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母子家庭育ちのわたしのこと1

私は物心ついた時から母と二人暮らしだった。

私の母は、九州出身の4人兄姉の末っ子。14歳の時に洪水で母親(私の祖母)を亡くした。中学卒業後に知り合いを頼りに上京して、いくつかの職を転々とした。

私が4歳の時から市営の団地に母娘で住んでいた。当時、母は、建設系大企業で派遣の事務員をしていた。勉強嫌いの母は、車の免許を取り損ねて、唯一取れた原付を普段の足にしていた。子どもの頃、母が運転する原付によく二人乗りしていた。

父は年に数回、お菓子を沢山買って会いに来てくれた。

お兄ちゃんと呼んでいた男の人も、年に数回、会いに来てくれては、私と母に優しかった。

父もお兄ちゃんも、とても優しく、容姿もカッコ良く、好きだった。

他所を知り、振り返ると、私の子どもの頃の家庭環境は恵まれているとは思えなかった。幸せだと感じる思い出が浮かばない。

なぜ、父と母は私を作ったのだろう。なぜ私は生まれたのか。

子どもの頃を思い出すと苦々しい思いばかりで、このnoteを記していても、涙が出そうだ。

母は家庭的な人ではなかった。

一所懸命働くが、家事が不得意だった。洗濯だけは好きだったようで、上手にしてくれた。料理、裁縫、掃除は苦手で下手だった。母は職場や近所の人からよくモノを貰ってきて、使いもせず溜め込んでいた。2DKの団地の部屋は物でいっぱいだった。食事は、お米だけは炊き、おかずは惣菜が多かった。私が子ども時代、母も私も太っていた。母は後に糖尿病になった。私の記憶のおふくろの味は、焼き鮭。

四季折々のイベントも、誕生日以外はお祝いすることがなかった。とくにお雛様の時期、友人たちが自分のお雛様の話をしているのが羨ましかった。今になれば、お雛様なんていらないけれど、子ども時代は、自分のお雛様がないことが見窄らしいことに感じた。

そして、母は怒るとすぐに手を挙げる人だった。

保育園である日、腕や足の痣を先生に聞かれた。素直に「お母さんがぶった」と話した。その夜、母に「お母さんがぶったなんて言わないで」とぶたれた。ものさし、ほうき、創価学会の分厚い本…色んなものでぶたれた記憶がある。母が怖かった。

母の怒りがおさまらないとき、真っ暗な夜に私をベランダに閉め出した。怖くて悲しくて。そんな時、ときどき来る優しい父が頭に浮かんだ。父が家に来ると、母は怒らなかった。だから、父に来て欲しくて、ベランダでおもむろに「お父さん、助けて」と大声で何度も叫んだ。けれども父は現れず、母が慌ててベランダの鍵を開けた。

小学1年生になると、母が帰るまで、学童に通った。2年生からは学童をやめて鍵っ子になり、習字とそろばんの習い事に通った。学校で、〇〇袋を用意しなければいけない時、私は母に遠慮して言えなかった。ある日、30センチの竹のものさしを入れる袋を用意するようにと学校で言われた。覚えたての裁縫で私は自分で縫った。周りの子は母親手製の綺麗な袋だった。丁寧に名前を刺繍されてる子もいて、そういう家庭の子が羨ましかった。

けれども、私が小学4年生のある日、母がときどき手を真っ青にして帰ってきた。そして、夏祭りのとき、母が友人に教わって手縫いした紺色の浴衣をプレゼントしてくれた。母は着付けが出来ないので、近所のおばあちゃんに着せてもらい、出かけて行った。とても嬉しかった。このエピソードは、時折、他人に自慢する。けれども、私は1度しか着なかった。母が手縫いをしてくれたのは、その浴衣だけ。手元に残しておきたかったが、物でいっぱいの実家から、とうとう見つけられなかった。私の母への愛し方に似ている気がする。ずさん。

小学校の高学年になると、父は私たちに会いに来なくなり、母にお金を無心する電話をかけてきた。この頃になると、私も多少賢くなり、母の怒りを買うことが少なくなった。ベランダに出されることもなかった。

そして、私は父のことを嫌悪するようになった。

また、自分の家庭は、どうやら普通の家庭ではないことに気づいた。

父親というものは、家に毎日帰ってくる。母親が働いてない家もある。夏休みやお正月などは、多くの家庭は、祖父母や親戚と集まるらしい。物心つく頃、私の祖父母は既に他界していた。母は九州、父は北海道の出身なので、当時、関東に住んでいた私たちには、どちらも遠方だった。親戚とは疎遠だった。ときどき公務員だった母の兄(私の叔父)が、出張のついでに会いに来てくれた。

学校からの親のサインが必要なとき、大抵、父親の名前を書いている同級生が多かった。ある時から、私はときどき、そのサイン欄に父の名前を書くようになった。幸い習字を習っていた私は字が上手かったので、私が書いても先生にばれなかった。母の名前を書くと、母の名前を書いた理由を聞かれる気がして嫌だった。母と二人だけの生活がばれるのが恥ずかしかった。

うちは、母子家庭と呼ぶことを何となく知った。私は可哀想と思われたくなくて、家庭の話題になると、はぐらかしたり、逃げたり、黙ったり。ときどき、父親はいると嘘をついたりした。

母子家庭を公表するのに、メリットがあると思えなかった。親しい友人に話せるようになったのは、母が亡くなる報告をしたとき。もちろん、反応は「可哀想、気の毒」だった。けれども、自分の家庭をもち、安心する場所を得たので、友人たちの可哀想な反応を素直に受け止められた。

中学校は、新興住宅地と団地住まいの子どもが通うところだった。家庭環境の貧富格差が大きかった。団地住まいの家庭、豪邸の家庭、大型新築マンションの家庭。盗みや放火などする不良がいれば、大企業に努める親を持つ恵まれた子もいた。クラスのごちゃまぜ感が凄かった。

私はなるべく目立たないようにしていたが、牛乳瓶の底のように分厚いメガネをかけ、天パでデブの私は、中学2年から一部の男子にいじめられていた。暴力はなく、悪口や陰口だけだったので、卒業まで耐えれた。悪口や陰口のいじめなら、反論せず淡々と過ごすと、いじめてる側は面白くなくなり、私への興味が薄れていた。

高校生になり、私の両親は、私が2歳の頃、離婚していたことを押入れから見つけた戸籍から知った。

それまで私は、父と母がどういう関係なのか、二人から聞かされてなかった。よく分かってなかったので、聞こうともしてなかった。

結局、両親から直接、家庭について、父と母の関係について聞かされることはなかった。

そして、お兄ちゃんと呼んでいた人は、腹違いの16歳上の兄だった。

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