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12月をまだ許さない

sfcのメディアセンター3Fからオメガ館の外壁が見える。西日が鴨池周りの木を照らして、その木漏れ日に似た影がコンクリートに投影されて、モアレのような模様を作り出す。人は生き急いで、むろん私もその一人ではあって、今年と来年の境界線を飾り立てようとしている。忙しい赤と緑の包囲網から抜け出して、透徹した冬の空気の中で、どうしたらよいかわからず、立ち尽くしている。もう十分やったと思うし、同時に何もできていないし、何かをやってすらいない、とも思う。私が動きを止めたとしても、この世界は何一つ表情を変えることなく規則正しく回っていくだろう。そこに幾分かの喪失や停滞はあれど、それも全体としての秩序へ回収される。

芸術的な態度のことを考える。コンビニで温かいお茶を購入して、備え付けの電子レンジで30秒ほど追加で加熱する。80度前後の緑茶を手にしながら、ここ数週間のトラブルや…自分でも自分のスケジュールを把握していないことを考える。「把握していない」という言葉では語弊があろう、この感覚を少し前から抱いているのだが… 自分のなすべきこと、やりたいこと、やりたくないこと、為さなくて良いこと、幾つもの要件と条件を構造化できないまま、まるでデリバリー配達員のように、プレゼントを配って回っているのだ。その箱の中で、誰が誰に対して愛しさや悲しみや、その向こうあるいは手前で発生する利益や確かさといったものを分け与えようとしているのか。それを十分に知悉することなく、私は無遠慮に・思慮なく、それぞれの箱を次のところに届けていくことしかしていないのだ。

みなみな抱えている複雑さを、そのままに保持しながら通り過ぎる交差点のことを考える。肩がぶつかり、敵意に似た視線を瞬時に向けあい、個々人の生活や表現に気付かぬふりをして、奔流に飲み込まれていく。こんなところで生きていていいわけがない、と憎悪に似た感情を覚える。一方で、悲しいほど、私はこの群衆に対して手を伸ばそうとしていて、そこで言葉が無限に広がっていけばいいのに、と願っている。あなたの顔を知らなくても、あなたがどういう人なのかをすっかり、喜ばしく忘れ去ったまま、それでもあなたを尊重したいとずっと願っている。あの夏の日の記憶の中で、汗をかきながら、背中に差し込む焼け付くような紫外線、水の中を泳ぐように、あなたに対して適切な言葉を届けたいと思うことを。

風が池のみなもを揺らしながら、私はそこにゾンビの影を見る。生きていることも、死んでいることも、あるいは意味することも、意味しないこともそこでは重要ではなくて、言葉も根拠なく、意味も理由なく、全てのことが全てをそこで指し示すみなもを。

車に乗り込み、窓を全開にして、海の存在を近くに感じながら茅ヶ崎まで走らせる。メガネを無くして、データも消えたまま、どうしようもない不能さを感じながら、どうしようもないことが裏付けとして持っている「これまで可能にしてきたことたち」を考える。見えなくても、聞こえなくても、あなたの声がどこにも届かないとしても、私はあなたの声を、存在を、全身全霊で受け止めることができないとしても、ただ純然としてここにいていいはずだ。車が昨日からアイドリング中に振動している。おそらく点火系の問題だろうと察しがつく。

結局、イグニッションコイルとスパークプラグを交換した。8万8000円だった。何かを可能にするための土壌として、私はあれもこれも、幾つもの素材を欲しているのだけれど、結局それは無数の労働と貨幣経済と剰余交換の上に成り立っていることを、これ以上なく痛切に思い知る。言葉や芸術や、あのとき差し込んだ光や、全てが丸まり、裂開性となるあの夜は、おのずとそこに立ち現れることはないのだ、どれほど強く望もうとも。ある意味で、裂開性の夜も夏の日も記憶も、願うだけでは足りず、私たちの強欲な指が形をなぞり、構造を作りあげていかなければ、そこに現れてくることはない。

振り返らずに、同時に記憶を大切にしながら、プールへ飛び込む。破裂音とともに、私であることの全てが全身全霊で肉体を肉体として収縮させて、私はようやく肉体をそこで掴むことができる。微細な産毛同士のあいだに入り込む小さな空気の粒子、拘縮、鼓膜、爪の先にある光、落ちる硬貨、黄色と青が混ざり合う中で迸るように直進するエクリチュール、パロール。

まだそこへ行けない、と思う。こちらが追いかけていたはずの言葉が、いつしか言葉になりきらないまま、私を追いかけている。みな忙しく今年を終えようとするなかで、あるいは、みなそれぞれの人生を歩み始めようとするなかで、私はまだ「人生」という言葉を使えないでいる。もうそこに見えている落下点・水平線で、私はまだそこを越えることはできない。芸術は国境をもたないが、私はどうしようもなく日本国籍を保有していて、ここでパソコンの画面に向かうしかない。白いスクリーンは無限の触手を伸ばしていて、覚醒した眠りへと誘っている。

あなたへ顔貌性なしで触れるための言葉を編み出すにも、十分な準備運動が必要になる。器官なき身体をここで自らに(空間に・時間に)インストールし、私は私の眼の機能をすっかり忘れたまま、眼でシニフィアンを認めなければならない。制度に乗りながら・快適な車の中で・私を可能にする社会的組織(tissue)の中で、制度を知らないアバターになる必要がある。アバターとしてそこでいつも生き直しながら、私はそこで死ぬる覚悟を持つようになる。人が人たり得るのは、尊厳ある死によるものなのだとすれば、顔貌性なきヒトへ、ポストヒューマンへ、死に方を、尊厳を、教えてやらなければならない。


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