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冬の朝が到来して・レモンジャムがない日のこと・政治

いつものことだ。いつものこと? いつも……そこで湧き起こるさまざまの逡巡は本当にいつもなのだろうか。何かを忘れているような気持ちで、薄ピンクに染まった夢の中を歩く。片付けかけのテーブル、とうに冷め切った紅茶、責め立ててやまない締切、各種の書類、関係項のなかで生きる自分、賞味期限の迫った山型食パン、マーマレード、冷えた足の指先、目が覚める。冬の朝らしい弱い陽光に輪郭を浮かび上がらせるテーブル。羽毛布団にこもった自分の体温はあまりに頼りなくて、もう一度微睡むには寒かった。金沢に住んでいたころの秋から冬への推移を思い出す。バスに揺られて目に入る単調な海岸線のことなど。モルタルのような砂、敷き詰められたような灰色の雲。シリコンの揮発臭が漂う部屋で、起き抜けに牛乳を温め、ホットココアを作る。何度も修正を求められた書類が散乱している。昨日干したはずの洗濯物はどこかへ吹き飛んだのか、あるいはそもそも干し忘れたのか、がらんどうのバルコニーの清々しい清潔さだけがあった。

無音のなか、冷え切った足指をさすり、髪を無造作にかきあげる。透徹したというにはまだ温い空気を認め、どうしたものだろうか、と思案する。鉛筆で修正事項を書き込まれた申請用紙と、固まりかけのセメントと石膏、シリコン。昨日の夜(正しくは今日の未明)充電を忘れたスマートフォンは残り20パーセントほどの残余電力をもって通知を忙しく伝える。

清潔な部屋、思うようにいかないコミュニケーションの齟齬、思い出す視線、規則正しい物事、書類、メール、買わねばならないものたち、灯油、予約を忘れたあれこれ、あるいは予約済みの、そして進むべき方向性と自由な言葉。苛むすべて、うつくしい言葉と秩序正しい生活は折り合いが悪い。

少し先のことを考える認知や推論能力、彼の仕事は頼りない。けれど私はいつでも彼に頼らざるを得なくて、彼が拡げていく複雑な網目と、到底追いつけない現実のすべてを認めて、嘆息するばかりだった。先ほどトースターに入れた賞味期限間近の6枚切り食パンが焼けた匂いがして、おもむろに取り出しながらバターとレモンジャムを塗る。軽く目を閉じて、息を吸い込み、ふたたび目を開ける——推論能力や秩序がほんの少しでいいから眠ってくれることを願って——、この試みが成功したためしはない。すぐに意味と言葉と、幾つもの解釈や平和な秩序が部屋や身体を覆い尽くして、小さな物語がそこらで産声を上げ始める。

彼の触手から逃れるように、私は言葉をときどき逃走線として発してはみるのだけれど、どうしてもうまくいかない。ゴミを捨てたり、先ほど使い切ったレモンジャムの瓶を水に浸したり、水道水の鮮烈な冷たさ、瞬時に感じる冬の到来、再び思い出す足の指先の冷たさ、ハッとする、驚いて——空想の非力さをまざまざと思い知り——、清潔な部屋へ引き戻される。

ようやく朝日もその光を増し始め、私は掃除機を部屋の隅々までかける。置き去りになった仕事と書類を思い出しながら、今日つとめて冷静に対処すべき事案を考える。道路状況のことを考える、あるいは何を飲むべきだろうかとか、日中の気温のこと、連絡すべき人、来週の予定、滞っているあれこれ、ほとんど泣き出しそうになっている自分に気が付く。望んでいた秩序も自由も、まったくもって私を可能にしてはくれない。どこに行けば私は私であることを確固たる喜びとともに抱擁できるのだろう? 実感すら要らない、ただこのままでいい、ただひたすらに突き抜ける鮮やかな存在の鋭さを……

泣き出しそうになっている私のことを認めながら、私はクローゼットから着心地の良いニットとジーンズを取り出していて、至って冷静に羽毛布団を整え、窓を開け放ち、線で結ばれあった日々のことを受け入れているのだった。磨き抜かれた食器、透明なグラス、整列したメモ、それらのことを心地よく思う私が受け入れるべき秩序のことを考えて、ふと振り返り、彼方で手を振っているうつくしい言葉のことを思うのだった。

何も手放すことなどできなくて、上へ落ち下へ浮かぶ幾つもの星を眺めていることしかできない私のことを、どうしたらいいのだろう?

どこかへ意思を集約させ、うつくしい構造物をそこで築き上げてしまいたいのだけれど、そのためには私はあまりにも貧弱で、そして何より、この国は恐ろしく鈍感で、加虐趣味的で、私の存在を、うつくしさの存在を、ありとあらゆるマチエールを、表現の強度を、軽視している。憎むべきほどに。

最近、政治のなすことが恐ろしくてたまらない。無知で蒙昧で、おのれの利権のことしか考えることのない老人たちが眠りこけながら乱雑に決定していく制度の押しつぶしていくもののことを。けれど、瞬時にその恐怖や怒りは私自身にも向けられるのだ。私自身が日々遂行しているミクロ政治のことを。あれを顔と認め、敷衍された制度を利用し、服を着て、社会的構成単位としてそのなかで認められうる業績を出そうとする私のことを。私は政治家であり、同時にテロリストでもあり、そしてただただ泣き出しそうな少年でもあるのだろう。撤去されたブランコ、意味も住み処を失った砂場、暮れゆく夕刻、月の匂いが濃く立ち込め、私はただただ、政治家とテロリストと少年の顔を見つめているしかない。

そんなことを考えながら、身支度を整え、書類を丁寧に精査し直し、クリアファイルに収めて、家を出る。スターバックスのドライブルスルーで、温かい紅茶を頼み、1時間ほどかけて所用の場所へ向かう。11月下旬にしては暖かい日だ。交差点の信号、横断する人の顔(マスクで半分は隠れていてわからない、もう何も思わないほど生活に溶け込んだ顔貌性の否認)、そこかしこに並べられた広告、要請された注意、規則正しい日常。泣きそうになるのを堪えて(機械になりそうなのを必死でとどめて)、書類を窓口で届け出る。結局また差し戻された書類とその不備内容を確認し、ベンチに座り込む。丁寧とも無愛想とも思わない事務作業の担当者の顔を思い出そうとしてみる。日差しが暖めたコンクリートに手を触れる、そこに生えうる命などないのに。コンクリートかセメントを固めるあの騒がしい機械のことを思い出す。叩き込まれた平坦さが奪ってしまった芽吹く可能性と、その代わりに私に与えられた歩行、忌々しいほど青々とした空、憎むべき政治……。何度思い出そうと努めても、ただマスクがあったことや、飛沫防止用のビニールシートに歪められた目線、指示された不備内容のことしか思い出すことはできないのだった。

しばらく日の当たるベンチで呆然としながら、マスクを外して、行き交う人を眺めた。午後からの作業のことを片隅で考えながら車へ乗り込み、次の目的地をナビにセットした。数ヶ月後まで埋まったスケジュールと、そこで発されるだろう言葉。「目的地まで、およそ30分です」。激しく渦巻くイメージ、滴り落ちる表現への要請、記憶、過去の肖像、聞きたい言葉、聞けないすべて、聞こえないあらゆること、わからないこと、わかりたくないこと、どうしてもわからない声……。

本来、音はうつくしく整然と、方向性をもって、私に飛び込んでくるのだろう。代わりに私に与えられた視覚、嗅覚、触覚、味覚。よく空想する、概念としての音。切り分けられた話者、瞠目するに値するような鮮烈な切り口、忍び込む声、圧縮されない言葉。シングルチャンネルで私に与えられるノイズに等しい言葉、声。いつも世界を再構成しなおしている認知、私は何かを憎むことはしないし、憎むということがどういうことなのか、わからなかった。けれど、最近は政治の有様があまりにも唾棄すべきことのように思えて、徐々に、憎むということを覚えつつある。政治に対する憎みは、いずれ自分の身体や可能性についての憎みにもつながるのだと知った、思うように動かない身体は、誰もコントロールすることのできないポピュリズムなのだ……。

政治未然のことを考える。車を走らせながら、右目に海を認めて、エアコンをつける。それなしで済ませることのできる共同体について、あるいは認知なしで済むことのできる身体について。名づけることなく、目とその機能を受け入れ、見ることができる可能性を考える。信号待ちのあいだに目を閉じて——横転する車体、散乱する破片、眼球に突き刺さったパイプ、騒然とする肉体や政治や観客、未認可のままの書類、書きかけのあれこれ——、もう泣き出しそうな少年は唖のように黙ったままで、鋭い目線をこちらに投げかけているのだった。墓場で私は少年に向かって尋ねてみる、「どうだった?」。依然としてきっと、少年は黙りこくって、熱帯魚の泳いでいる水槽を落とすのだろう。スローモーション、従順な物理法則、割れるガラス、跳ね回る熱帯魚、青々とした雑草、それらを私と少年は見つめていて、私はテロリストとして少年を殺してしまうのだろうことも、容易に想像できた。滑稽なことに、そのテロリストは政府が雇った暗殺者なのだ。

作業やミーティング、書類の修正を終えて、家に戻ると私は疲れ果てて、ソファに凭れかかり、しばらく動くこともできなかった。いつもそこに政治の醜い顔はあって、認知症の老人のように喃語を発している。整形と加齢を繰り返したその顔のあらゆる皺には垢が溜まり、腐敗臭を発して、まるで分裂しそこねた桑実胚のような有様を呈していた。私はそれに対して殴りかける気力も、罵詈雑言を重ねる胆力もなくて、ひたすらにそれを睨んでいることしかできなかった。しばらくそうして疲弊とともにいて、ようやく明日の政治や顔や予定や……そうしたことを考えることができるようになって、私は洗濯機の前で小さな決心をした。今洗濯機に入れたものはきっと、明日には脱水されきって、カラカラに乾涸びて、かろうじて生き返るに十分な水分のみを保持しているだけになるだろうと考えた。そうして、洗濯機を運転させて、シャワーを浴びることも諦めてベッドに倒れ込むように睡眠を取ったのだった。

いつものことだ、いつも……そう、いつも洗濯機はエラーを起こして、私は清潔な部屋でひとり、政治と表現と少年のことについて考えるところから始めなければならないのだった。昨夜のテロリストは今はオレンジタルトに夢中で、私はレモンジャムが空になっていることに気づいてはじめて、今日という1日が始まったことを知った。






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