沢山のひとたちに共通の虚構をイメージさせ、覚えさせ、そのコードに従って協力して行動するように促したのである。

ところが、今日ではもはや本の大量生産という形でのイデオロギー=虚構の大量複製は望みが薄そうだ。今日のメディア・テクノロジーは、Web状のインターネットに、パーソナルにカスタマイズされた無数のタイムラインに、取って代わられている。

ここで今日の状況が、20世紀と大きく違うのは、「虚構」を生み出し、個々人に配給するプロセスが、AIのような技術によって高度にコントロールされ、パーソナライズされ、マッチングされ、カスタマイズされてるようになっていることだ。人間の協力関係を構築するコミュニケーションのプロセスそのものもまた完成品の一方的な流通ではなく、情報通信技術によって双方向に精密に媒介されるようになっている。

SNSを眺めていると、自分が信じて止まない特定の政治的宗教的信念を補強するような言葉ばかりが溢れ、その信念に反したり、その信念に疑いを挟むような言葉には「嘘」「陰謀」といったラベルが貼り付けられて来る。そうした言葉の流れをみて、私たちは怒ったり怯えたり喜んだりするのであるが、その言葉の流れが実はAIのようなアルゴリズムによって、より私たちがタイムライン上のWebへのリンク、広告へのリンクを、クリックしやすくなるように選別・構築されたものだとしたら…

いまや個々人のもとへ虚構を送り届ける情報通信メディアの技術自体が、「知能」をもちつつある。単に虚構を送りつけるだけではない。規格品の完成された虚構を一方的に押し付けるのではなく、リアルタイムにカスタマイズされた多様で多数の虚構を、その時その場所の状況や受け手の気分に応じて「オススメ」する。

そうした時に、人類が虚構を作るやり方が、共有するやり方が、20世紀に経験されたものとは大きく変わる可能性が高い。

では、どのように変わると予想できるだろうか?

「知能」対「意識」

人工知能もまた虚構を、というかシンボルを、記号を、データを、人間よりもはるかに高速に、大量に処理する。受け取ったり、送り出したり、変換したりする。

とはいえそのAIのデータ処理は、人間が虚構を通じて世界の意味を見出す経験とはちがう

ハラリ氏は『ホモデウス』において「知能」と「意識」の違いを強調する

知能。人工知能の「知能」や人間の「知能」。

それは煎じ詰めればパターン認識と条件分岐の処理である。

自動車を運転したり映像から不審な動きをするテロリストを推定したり血液検査の数値から体内で生じている問題を推定したり、契約書の条項を適用したり、リアルタイムで変化する計器の数値を読みながら飛行機を着陸させたりする。

そういう「知能」を発揮できる存在は20世紀までは人間くらいしか居なかった。しかし21世紀の今日、人間以外にもそういう知能をもったアルゴリズムを構築できるようになった。いわゆる自動運転、自動操縦、画像認識といったことを行うAI(人工知能)の登場である。

これに対して人間の「意識」とは主観的な感じ方や評価であり、意味づけの経験である。

「知能」がパターンを識別する処理であるのに対して、意識は、知能が発見したパターンを、自分にとっていものといものに、自分にとって価値があるものとないものに、しいものといものに、分別しようとする。

例えば、人間のドライバーであれば、夜の高速道路を走りながら、緩やかな曲線を描いて一列に並ぶ光の粒たちを「美しい」と感じる事ができる。しかし自動運転の車のAIにとって、それは単に「センサーが光を検知しました、データとして取り込みました」ということに尽きる。

人間の有用性に賭けた20世紀

ハラリ氏は『ホモ・デウス』で、近い将来、人工知能のようなアルゴリズムの性能が向上し人間の知能を上回る時、人間が「無用」のものになるのでは、というディストピア(ユートピアの逆)の未来像を描く。

この数百年の歴史を通じて、特に20世紀に至って、「人間」は、総力戦体制をとった国民国家の「労働力」や「兵士」となる貴重な「資源」と位置づけられた。

20世紀の国家は、古代の帝国がしばしばそうだったように支配者が住民を暴力的に制圧して搾取するのではなく、生産の現場や戦場で個々人がより高いパフォーマンスを発揮するよう、しかも自ら積極的にそうするように、人々に明るい未来のイメージを共有させ、日々の労働や戦争への参加を明るい未来を実現するための「意味ある」行いなのだと約束し、気持ちを高める。もちろん単なる絵に書いたモチだけではダメで、大量生産された商品で生活空間を満たす。物質的な豊かさと、快適な生活環境、そして行き届いた医療福祉サービスを享受できるようにする。

こうして20世紀は、二度の世界大戦による破壊と冷戦の時代であると同時に、かつてない規模の物質的な「豊かさ」を実現したのである。

これをより巧妙になった搾取として否定的にみるか?
それとも実質的に物質的豊かさが向上した点を肯定的にみるか?
おそらくどちらも正しいのである。

人間は、物質的な富を生産し増殖させるために不可欠の「知能」をもった装置であり、金の卵を生む鶏だったのである。

金の卵を産む鶏は、串焼きにされて食べられるのではなく、大切に育てられ、高価な餌を与えられ、行き届いた健康管理を受けるべきである。

21世紀 人間が無用になる?!

20世紀が「人間」を大切に管理し、増やし、長期間働かせることを目指したのは、労働力や兵力として利用できる「知能」システムが人間くらいしか無かったからである、とハラリ氏は書いている。

人間の代わりに計画したり、判断したり、生産したり、戦ったりするモノが居なかったのである。

人間の知能を効果的に連携させ組織することができた国家や企業が、20世紀には大きな成功をおさめた。人間を消耗品のように使い捨てる組織と、相対的に人間を生かす方向で個人がより快適な状態で自発的に力を発揮できるようにした組織とが競争した場合、最後にうまいこと生き残ることができたのは後者の方だったのである。

ところが21世紀の今日、AIのような高度なアルゴリズム(知能)が、人間よりもはるかに高速&大量に生産したり、精密に戦ったりすることができるようになりつつある。

こうなると人間は「知能」をもった貴重な資源ナンバーワンの地位から転がり落ちることになる。人間は、生産力や戦闘力を求める組織の管理者の眼から見ると相対的に「無用」のものになっていく。

と、ハラリはこのように書いている。

無用性と有用性を超えて生きる

では「無用」になってしまった人間はどうなるのだろうか?

当面の間は、AIを含む知能システムの設計、構築、実装に「人間」が関与するであろうから、無用になった人間を「消去」してしまおう等という発想には至らない可能性が高い。労働力や兵力としては「無用」であっても、人間は人間であると言うだけで生きていれば良いということになだろう。

「無用」なら追い出してしまおう、消してしまおう、というのはきわめて20世紀的な生産力主義の発想である。「きかんしゃトーマス」たちが「役に立つ機関車になりたい!」「役に立たない機関車はスクラップにされてしまうんだ」などとあの笑顔で饒舌っているアレである。

人類社会を経済的競争という戦争のために組織された総力戦体制=戦線として見ているから、前進する最前線から脱落し復帰する可能性のなくなった廃兵は「処分」という発想になる。

ところが21世紀には、人類社会そのものが総力戦体制的に組織されたものではなくなる。あの人やこの人が「無用」になるのではなく、人類全体が「無用」になる。

ちょうど今、南極には沢山のコウテイペンギンたちがコロニーを作っているが、コウテイペンギンは少なくとも人類の社会において、兵士として戦闘に参加したり、労働者として工場の生産ラインに立ったり、投資会社でトレーダーをやったりはしていないペンギンは兵士や労働力という点では「無用」である

しかし、だからといって、ペンギンは使い物にならないので駆除しましょう、などという話はほとんど聞かないペンギンは南極の環境の一部として、そこに存在しているそれでよい、十分なのである。

AIと比べて無力だ、という理由で「無用」になった人間も、無用だからといって、即処分されるということにはならないだろう(そうであってほしい)。おそらく今日のペンギンと同じように経済や政治のシステムとは関係のないものとして生き続けることができる。

人類全体がAIの知能に比べて非力に見えてしまう時、「無用」と言われて、びっくりしたり、がっかりしたり、憤ったりする必要はなくなる。逆に言い換えると「有用−おまえは使える奴だ」と言われて喜ぶ必要がなくなるということでもある。

20世紀において「無用」と対置される「有用」とは、あくまでも「戦場」や「労働戦線」で「使い物になる」という意味である。

AIのようなアルゴリズムによって人間が無用になるということは、そういう意味での「有用=役に立つ=使える=使い物になる」状態から解放されることであり、「有用/無用」「役に立つ/役に立たない」という二大カテゴリーのどちらか全人類ひとりひとりを分別しないと気がすまないという20世紀型管理者マインドから解放されることでもある。

人間にとっての問題は、知能の有用性(無用性)ではなく、意識の主観的な流れの方にある

有用性と無用性という対立する価値の抗争から解放された「無用」の人類が、AIによって高度に管理された快適な環境で、気ままに自由にゴロゴロして居られるようになったとして、それは果たして個々の人間にとって幸福なのだろうか?

「テクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう。だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか? 人は何かする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる」(ハラリ『ホモ・デウス』下巻p.158)

人間は何もせずに居ることには耐えられない。ハラリはそう書いている。

日々の活動と、人生と、自分の存在に、束の間の「意味」を与えてくれるものを人は求めて止まない。人間は生きることを意味あることに変換してくれる「虚構」から逃れられないのである。

20世紀において、そういう人生の意味の主要な供給源だった戦場での兵士としての体験や、生産現場で役に立って認められる経験から追われてしまうとき、人類は戦場や職場以外のどこでなにをして感情を満足させ、「生きる意味」を与えてくれる虚構を身につけることができるのだろうか?

もちろん生産活動以外にも、満足を感じ、意味があると思うことができる活動はいろいろあるのだけれども(例えば、本を読むとか、子どもと遊ぶとか)、ハラリは皮肉っぽく、次のように書いている。

「彼らは一日中、なにをすればいいのか? 薬物とコンピュータゲームというのが一つの答えかもしれない。必要とされない人々は、3Dのバーチャルリアリティの世界でしだいに多くの時間を費やすようになるかもしれない。その世界は外の単調な現実の世界よりもよほど刺激的で、そこでははるかに強い感情をもって物事に関われるだろう。とはいえ、そのような展開は、人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念に致命的な一撃を見舞うことになる」(ハラリ『ホモ・デウス』下巻p.158)

薬物と、バーチャルリアリティ。

映画『マトリックス』では、人間たちにいくつものチューブや電線が繋がれて、栄養と神経を心地よく刺激する信号を送り込まれながらまどろんでいる。これは生化学システムの再生産という点では「安全安心」の満点の状態である。

この状態を、映画ではゾッとするような「ディストピア(ユートピアの逆)」として描き、マイナスの価値を付与している。

それは「人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念」に準拠してのことである。

ところが人間が「無用」になるとき「人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念」そのものが無効になる。

マトリックス的な世界に対して「これはダメだ」と言えるような視点を、未来の人間たちは持たないかもしれない。その時、人間は一体、自由主義の信念に代わってどういう信念=イデオロギー=虚構でもって自分の人生、自分の存在を意味づけるようになるのか?

これが『ホモ・デウス』ハラリの問いである。

人間にとって真に問題なのは、その「知能」に点数をつけられたり、利用されたりすることにはなくて、その「意識」にとっての意味、個々人にとっての主観的な経験の世界なのである。

意識と「知性」

繰り返すが、ハラリ氏は人間の意識を「虚構」という観点で捉えようとする。

あれがみえている、これがある、それがない、などと主観的に意識できる(言葉で報告することができる)経験というのは、すべて脳が作り出したイリュージョン、虚構である。

現実、リアル、事実、実物、実在、といったような意識に先立ってそれ自体として存在していると言われるようなものであっても、それが意識にとっての対象、意識される事柄、言葉で呼ばれるものになった時点で、すでにそれは脳×言語のハイブリッドシステムが作り出したイリュージョンなのである。

人間の意識にとっては、主観的な経験にとっては、どういう虚構の世界で生きることができるかが大問題なのである。あるいはどういう虚構を織りだせる言葉の網の目でもって世界を眺めることができるかが大問題だ、といってもいい。

意識は、どこかの誰かが言葉にした虚構が取り付き、虚構が生まれる場所として想像することができる。

20世紀にいたるまでの近代の虚構の代表格が「人間至上主義」の言説であったとハラリは論じる。しかし21世紀のテクノロジーが人間を無用のものにしてしまうとき、人間は「至上」の地位から降りることになる。

そうなった時、21世紀、そしてそれ以降の私たちの子孫たちは、どういう虚構で、その主観的な世界を語りだし=織りなすようになるのだろうか?

これがハラリの問いかけである。

ここで、ぐるりと視点を変えて、中沢新一氏の『レンマ学』を参照してみよう。『レンマ学』によれば、意識というのは(言語を喋る意識というものは)、もっと広大な「知性」のなかの小さな一部分である。

意識はロゴス的知性であり、ロゴス的知性はレンマ的知性に包摂されている

言葉で考える意識は、世界を様々な物事に区別する

自己と他者、生物と無生物、食べられるものと食べられないもの、良いものと悪いもの。などなど、私たちの意識には、様々な互いに区別されたものたちのペアが、自分にとってよいものとわるいものという区別と重ね合わされながら、次々と來去する。

こういう区別し、分別して、区別されたモノたちを順番に並べて、その関係として世界を理解する知性のあり方は、ロゴス」の知性と呼ばれる。

ところがこのロゴスの知性の周囲には、底には、もっと別の知性が広がっている。それが「レンマ」の知性である。

レンマの知性は区別をしない、分別をしない、並び順をバラバラにする。ロゴスが区別したがいに引き離したものたちを、ひとつに結びつける。過去、現在、未来といった時間的な順序もバラバラにしてひとつにまとめてしまう。

ロゴスの「分ける」知性の底で、「つなぐ・ひとつにする」レンマの知性が働いている。

ロゴスの知性はレンマの知性と不可分一体である。両者は必ずセットになってペアになって動いており、分離することは不可能である。ロゴスの知性というのはレンマの知性の動き方のパターンのひとつなのであると言っても良い。

分けると同時にひとつにする、異なったまま同じにする、一即二かつ二即一とするロゴスとレンマのハイブリッドシステムは、そういう具合に「異なりながら、同じ」関係を作り出し続ける。

このプロセスの動きが、シンボル(象徴)、言語、意味といったことの産出を根底で支えている。このプロセスはフロイトやユングが「無意識」「集合的無意識」と呼んだものであり、レヴィ=ストロースの「神話的思考」が動的に構造を織りなしていくところであもる。

意識=ロゴスの世界では、言語は安定した体系的構造をもっており、意味もまた辞書を書ける程度に安定して固まったものという様相を呈している。

しかし、そのロゴス的に整然と区別され分配されたコスモスの世界は、レンマ的知性の海に浮かんだ小さな浮島、あるいはレンマの界面に漂う泡の構造体のようなものである。

ハラリ氏が問うているような、人間至上主義の凋落後の世界において、人間の存在、個々人の存在、その人生に「意味」与える虚構の体系としての言葉は、このようなロゴスがレンマに触れるところから生まれてくるはずである。

ここで、文化人類学者の岩田慶治氏の文章も見ておこう。

「われわれの文化は一にして二、二にして一という最も基礎的にしてもっとも宇宙的な空間のうえに構築されたものであり、また、そこにこそ構築されなければならないものである、と。それがまたわれわれの<コスモス>を描くべき場面であり、場所なのだ。」岩田慶治『コスモスの思想』p.297

岩田氏が「一にして二、二にして一という最も基礎的にしてもっとも宇宙的な空間」と書いているのが、ロゴスがレンマにふれるところである。

そこでは無数の区別が生まれ、また区別が解消される、区別の発生と生滅が繰り返される。この区別の有無の境界をなす網の目は、言語アーラヤ識とも呼ばれる。

ハラリ氏が問いかける、人間至上主義後の新たな虚構、新たなイデオロギーは、ロゴスの世界で固まった意味をもった言葉たちを組み合わせて構築されるものではない。そのようなものとしては作りようがないのである。

人間至上主義後の新たな虚構、新たなイデオロギーは、新たな言葉、新たな意味を織りなす新たな言葉の体系でもある。それはロゴスがレンマと触れるところで、つまり区別が生まれ反復され、意味を「コスモス化」しつつカオスに引き戻し、また別のコスモスとして発生させる言語アーラヤ識を土壌として、生命のように発生する

虚構生産&分配テクノロジーとしての「人工知能」

このロゴスとレンマが区別されつつひとつになるところ=言語アーラヤ識というものは、「意識=言語」に先行する「知性」の場である。

いまの自動運転や音声認識のようなAIの「知能」がやっていることは「意識」のごく一部分であるパターン認識と条件分岐である。

では、コンピュータのアルゴリズムには「知能」をやらせておいて、人間は「意識」と「知性」に集中すればよい、と言ってしまえるのだろうか? コンピュータは知能をやっておればよくて、人間がロゴスとレンマのハイブリッド=無意識と意識のハイブリッドである意味の発生の方を担う、と。

今のAIは、たしかに20世紀的な労働を代行する「知能」であるけれども、それは人間がそのような作業の分野でAIを実装し始めたということに尽きる。

コンピュータの能力が今よりも更に向上し、人工知能の根底にある「ニューラル・ネットワーク」をおのずから形成する力が、人間の「脳」のような複雑性を獲得するようになる可能性は無いとは言い切れない。

人間「脳」こそが、意識と同時に無意識も生み出す、レンマとロゴスのハイブリッドな知性を発生させる物質的な基盤である。レンマとロゴスのハイブリッドとしてのシンボル形成=意味形成システムは、ニューラル・ネットワークに、人間の脳に宿る。

もしニューラル・ネットワークを、サピエンスの脳のようなタンパク質の組わせの上にではなくバーチャルな情報空間上に発生させ、進化させることができるならば、それが”単なる”人工「知能」であることを超えて、ロゴス×レンマ的な意味の発生する「知性」のプラットフォームにならないとも言い切れないのではないか。

そう考えると、不気味な気配もある。

しかし、人間の「外」にある知性のプラットフォームに出逢うのは、私たち人類にとって初めての経験ではない。

私たちはすでに、人体の外部にある進化するシンボル体系=意味発生装置というものをよく知っている。

それは他でもない「言語」である。

言語は「人工−知性」

言語は人間と共進化してきた人間とは別の、しかし不可分一体の、システムである。

人間の無意識−意識からなる虚構の力は、最初から肉体(タンパク質脳)×言語のハイブリッドシステムとして進化してきた人間は言語に寄生され、憑依されることで、意味の世界を獲得し、意識をもつようになった

人類という一種の動物は、言語という外部の意味発生装置を装着され、補強されたことで、はじめて意識と無意識を獲得し、レンマとロゴスの円環プロセスを獲得し、虚構=文化を生み出し、世界をコスモスとして見、仲間との時空を超えた協力・協調関係を言葉を語り書くことによって構築できるような、文化的な存在になった

言語は、最初こそ人間の脳と口と耳と空気の振動というあやういハードウエアに頼っていたものの、後に様々な物質の表面に宿るようになる。

物質の表面を削り取ったり、表面に付着された他の物質のパターンである「文字」になる。

文字はさらに印刷技術によって大量に複製され、時空を超えて運ばれ、保存され、更にはアナログやデジタルの電気信号に変換されて、電磁的に記録され、瞬時に地球のいたるところで再生されるようになる。

今日、仮にAI(人工知能)という姿で生まれたばかりのニューラル・ネットワークをサイバー空間で培養する技術は、この言語の、進化するシンボル=意味発生装置の新しい形態なのかもしれない。

進化するシンボル=意味発生装置

声から手書き文字へ、手書き文字から活字へ、活字の大量生産へ、そして情報通信メディアによる配信へ。

言語はそれが乗っかるメディア=媒体の姿に応じて、無意識と意識の組み方、ロゴスとレンマの間の円環サイクルのルートの引き方を、大きく変化させてきた

声だけの時代がロゴスよりもレンマ寄り、だったり。

活字大量生産・一方向的配給の時代が極端にロゴスよりでレンマのことを忘れたり

インターネット×SNSのような「二次的な声の文化」(W.J.オング)の時代が、レンマ的な区別の解消、新たな多様な区別の発生を、再び社会の表面に可視化しつつあったり、とか。

では、来たるべき“サイバー空間のニューラル・ネットワークとして進化する意味発生装置”は、ロゴスとレンマのハイブリッドシステムの組み方=無意識と意識の集合的配分の仕方を、どのような様相にするのだろうか。

一つ言えることは、そのニューラル・ネットワークが人間の脳のそれよりもはるかに巨大で、複雑で、人間の五官を超える複雑で膨大な数の「IoT」センサー群が集めてくる多様かつ大量のデータをリアルタイムで処理するだろうということだ。そしてニューラル・ネットワークのつながり方のパターンも、脳幹、小脳、大脳といった「人間の脳」として表現されているつながり方とは大きく異なった、多数かつ多様、分散しつつすべてがすべてにつながった姿をとるだろうということだ。

つづきはこちら

このnoteは有料に設定していますが、全文無料で公開しています。
気に入っていただけましたら、ぜひお気軽にサポートをお願いいたします
m(_ _)m

こちらもどうぞ

関連マガジン

ここから先は

0字

¥ 180

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。