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「今日は良い日だった」を重ねて「幸せな日々」を作れている、という話。

確か、年末か年始。12月にカービィカフェに行った、その何日か後の事だったと思う。
珍しくテンポよく寝る準備をしていた息子が、「今日も良い日だったぽよね!おやすみぽよ~」と言って、ニコニコしながら布団をかぶった。

その瞬間、唐突に何かが腑に落ちる感触があった。

それまでにも息子がそう言って寝る日は時々あった。その度に私は何かざわざわした落ち着かない気分になっていたのだが、その日突然、それが何であったかをハッキリと理解した。理解できた。
「うんうん、そうだねぇ。おやすみー」と言って息子の頭を撫でて、電気を消して息子の部屋を出て、台所に向かって歩きながら、「これだ」と思った。

それまでの私が毎日、寝る準備をなかなかしない息子に何故あれほど苛立っていたかが分かったし、息子の好物を夕飯に選ぶこと、息子の行きたがった場所に出かけること、息子が欲しがったものを買うなどの「息子の要望に応える」こと全般に何故強い抵抗を感じるのかも分かった。

「子供を甘やかしてはいけない、ロクな大人になれない」と、当の子供である私に言い続けていた母は、本当は何を私に禁じていたのか。私は何を禁じられていると解釈したのか。

これだ。
「今日は良い一日だった」という感想を持った状態で、その日一日を終えること、だ。

いつ、どのようにそれが禁じられていたか、具体的に思い出せるわけではない。だが、少なくとも子供時代の私には、「今日は良い日だった」という感想を持って一日を終えた日はなかった。何か良いことがあった日は、寝るまでの間に毎回、それを打ち消すだけの何かが発生していた。奇跡的にそれがなかった日でも、布団に入る私の頭を占めていたのは、(布団に入ればこれ以上叱られないので)今日はもう安全だ、何とか無事にやり過ごせた、そういう種類の「安心」だった。

だから私は、息子がのほほんと「今日は良い日だったぽよ!」と言っているのを聞くと、ざわざわした気分になって、「そんなこと言ってないで、もう21時半だよ、早く寝なさい!」と叱りつけなければいけない気がしていたのだ。夜眠る前の子供はヘラヘラしている場合ではなく、親からそそくさと逃げるように布団に入らねばならない、あるいは不用意に親を刺激しないように神妙にしていなければいけない――「だって、私はそうだったから」と、そんな意識が掠めていたのだと思う。もっとも、私に歯磨きを急かされた程度で息子がしょげることはないし、ハイテンションな息子の話は私の小言ぐらいでは中々止まらないので、結局私が一人でざわざわしていただけなのだが。

とにかく、それが分かった瞬間、ざわざわした気分は消えた。
今、息子に「今日も良い日だった」と思える日があって、更にそれを私に言える日があるのは、間違いなく僥倖だ。――そう、素直に思えた。思えるようになった。

「今日も良い日だった」という感想を持って眠りにつける日。それは、恐らく「幸せな一日」のはずである。
理由はこの際なんでも良い。特別な日でもそうでなくても、オヤツがチョコだったとか、ゲームがクリアできたとか、絵が思い通りに描けたとか、息子が言っているのは多分そのレベルの話だと思うけれど、それはそれで全く問題なくて、重要なのは、「良い日」だと息子が感じることができる一日が存在したという事だ。

そして、そんな「幸せな一日」を、息子がきちんと感じられて、それを感じたまま布団に入ることが出来ている。
私はそれを邪魔せずに今日一日を過ごすことができた。それは、私の母が為しえなかった「成果」の一つだ。

そして、そういう「良い日」が「悪い日」の数や質を上回る日々のことを、恐らく人は「幸せな日々」と呼ぶのだろう。
それが子供時代であったなら「幸せな子供時代」、それが死ぬまで存在し続けたら「幸せな一生」となる。そのはずだ。多分、いやきっと間違いない。

ならば。私がすべきことは、この「良い一日だった」と思える日々を出来るだけ多く過ごすことだし、息子も多く過ごせるように願い続ける事だろう。
こればっかりは働きかけてどうこうなる事ばかりでもないはずで、私が闇雲に息子に好物ばかりを食べさせるとか、何でも我儘を聞くという話でもないが、「不必要に叱らない」とか「無闇に水を差すようなことを言わない」程度の事は可能である。

そういう意味において、最近の私は幸せな日々を送っている。
「しあわせだー!」と全世界に叫べるほど幸せか?と言われるとまだ自信はないが、特に悪い事の起こらない……多少何かが起こったとしても寝る頃までには忘れているし、こうして深夜に「今日は何があったか?」と思い返してみても、息子が楽しそうにゲームしてたとか、ポポが仏壇に登って位牌を何個も落としまくったので(不謹慎だけど)大笑いしたとか、夕飯の餃子を上手く焼けたとか、要するにざっくりと「今日も良い日だったぽよね!」という一言にまとめられる日ばかりを過ごしている。

そう、今日も良い日だった。
不快な事が一切起こらなかったという意味ではないけれど、でも今、もうすぐ布団に入ろうとしている時間に、「今日も良い日だった」と思えているのだから、今日も間違いなく良い日だった。
昨日もそうだったし、明日もきっとそうだと思う。たとえ違ったとしても、その先にもきっと「良い日」はたくさんあるだろう。

アラフォーになるまでずっと、「いつか幸せになるはず」、あるいは「いつかこの苦しみから逃れられるはず」と思って生きてきたけれど。
今、私は「良い日」を重ねて「幸せな日々」を作っている。作れている。
最近の私はそんな感じで、多分、きっと、いや間違いなく幸せです。


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