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コスモスとしての文化と、カオスとしての文化 −岩田慶治著『コスモスの思想』を読む

文化人類学者 岩田慶治氏の著作『コスモスの思想』を読んでいる。

文化人類学が研究対象とする「文化」というものは、「自然」との対立関係の中で存在するようになるものだ。

例えば、山に大きな石が転がっていれば、私たちはそれを「自然」のものだと言うけれども、もしその石の表面がなめらかに整えられて規則的なパターンで線が刻まれていたならば、私たちはそれを文化的な何かだと考えてみたくなる。

つまり、どこかの誰かが、人間が、何らかの「意味」を表現しようとして自然物の石を加工したのだと考える。

人類の文化は、そのようにして自然のものを人間が加工することに始まる。例えば、自然のままの「裸」の身体に、服を着せたり、飾りをつけたり、あるいは身体そのものを加工したりする。自然のままのサピエンスの群れに、親族関係を表す呼称をかぶせて、群れを社会へと加工する。

未完の動きとしての文化

文化というと、完成品のように展示された文化財をイメージされるかもしれない。しかし確固として完成された文化財も、必ずそれを作り出す加工処理の工程を経て、その姿を現したものだ。

文化にはものとしての姿、加工処理の反復が描いた痕跡として残された静止したものたちの領域がある。それと同時に、そのものたちを作り出した、反復された処理の領域がある。完成と未完、静と動は、文化現象の不可分一体の二つの側面だ。

岩田慶治氏の『コスモスの思想』に、次のような一節がある。

「この世界はどうしても<コスモス>であってほしい。<コスモス>でなければならない。それにはわれわれの文化をどういう土台の上に、どういう自然のなかに構築したらよいのだろうか。」(岩田慶治『コスモスの思想』p.112)

こう問いかけた上で、次にように答える。

偶然でも必然でもない自由のなかで<コスモス>を見、また、それを作るのである。」(岩田慶治『コスモスの思想』p.112)

偶然でも、必然でもない、自由。

人類は自然を加工して文化にする。

この加工するとは、偶然に任せてランダムに身体を動かし自然に影響を与えることではない

加工は、いつも同じように、繰り返し、反復して同じような型で行われる。そうして同じようなパターンのものをいくつも、複数作り出す。

その加工処理の必然的に決定されたものでもない。型をどのように作り出すのか、型を生み出す加工処理の反復をどういうパターンで行うのかは、自由である。

コスモスとしての文化は、こうして偶然でもなく、必然でもなく、自由に作られる。文化はパターンを、反復を志向する

無数の人為、加工が同型のパターンで繰り返された結果、文化は<コスモス>に、カオスに対するコスモスになる

文化とはまさにこういう材料となる自然を人工的に加工して作られる様々なパターンのことである。

「区別」と「同じとして置く」こと

人間が反復して行う文化を生み出す営為は、煎じ詰めるとふたつの処理からなる。

ひとつ目の処理は選び出すこと=区別することである。

渾沌とした自然のなかからある部分を選び出す。渾沌とした自然を選ばれた部分選ばれなかった部分に区切り区別する。この区別は、まさに処理、特に「情報処理」なのだ。

ふたつ目の処理は「同じとして置く」ことである。

あるひとつの区別と、それとは別の第二の区別があるとして、この二つの区別をぞれぞれ異なる別のものと認めつつ、それでいて「同じもの」ということにする。この「同じさ」を生むこと、異なる区別を「同じだということにする」力こそが、異なる無数の区別を、あるひとつの「型」の反復に変換する

完成して静止したように見える文化の表層でも、この二つの処理のうちの「区別する」方については、その区別の処理の産物、痕跡を容易に見つけ出すことができる。コスモスとしての文化は、上下、左右、陰陽、明暗、善悪、新旧、互いに区別されるものたちの対立関係の網の目として、整然と織り上げられている。

ところがこのコスモスがコスモスであるためには、じつは「区別」だけでなく、「同じとして置く」処理もまた不可欠なのである。

『コスモスの思想』の岩田慶治氏は、私がここで「同じとして置く」と呼んでみたことを相即相入と呼ぶ。

<相即の法則>というものはないかもしれない。しかし、もしも、そういう事実、<相即の事実>があれば、それを鏡として、場として、自然と文化の全容をそこに写すことができる。相即相入の場である。(岩田慶治『コスモスの思想』p.99)

相即相入。

互いに異なったものたちがそれぞれの個別性を保ったまま、他のものとひとつになる、同じになる。そうしたひとつになる、おなじになる動きが動く「場」が、相即相入の場である。

相即相入の「事実」として、岩田慶治氏は次の例を上げる。

 ○自分たちを鸚鵡だという部族。

 ○祝祭の犠牲として捧げられた複数の鳥が、同じ一羽の鳥だという部族。

 ○旱魃になるのは儀式の時にかぶる帽子のせいだとする部族。

異なるものを関係付ける。違いを違いとして保ったままふたつの事柄を同じものだと考える。異なるが、同じ

こうした”異なるが同じ”を引き起こす、ショートした表現を「許すところ、そういう文化の場」こそが、我々自身の文化を含む人類の文化を一番深いところで支えている。

秩序をもった美的な世界<コスモス>がこういう渾沌の中に浮かんでいる。」1p.101

私たちの文化は、秩序をもっている。あるモノは他のモノからはっきりと区別され、互いに異なったものとして、混じり合うことなく、精密に間隔を空けて並んでいる。

その精密な間隔という理念を構築するのは、等間隔にならんで運動性を封じ込められれ静止した人工物たち、象徴たちから、文字たちから、建造物たちと、それらの相互参照のすえに立ち現れる「概念」の対立関係である。

近代科学の輝かしい秩序、コスモスもまたそうしたものである。

私たちの世界はミクロなスケールからマクロなスケールにいたるまで、互いに区別されたものたちが整然と(他とあいまいに混じり合うことなく)並んでいる場所だという顔をしている。

しかしこのコスモスが、渾沌、カオスの海を漂う浮草のようなものだとしたらどうだろうか?

「それは徹底した<カオス>を母胎としている。」p.101

ここでいう「それ」とは、コスモス、秩序のことである。秩序はカオスではなく、カオスと対峙するものとして確かに存在する。しかしその存在はとうのカオスから、カオスを母胎として、そこから浮かび上がっている。

カオスは均質均一な「一者」ではなく、その中に、無数の差異化の傾向が充満している。「区別すること」と「同じとして置く」ことも、カオスの中で動く事柄であって、カオスそれ自体の動きの傾向のようなものである。

論理を拒否し、因果律を排除するところ、いわゆる相即の場がそこにある。」p.101

カオスの世界には、コスモスを構成する要素たちを互いに区別し引き離す運動の痕跡としての「論理」はまだない。カオスの世界では、まだ互いに区別された要素が生まれていない、固まっていないのだ。そこでは一者は一でありながら多であり、一ではなく多でもない。

カオスの世界にも”論理”があるとすれば、それは中沢新一氏がいう「レンマの論理」であり、同じでありながら異なり、異なりながら同じ、ということを可能にする第三、第四の論理である。

カオスには要素の区別がないのであるから、また時間的な前後関係、過去と現在、現在と未来の区別も無いのであるから、「因果律」も考えられない。

海面に顔を出す島は、深い海底から生えている。小さな島も広大な海底に広がる大地の一点の突起である。島は大地と同じであり、しかし大地とは別の島である。

ある面から見れば同じであるし、別のある観点から見れば明確に異なる。

見ても見なくても、見方がどうであれ、同じであるし、異なりもする。

いや、しかし浮島というものもある。

島は浮いていなくても良いし、浮いていても良い。


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