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アカシアの俎板

何かを吐いてしまいそうな気がして、目が覚める。皮膚から3cm下あたりが妙に火照ったような心地がし、それが内臓からの熱だと気付いた。自分がなにかひとつの大きな臓物になったように思えてくる。枕元に置いてあったミネラルウォーターを手繰り寄せ、粘ついた唾液を水とともにそのまま嚥下した。すべらかな水が私の食道や胃を軽やかにしていく。いつも驚いてしまう。自分が動物として必死に熱を発していることに。生命を維持するための機能を備えた私の皮膚たちを、臓物たちを、しかしありとあらゆる現象に言葉が付されていることを思いながら。しとやかな獣のように、すべらかな肌を必死に武装しながら言葉を紡いでいる。背骨の凹凸が陰影を織りなす体躯の軽さにも人を愛するための有機的な準備運動がなされているのだと思い知る。瞼を軽く閉じて、あなたの手触りを思い出す。いくつもの自販機たち、高速道路ごとに破壊された夜、テールランプの連なり。やや荒れた手も、健康的な赤みを宿した頬も、くるぶしの厳めしさも、ベルリンを想起させる双眸も、ここには無いのだった。


時々、テレピンを使う。あの匂いが好きだ。茫々とした原野の中でひとり吠えている獣を感じる。うねり粟立つ毛並み、一定間隔で収縮する臓腑たち、吐息の熱さ。豚の毛をきつく束ねた筆で、ローアンバーを麻のキャンバスの上で伸ばす。光によって作られた不可視の領域を知識によって推しながら描いてゆく。私たちは輪郭を語る言葉を深い箱に閉じ込めた。あの箱を開けるには、再びみやまへと踏み入らねばならない。繁く生う草たちを踏み分けながら、あの言葉を交わすならば、森をビルに、海をつちに、変えねばならない。事物はなにごとも、不在によって描かれるのだから。肌が終わるところ、というのはすなわち、肌の不在、あなたの肌はここまでしか形を持っていないのだということの具体的顕現である。それ以降は、部屋の暗がりや、広がる風景があるのであって、決して黒い線が貼り付けられているわけではない。忙しく何事かを叫ぶ子供たちを見るにつけ、彼らに与えられるべきは黒いクレヨンでは決してないと思う。決して。あの確実さ——愚鈍さといって良いほどの無神経な決定性をもたらす——、星たちの抱える正確な悲しみの所在を知ることもないくせに、物知り顔で座標を指し示す卑しい大人たちのような確実さを、得てしまうのだから。黒いクレヨンというのは、まさに暴力の形をしている。部屋のドアノブに似た明確さがある。それ以外の余白を持たない、言葉を無くした剥製の獣たちは、静かにカタストロフを待つ。匿名大衆の姦しい物語行為が犇めくSNSに埋め込まれた言葉たちも、同じような目をしている。一様に並べ替えられ、破壊を待っている。信号機が点滅するようなやり方で、私は彼らに素早く一瞥を与える。見つめすぎると、その空虚さにあてられてしまうから。清潔なベッドシーツ、切り分けられたばかりの無花果、テレピンやリンシード、チタニウムホワイトの染み付いたジーンズ。宵越しの陽光が緩やかに孤独の領域を押し広げながら光をそこらに満たしていく。ぬるい紅茶を湛えたまま小さな水溜りを作っているグラス、緩慢に空気を混ぜているエアコン、脱ぎ捨てられたTシャツ、一枚だけ摘み取ったギボウシの葉。親指の付け根の鈍い痛みや、中指の第二関節あたりの焼くような鋭い痛み。痛みはいつも、私を確かにする。意図しないままふとした瞬間にその傷たちに触れて、顔を歪めながら——テトラポットを思い出して、なぜならあれはまさしく痛みのために存在しているような残虐な装置なのだし、あれのせいで擦りむいた足の傷は今でも(幾分か淡くなりながら)皮膚に残っている——、言葉たちの感覚を掴み直す。

あなたには敵わない。どうやったって、記憶のしじまに滲むその軽蔑を押しのけることができない。私はいつも痛感する。正午に近くなるまで、私は結局この部屋以外の場所へ動くことはできなかった。満ち足りた顔、ときどき深刻そうな顔で原稿を読み上げるアナウンサーのせわしい口の動きを観察しながら、音のないテレビの画面を凝視していた。テレビは音を出さない代わりに、ワイヤレススピーカーから平均律が流れている。私は、あなたにすっかり嫌われきってしまいたい。例えば鰯だとか鯖だとかが俎板の上で首をだん、と落とされる時のあのぎょろぎょろした目。母親がそうした魚たちの首を落とすときの、だん、という音、あれが本当の意味での断末魔なのだ。船の上で、こめかみから鋭いチタン製の針をぶすりと刺されるときのくうっ、とも、かくっ、ともつかない、ただ只管に動いていた鰓や鰭が静止して物体に成り代わるあの瞬間の音ではなく、アカシアの俎板で、首を勢いよく落とされる音こそが彼らの物体としての終わりなのだ。生命として終わり、物体としても終わり、ただの珍妙な肉片になりゆく彼ら。あの魚に、私はなりたい。鱗を落とされ、皮も剥がれ(あまつさえ皮のついていた面は湯通しされたりして六角形の模様を粟立たせる)、骨も丁寧に抜かれ、キッチンペーパーで水分も程よく抜かれる。つるつるした陶器のうえで、丁寧に並べられ、賛辞を受ける。あんなになれたなら、私はどれほど幸せだろう。もちろん、あなたにとっての幸せという意味ではない。幸せという相対的なものを定義するつもりはないし、それは何も生みはしない。マルチ商法のように、幸せがどうとか不幸がどうとか語っている大学生の実直なほどに虚ろな瞳よ、その無意味な声帯よ。彼らの伝える幸せとは結局のところ、伝える媒体を持っているという意味での幸せでしかないのに。冷たい鉄板のような海へ我が身を打ち付けてでも掴み取りたいと思うことも、過去を憐れむことなく直視する覚悟を持つこともないまま、無闇矢鱈と肉体の若さに託けた理想を振り回している。痴呆症に似た目たちよ。結局のところ、あなたもそうだったのだろうか(逆も然り、私もそうだったのかもしれない)。覚悟と後悔は同じ温度をしている。私は覚悟をし続けてきたのだし、それによって痛みを覚えた。そうやって歩んできたからこそ、私は誰かに頼ることができないのかもしれない。覚悟と後悔と痛みとで、さまざまの問題——あなたの言葉を借りるなら「ややこしいこと」——を乗り越えてきたから。その痛みたちをあまねく、あなたや彼らや彼女たちに求めることは傲慢と知っているから。だからいつまで経っても痛みの展開図を作ることもできず、紙飛行機を飛ばすこともできない。あなたはするすると展開図を書き上げて、いなくなってしまった。あの折り目の孕む静謐さへ辿り着くまで、私はあといくつの痛みを葬らねばならないだろうか。軽やかさは、同時に痛みの正しい埋葬によって構成される。視線の浮遊、手触りの湿り気。いくつもの葬送を経てきたあなたのなめらかな悲しみに、少しでも触れたい。ほんの少しでいいから、その手触りや痛みや口どけや温度を知りたい。あと5cmほどの距離で呼吸をしているその静かな有機的上下運動に、黒目と白目の境界線にこめられた決別に、私のいるべき場所はないのだろうか。あなたはすでにあなたであって、私などいるべきでないのだろうか。私という存在があなたを平板な存在に成し下げているのならば、私は魚になる覚悟がある。虚しく鰭を動かし、虚勢を張り続けながら丸いガラス瓶のなかで申し訳程度の水草を食む。忌まわしいほど完璧な円柱形の中をだらだらと回り続け、私は私を葬り去りたい。ぬるい水が私の首元までを充している。


蛍光灯を割りながら(怪我をしないように、ビニール袋の中で、がちゃんがちゃんと割る)、私は先ほど埋めてきたあなたのことを思う。帰り道に買ってきた金魚もそこらへんでぐったりしている。急に冷え込んでしまった9月下旬の空気を静かに飲みながら、黒い地面は夜へ推移する奇妙な寂しさを抱えている。私はぐつぐつと煮える鍋を放置して、あなたを埋め切ってしまった。あなたは何も言わず、冷たくなった。金魚が2、3回ほど身をくねらせる。そのたびに地面の微細な粒子がまとわりつき、愚鈍なフライのようになる——フライというより、揚げられる直前の卵やパン粉を塗せられた情けない状態で——。埋めたというのはすなわち、こういうことだった。


どうでも良いような会話を交わして(私にとっては全てがどうでもいいはずがなくて、全ての言葉に滲む思慮を余すところなく、一滴残さず、味わい尽くしたかったのだけれど)、空欄だったカレンダーを埋めていく。間抜けな私を横目に、あなたは律儀に月の裏側に記された全ての予定を確認していく。私の内側で蠢く生物としての抵抗の凄まじさを知ることもなく。だからあなたは美しいのだと思う。何かが決定的に抜け落ちたような優しさを持っているから。優しさは他者のことを見つめ、その一挙一動に目を配ることではないと思う。同時に、諦めによって成立した、一見理想に近い優しさもまた異なるのだ。自分自身が本当は何を望んでいて、何が気持ちよくて、何が嫌なのか、何をあなたに求めようとしているのかを寸分狂いなく見つめることこそが、優しさだろう。あなたの口から溢れる祝福や、その華奢で大きな手から下される憐憫に似た暴力の織りなす航路を見つめることは、傲慢だ。私があなたに、何をしたいのか。何をして欲しいのか。どこにいて欲しいのか、どこにいて欲しくないのか。それらを見つめる作業は、孤独な獣の背中を撫でる感覚に近い。ひとりきりで必死に熱を発し、言葉にならない言葉を叫び、そこらに満ち満ちた敵意にひとり毛並みを逆立て、充血したまなこから発される視線を辺りの草いきれに投げかける獣の背中は、ひどく冷たい。その鼻梁や月の光に浮かび上がる脊椎の輪郭を撫でても、その視線は和らぐことなく、どこか空虚な場所をいつまでも見つめている。私は私の視線を、私に向けたいだけなのだと思い直す、いつも。誰かのために消費する熱量も、投げかける言葉も、私の空虚さがそれらを無駄に柔和にしていく。何の役にも立たない道具に成り下がってしまいたいのだ。海辺に転がる原型を留めていない遊戯具のように、あらゆる犠牲を投げ出し、記憶を漂流させ、悲しみやトラウマや悲劇を洗い流したい。ハコフグが打ち鳴らす歯の硬さも、海月の透過させるあらゆる光も、ブダイの開き切った瞳孔も、全てに付された生命の悲しみも、味わい尽くした。あなたはその悲しみを捨て去ってしまった。私はいつまで経ってもそれを消化することができないでいる。平易な悲劇が舞台の上で単調なリズムを鳴らしているのが見える。私は悲劇に向かって語りかける。

「どうしていつもそこで、踊っているの?」

「ここにいなくてはならないから」

「それがあなたに課せられた義務なのね」

「義務というよりはもっと根深い。全てに付与された権利でありながら、みなみなそれを忌み嫌う。いざ悲しみの晴れた空の下で自由に歩き出そうと思っても、彼らは私の打ち鳴らす底深いリズムがないから、たちまちに足をもつれさせてしまう。私はひまわりの咲く地面の下で、執拗に秩序を与えているに過ぎないのに」

「リズム、生への渇望、喜びへの従順な献身、7つの悲しみのマリア?」

「献身、良い表現を使うね。私はいつもあらゆる複雑さや簡明さの前で諸手を広げている。人はさまざまの事象を何かに翻訳したがる。だから、私は私の責務のために、その翻訳作業の割れ目に潜んでいる。ふとした瞬間に——たとえば数多あるテキストから目を背けたとき、斜めに読み飛ばしたいくつもの理解されなかった言葉たち、あちらを向いている間に進んでしまったセリフ、上から下へ、下から上へ飛ばされていく匿名大衆の叫び、帰ってくるのことない往復書簡、死にかけているラブレター、沈黙してしまった快楽、複数の単一性——、励起される日常からの転落、悲劇からの滑落事故。それがまさに、悲しみの本領だから」

「事故なのね」

「事故というには誤謬があるかもしれない。むしろ、それ自体が日常だよ。日常からの転落とは言いつつ、その落ちる先もまた、日常なのだから。いくつもの転落が続いて、それがいくつもの地層を織りなす。どこまで行っても私たちは3次元の世界でしか生きられないように、悲劇もまた、そのレイヤーでしか存在できないのだから。そう、君の語る『あなた』はその層から抜け出してしまったのだったね。もう月の展開図はできたの?」

「そうみたい。私には何のことかわからないのだけれど、いつもそれを広げたり畳んだりしているわ」

「行為の反復、悲劇と喜劇の反復、トラウマと治癒の反復。AからB地点の中間M、BからMまでの中間地点のM’、そしてまたM”、M^nというわけだね。広げることも畳むこともなくなったとき、言葉が消滅してしまうから……。それまでに、決断をしなくてはいけないよ」

「あの人があの人であるための言葉を、私が与えられるのかしら」

「そのための肉体だろう? そのための叡智であり、歴史であり、原野であり、逡巡であり、全てであるのだから。全てを投げ出してでも、そう願うのならば、その言葉を紡ぎ出すことはできるはずだ」

「傲慢ではないかしら? 誰かの悲しみを勝手に想像して、勝手に補おうとするなんて」

「傲慢さは、あなた一人で抱え込まなくて良いのだよ。無論、全ての事象は解釈のたびに傲慢だとか不潔だとか絶望、希望、あらゆる粗雑な感情がつきまとうものだけれど、それは同時にあなたが生きていることの美しさを担保するのだから。航路はまだ青いね。絶え間ない反復運動は円環構造をなすけれど、思い出してほしい、風はそれゆえに吹くのだということを。羽の一枚にとってみれば苦痛の連続かもしれないが、それが織りなす運動が、何かを動かしうるのだということを」

何かを得るためには、何かを失わなければいけない。そんな当たり前のことが、我が身に降りかかってみれば、いくつもの可能性やいくつもの後悔が脳内で残響をなし、あらゆる不備を紛糾しはじめる。しなければいけないことたち、責任を取るべきものたち、向き合うべきものたち、失うべきものたち……。得るべきものより、失うべきものを考えるほうが、よほど骨身に堪える。奥底に埋まったまま沈黙した往復書簡たちのすすり泣きが聞こえる。いつまでも返信を待ち続けている(実際のところはいつまでも失望し続けなければいけない哀れな電話交換手)彼ら。不意に嫌な汗が身体中から噴き出る。膀胱のすぐ上あたりが痛み始める。胃液が上がってくる感覚がある。呼吸が浅くなり、吸い込んでいる空気がまるで泥のように思えてくる。他者への恐怖によって粘度を増した空気が頭痛を拡大させていく。私は悲劇に向かって、質問してばかりだ。悲劇の方から、私に問いかけて欲しい。なぜ、物事はみなみな沈黙してばかりいるのだろうか。目を軽く閉じる。瞼の裏側と、眼球に間にある暗闇が浮遊している。軽い吐き気を覚えて、再び目を開ける。無論、傲慢であることに変わりはないのだ。あくまで、私が一人で抱え込まなくて良いというだけであって、誰かの空白を埋める行為は傲慢であるのだし、私はいつもそこを往復している。


あなたがケルン大聖堂へ行くと知ったとき、私はどうしていたのだろう。うまく思い出せない。「そっか」と言ったような気もするし、沈黙していたような気もする。きっといつものように曖昧な表情でやり過ごしていたのだろうと思うけれど、あれは絶望と呼んで良い痛みだったはずだ。私もそこに行くはずだったのだから。けれど、あなたが行くのなら、私のその旅程は惨めなものになる。私はまるで発情した猫か、車のマフラーあたりにぶら下げられたぬいぐるみのような存在に成り下がってしまう。どう足掻いたところで体裁としては「男についていった女」になるのだから。あなたと一緒に飛行機に乗ったとして、それはきっと楽しいだろう。その横顔を見ているだけで十分に満たされた気持ちになるのだろう。私はどうでもいい存在に成り下がりたいのに、否応なしに反応するいくつもの細胞たち。それらの幸福は結局、私が掴み取ったものではないし、そんなふうにしてあなたとの距離を親密にしたくはない。予定調和の——普通ならばこの場面でこうするよねとか、ドラマで見たようなセリフを反復する機械——ぬくもりが温めうるのは表面的な接続詞だけだ。だって、なのに、だから、だけど……。来週には空港に行くのだと思いながら、私は自分の顔を覆う。私の人生だけが高速道路のサービスエリアに捨てられたような気さえしてくる。慌ただしく通り過ぎるいくつもの親密さたちよ、一瞬のうちに光を失ってしまうテールランプ、ハザードランプ。冷え込んだサービスエリアでひとり静かに自らの殻の形を確かめているヤドカリへ、セーターを着せてあげる。ヤドカリは今にも消え入りそうな声で、こう言った。

「ありがとう。ここに来ないと、自分の形が見えなくて」

その瞬間に、私もヤドカリだったことに気が付く。背負っている巻貝を離れてみれば、ひどく痩せこけた醜い螺旋状の何かが私にはあって、けれどそれは巻貝の中にいる限り認めることはできないのだ。ジャンクションでウインカーを点滅させながら左車線へ入っていく彼ら。並走したかと思えば、無言ではるか後ろへ過ぎ去ってしまった人たち。小休止として、読み方もわからないサービスエリアで缶コーヒーを買っていく彼女たち。けれど、ごめんね、私はもう行かなければならない。彼の肉体を埋めにいかなければならないから。ヤドカリは寂しそうな顔をすることもなく、ただ丸い目をこちらに向けていた。


車のトランクには月の展開図が積み込まれていて、同時に、その月の展開図を書き上げてしまった彼——正確には彼だった肉体——も積み込まれているのだった。過ぎ去っていく車たちの残すほのかな残光に時折照らされながら、その物体たちは振動に合わせて静かに上下していた。あなたがあなたであるための言葉は、あまりにも形が強すぎた。あなたの内側に入る前に、言葉の方が輪郭を失ってしまったのだ。ある表現が、別の言語体系の中で組み替えられる時の副反応に耐えられなかったとも言えるだろうか。もう少し平易に言い換えれば、翻訳できなかったのだ、悲しみと苦しみを。私はあなたの諦めや苦しみを知る言葉は持っていたように思うけれど、その事象を組み替えて流し込むための言葉は、まだなかった。ごめんね、あなたを愛することは、その言語を私のものにすることでもあったのに。けれどよく考えてみれば、それは私を失うことでもあったのだった。組み替えると言ったけれど、正確には入れ替えることだったのかもしれない。知ることを踏み越えた先には私による私の存在の放棄が待っている。知らなければよかったとは思わない。この痛みを知る人は少ないのだから(少なくとも、あなたの苦しみを知っているのは私だけなのだし)。ごめんね。何度も謝りながら、結局払い戻したドイツ行きの航空券や、諦めてしまったいくつもの機会や、あなたと交わしたはずの言葉を捨てていく。知りたいと願いながら、結局、知ることは私を捨てることなのだと思い知る。いつも思い知ってばかりいる。窓から放り投げた蝋燭やあなたの横顔が涼しい音を立てながら崩れていく。その華奢で大きな手も、長いまつ毛も、ゆっくり、確実に捨てていく。雪が降るような音がしてそれらのどれも形を失う。その度に月の輪郭は明瞭になりゆき、山の端が浮かび上がる。高速道路を走る車はいつしか私の運転する車一台のみになっていて、中央分離帯も、対向車線も、標識もない、ただの道の上を走っていた。道と呼ぶにはあまりにも簡明すぎるほどの、通行路の上で最後のキスを交わして、運転席の座席の下にあなたの臓器や肉体の滑り落ちた皮を適当に折り畳んでしまい込んだ。車もいつしか瓦解していて、私は私の下にそれらたちを(愛の言葉を)埋め込んだのだった。

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