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あなたは黙ってコーヒーを運んでくればいいの

グザヴィエ・ドラン監督作品「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」を見た。これで公開されているドラン監督作品は全て見たことになる。I killed my mother、mommy、Laurence, anyway、Tom at the Farm、It's only the end of the world、神のゆらぎ、マティアスとマキシム、胸騒ぎの恋人…。

正直言って、ドランが「Call me by your name」を絶賛したと聞いたとき、少し耳を疑った。ティモシーシャラメと桃のシーンが持て囃されがちな映画だが、そこにあるのは徹底した映像美とナルシシズム、倦怠感、肉体的な恋だと思う。確かに、マイノリティを描こうとする映画にありがちな薄い悲しみや、疎外感に大きく言及することなく瑞々しい恋愛を描いたのは賞賛に値する。それは、マイノリティであったからといって阻害されるべき自由などないのだという声高な主張にもなりうるという意味においてである。しかし私はあの映画の描き方を手放しに「良い」とは思えない。美的で抒情的な部分だけを描いたとして、それはなんの解決にもならないし、なんの示唆にも富まないと思う。マイノリティが悩まない未来は確かに歓迎されるべきだが、マイノリティが悩まないことというのは、どうも虚しいユートピアのようにも思える。矛盾している。言い換えれば、言葉を介さずに会話ができればいいと思いながら、言葉なしの会話など虚しい、と思うことに近い。私たちが悩まずに済む未来など、果たして人間的だろうか。

伝えたかった言葉が伝わっていないことや、いつか伝えようと思いながらすれ違い続け、いつのまにか会えなくなってしまう苦しみや、伝えたならばたちまちに破滅してしまう言葉を孕みながら、それでも人生を生き抜いていくこと。そうした機微が、あの映画からは欠落していたような気がする。

LGBTを取り扱った映画に私がことさら感じるのは、言葉や気持ちが伝わったとき、そして受容されたときに表出する喜びの原型だ。もちろん、マジョリティやヘテロセクシャルの恋愛映画においても「伝わった」ことの喜びや、喜びを迸るようなエネルギーや映像美、シナリオによって描こうとするものは多くあるし、珠玉の作品も存在する。ヘテロセクシャルにおける恋愛の形式は、そもそも「相手を好きになる」ことへの寛容性が前提として存在していて、その形式、いわば約束事に乗っ取って感情が表現されていく。けれど、マイノリティにおける恋愛には、そうした約束事がない。そもそも、好きになることが「おかしいこと」という前提が張り巡らされているからだ。性自認のマイノリティに限らず、障害者や、社会的弱者を扱った映画でも同様だが、その「前提に対する懐疑」や、その前提によってもたらされた悲しみ、不甲斐なさ、疎外感がそこらに漂っているのだ。「潜水服は蝶の夢を見る」では、障害者として生きる前提を一つも説明することなく、しかし、説明するよりはるかに饒舌に映像がその前提を語りかけてくる。演技がそれらの制限を語りかけてくる。一方、「聲の形」などではそうした前提が都合の良い伏線やナレーションに似た存在として扱われ、主人公を主人公たらしめるための小道具に成り下がる。この意味で、新海誠作品が私は大嫌いだ。描こうとしている内容がどうこう、というレベルではない。世界そのものを何も認識していないとさえ思えるような、都合の良い前提が、理想的なマイノリティ像を作り上げてしまう傲慢さが、嫌いなのだ。

人にはそれぞれの事情が存在している。それをいちいち書いていては、尺が足りない。それは、俳優や映像やカットや色使いによって滲み出てくるものであり、そこに技量が潜む。「私はゲイだ、だから悲しい」「私の彼氏は障害者だ、だからつらい」などといった陳腐なセリフは、ドラン作品には出てこない。観客が分かりやすいように発されるセリフが徹底的に排されていおり、私たちが見るのは映画ではなく、生活や苦悩そのものではないかとさえ思える。映画は、その実、虚構そのものである。ファッションもそうだし、アートもそうだと言える。主語を大きくすれば、私たちの人生でさえその大部分は虚構ではないか。終わりのない一人芝居を続ける私たちの人生で、どこからが「演じて」いるのか、どこからが「演じていない」のかなど、曖昧になってしまう。どこからだって演じているとも言えるし、どこからだって演じていないとも言える。演じることは、何も鑑賞者に向けてのパフォーマンスではない。私が私のために、その存在を少しでも認めるために必死で演じることだってある。そうした必死さ、必死で生きようとすること、あるいは必死で死のうとすること。ドラン作品には、この必死さが溢れている。誰かを泣かせるための必死さなんかじゃない。私が私であって良いための、紛れもない生への執着であり、都合の良い真実なんかじゃない。私は、誰かにとって都合の良い「泣ける人生」なんかじゃない。

ユベールも、マティアスも、マキシムも、ロランスも、好き好んで主人公になっているわけじゃない。好きでマイノリティを選んだわけでもない。けれど、振り返ってみて「その生き方しかできなかったのだ」と自覚するのだ。そうした「描かれなかった」こと、その不在の確かなリアリティ。私たちの生活はむしろ、不在によって成立する。しなかったこと、できなかったこと、そうではなかったはずのこと……後悔、諦念、苦悩……。

ジョン・F・ドノヴァンは、不在を選んだ。それが本心からの眠り(overdose)だったかどうかは、誰にも分からないのだけれど、ルパートは存在し続けることを選んだ。私が私であっていいと、私が認められないその存在の耐えられない軽さ。ジョンも、ルパートも、その存在は劇の終盤で母親によって無条件に肯定されるが、この肯定の作業を一人で生み出していくことは、本当に、耐えられないほど、つらいのだ。少なくとも、私はその辛さが分かる気でいる。ドランがもしゲイでなかったとしても、彼はマイノリティの映画を撮っていたのではないだろうかと思う。生きること、生存、存在そのもの。マイノリティに生きる人たちはその存在の根源を認める作業から始めなければならない。私はこの世界の中で存在していて良いのだと、自分で自分を救い上げなければならない。その悲しみを、喜びを、感情の全てを、美化することなどあってはならないと思う。見栄えよろしく、感動のストーリーに仕立て上げ、極彩色の映像で「これが自由な恋愛だ」とか「現代に生きる障害者のサクセスストーリー」だとか、良い加減消え失せろと本当に思う。私たちはプロフェッショナルなんかじゃない。ただ、必死に生きているだけだ。誰かの感動ポルノになるために生きているわけじゃない。

だからこそ、私は私を、マイノリティはマイノリティを安直に悲しんではいけないと思う。安直に、これ見よがしに「私は悲しい存在です」と売り捌くことで、誰が満たされるだろうか。自分より満たされていない人を眺めてアヘ顔をしたいだけのナルシストが寄って集るだけではないのか。なかなか階段を登れない子犬の動画にアテレコをして「う〜ん。う〜ん。むずかしいなあ」とか言わされているように、「生きづらいなあ。ぼくに腕があれば良いのに!」とか勝手にアテレコされたいのか。「わたしが女の子を好きな女の子じゃなかったら良いのになあ!」とか言ってることにされたいのか。私は絶対に嫌だ。私が何に悲しみ、何に喜んでいるかを勝手に決めつけられたくない。ドラン作品の中で、さもLGBTに理解のありそうな顔をして近付いてくるカフェ店員に叫ぶセリフがある。「無神経じゃない、あなた。あなたは黙ってコーヒーを運んでくればいいの」。作品の中でフレッドは髪を振りみだし、殺さんばかりの怒気でカフェ店員に怒鳴りつける。いつも、このシーンで泣いてしまう。私は、カフェ店員に障害への配慮を求めているわけではない。私はただ、コーヒーが欲しいだけなのだ。本当に。

「ロランス、なにを求めているの」「わたしが発する言葉を理解し、同じ言葉で話す人を探すこと。自分自身を最下層に置かず、マイノリティーの権利や価値だけでなく、普通を自認する人々の権利や価値も問う人を」

「これ以上聞きたいことなんかないわ。驚く? なにに驚くの。お前は小さいころ女装していたわ。母親ならお前の告白を聞いて苦しむべき? 冗談じゃないわ。もともと仲のいい家族ではないわ」「ママ、まだぼくを愛してくれている?」「女じゃなくバカになったの?」

コーヒーが欲しい、という言葉を聞く前に、よくわからない配慮のガイドラインを作り出したり、深刻そうな顔で相談し始めたりする「SDGs」、役所、お偉いさん、自称マイノリティ気取り。手を止めて、声を聞け。ただ私は、コーヒーが欲しいだけだ。海外の人が日本語で話しかける前に断られるように、お腹が膨らんでいる人が話しかける前に迷惑そうな顔をするように、勝手な感動ポルノを押し付けてくる人がいる。何度でも言う。私はあなたの感動のために命を削っているわけじゃない。私は私の生き方を貫いているだけだ。

けれど、思う。その「私は私の生き方を貫く」ことによって、他の誰かにも命を削るような努力を押し付けてしまってはいないだろうか。私の精神の悪さを伝播させてしまってはいないだろうか。あなたには健やかでいて欲しいのに、私のせいでつらい思いをさせてしまっていないだろうか。掛けるべき言葉を見失ってしまってはいないだろうか。私が私であるゆえに、あなたがあなたであることができなくなってしまっていないだろうか。私が忙しそうだからという理由で、いつも何か努力しているからという理由で、あなたの口から溢れる言葉を、堰き止めてしまっていないだろうか。想像する。私はいつも、想像してばかりいる。

想像が不在のあなたの周りを埋めていく。あなたの周りにいろんな条件を付して、勝手に私とあなたを近づけたり遠ざけたりする。人形遊びのように。虚構の家の周りで、虚構の馬が走り回り、虚構の芝生が風になびく。私が私を演じ、勝手なセリフをこぼす。私が私を脳の中で演じている間、私は果たして私だろうか。そのときそこにいない私は、どこにいるのだろうか。みなみな、終わりの見えない舞台の上で、現れたり消えていく。ドラマトゥルギー、スペクタクル、アプロプリエイション、ミメーシス、アフォーダンス、キネーシス、パフォーマンス。亡霊のような私、亡霊のようなあなた、消えていくあなたと交わす透明なキス。そこにあって、そこにいない、さまざまのものたち。消えてしまった人たち。通り過ぎてしまった人たち。いくつもの過去、いくつもの未来、いくつもの私。あれが私であったかもしれない抜け殻、あれがあなただったかもしれない化石。

「今日僕が死んだら?」「明日私も死ぬわ」

ユベールの母親のセリフは届かない。一番届いて欲しい愛の言葉は高速バスに掻き消され、そしてプライドに掻き消され、消え去ってしまう。あなたが死んだら、私も死ぬ。全てを投げ捨てても、何もなくなっても、あなたのためなら構わない。伝えたい言葉は単純じゃないし、世界は複雑性に満ち満ちている。それでも、あなたの隣でその肌に触れたいと思うこと。複雑な世界の中で、悲しみが満ちた世界の中で、私が私でありたいと思うこと。ドランの作品はいつも、そんなことを思わせてくれる。

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