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「自分の気持ちが分からない」=「失感情症」と呼ぶらしい、という話。

この記事で、私は自分のネガティブな感情を認識しにくい、と書いた。

私には、「悲しい」と「寂しい」が分からない。
他にも分からないものはあるのかもしれないが、一般的によく聞く感情の中で、自分には今までの人生でほとんど経験したことがないな、と思う感情がこの二つだ。

ペットが死んだとき、知り合いが亡くなった時、失恋した時、そういう時には涙が出る。ただ私に分かるのは、「自分が泣いているかどうか、泣いていない場合に我慢しているかどうか」と「喪失感があるかどうか」で、その喪失感がイコールで悲しみなのかどうかはピンと来ないし、もっと小さな、泣かずに済むレベルの悲しみはそもそも検知できない。割と涙もろい方ではあって、その時のステータス次第では「スーパーで買ってきた卵に一つヒビが入っていた」程度で涙目になっていることもあるのだが、それも含めて、自分がいつ泣くかは神のみぞ知る、という感じでずっと生きている。
泣くタイミングの予測がつくのは映画や本やゲームなどで、ここだけは簡単だ。死別や離別が描かれるシーンでは大抵泣くからである。いつだったか、TVで見た『ベイブ』の冒頭数分の「ベイブが産みのお母さんと別れた」シーンで泣いたのは、我ながら瞬発力があると思う。

ネガティブな感情の中で一番簡単に自覚できるのは「怒り」だが、これもちょっと癖があって、自分にとって重大で、大きい怒りであればあるほど、認識しにくいという特徴がある。人間以外の何かに対する「なんでこんなにクソ暑いんだよ、太平洋高気圧は冬まですっこんでろ!!」といったどうでも良い無害な怒りは即座に感じるし、すぐ言える。自分自身に対して怒ったり苛立ったりしているのもしょっちゅうだが、他人に対する怒りは認識が遅くなり、深く傷ついていればいるほど気付くのが困難になる。さらに自分自身への怒りや自己嫌悪に転嫁されがちで、「あの件では酷く傷ついたけれど、そもそもあの人が悪いのか?自分が悪かった気がするな」となってしまい、そもそも本当に怒っていたのかどうかも分からなくなってばかりである。

さて、調べてみると、この感情を自分で認識できない状態は、「失感情症(アレキサイミア)」という名前がついているらしい。
特に感情の言語化が難しく、想像力が制限されたり、感情と体の感覚を区別したりすることが苦手だったりするそうだ。
症状の個人差が大きく、全ての感情を認識できない人と、私のように一部の感情だけが認識しにくい人がいる。また原因については、遺伝的要因と、環境要因の両方が考えられるとされている。私が当てはまるとすれば、毒親による環境要因、あるいは遺伝的要因を含めて両方で、ということになるだろう。

私の場合は「自分が気付いた分」に関しては、少なくとも言語化は出来るし、他人の感情について想像できないということはない……と思う。思いたい。が、少々鈍い可能性はある。思いやりがないと言われたことはないけれど、「なんでこの人、そんなことで怒ってる/凹んでるんだろ?」と他人に対して思うことは、多々ある。幼少期からのスパルタで、忖度した相槌を打つスキルだけはあるので、共感していないことを自分の意思で主張しない限り、バレることはほぼないが。

「失感情症の人は急に泣き出したり、心身症を起こしやすい」という面でいうと、これはめちゃめちゃ当てはまる。急に泣き出すのもそうだが、SE時代の最後の頃は、ストレスがたまっている自覚をするより前に突発性難聴や過呼吸を発症して休職するしかなくなったし、息子の就学前にも育児ストレスを自覚する前に過眠症っぽい症状が出てもいたし、そもそも幼児期の離人症っぽい症状を経験していた間、自分が辛いという自覚は全くなかった。ここはそういうものなような気もするが、とにかく私の体は昔から、私の思考よりもずっと、ストレスに敏感だ。いや逆か。私の精神がストレスに鈍感すぎる、が正しそうである。

私は「感情とは動くものである」と認識し始めた高校生あたりから、感情に対して非常に強い興味があった。逆に言えば、それまで殆ど自分の感情の動きを認識出来ていなかった。なので、自分の感情がどういう時に動くのか、何故こんな感情が発生するのかが不思議でたまらなかったし、ダンゴムシをつつく子供のように「わ、動いてる動いてる!」と自分の感情を見てはキャッキャしていた。フロイトやらユングやら、その手の本を読み漁り、ダニエル・キイスに傾倒し、大学受験ではほぼ全て、心理学科を受験した。
最終的に入った大学では、1年生の間は学部内の全ての分野を学ぶことが出来、2年生への進級時に専攻の学科を選ぶシステムだったので、私は心理学を専攻するつもりで、1年生の間はそれ系の授業を色々取っていた。

そして、気付いた。
心理学という学問は、「世の中の大多数の人の心理」を研究するものであって、「自分自身の心理」を研究するわけではないのだ、ということに。

今考えれば、「世の大多数」を学ぶことで、自分の見つめ直しにつながる可能性も高いのだから、ひとまずそっちを勉強してみれば?と言いたいが、当時の私は「えー、他人の心理が知りたいんじゃないもん」としか思えず、適当に受けた文芸系の授業での「文芸とは、自分の内面を見つめ続けるという事です」という教授の言葉に「これだ!」と思い、飛びついて、文芸を専攻することに決めた。
結局何の授業にもロクに出ていなかったので、単に緩い専攻で遊び倒す時間を確保しただけになったが。

ともあれ、私は高校から大学にかけて、自分の感情が動くことに戸惑いつつも、物凄く面白がっていた。
特に恋愛をしている最中は、ちょっとしたことで一喜一憂する自分自身が不思議で物珍しかった。感情のジェットコースターに振り回されつつ「自分にもこんなに感情があったのか、生きてるって感じするな!」とちょっと感動さえしていた。
泣き、笑い、怒り、それらの感情を消化するために夜な夜なノートPCに詩のような何かを書き殴り、それでも収まりがつかなければ、深夜の環状八号を歩き煙草をしながら徘徊して職務質問を受け、うっすらと夜明けに染まり始める空を眺めながら部屋に帰り、走り始めた電車の音を聞きながらベッドに倒れこんで眠る。
あの時期の私は、自分の感情を味わうことに夢中だった。その大半が怒り、失望、嫉妬、罪悪感、虚無感、喪失感、絶望、といったネガティブなものだったけれど。

特にネガティブな感情表現を禁じられていた私には、自由にネガティブな感情を発露すること、そしてそれらを味わい尽くす時間がきっと必要だったのだろう。
学生時代の一人暮らしでそれが可能になって、あの頃の私は自分の感情に思う存分振り回されることが出来たし、大量の文字として吐き出すことが出来た。
ざっと調べた限りでは、失感情症の対処には「自分の感情を気をつけて観察する」「言葉で表現する」などのリハビリ的手法があるようだが、私は無自覚にこのリハビリに相当することをやっていたようだ。
私の書くものが昔からネガティブに寄りすぎるのも、この辺りが関係しているかもしれない。

とはいえ、この「自分の感情を観察する」は、書くことで結果的にそうなっていたというだけで、ハッキリとそのつもりでやったことはないので、試してみる価値がありそうだ。特に、認識しにくい感情に対して。

私にとってほぼ無縁な「寂しい」という感情は、一人でいる時間を何より愛する私の性質を考えると、本当に寂しくない可能性がそこそこ高いし、今の子供のいる生活で「寂しさ」を感じる暇は現実的にあまりない気がする。
だが、ベイブの開始5分で泣く私が、日常生活では「悲しむ」ことがない、とは考えにくい。多分それなりの頻度で小さな悲しみはある……ような気がする。それを検知するセンサーが完全に節穴になっているだけだろう。
餃子が上手く焼けなかったとか、買ったジャガイモの中身が傷んでたとか、そういうため息一つで終わるレベルの悲しみをきちんと拾って、自然と悲しいと言えるようになれば、少し人間に近づける気がする。

その内、下らないことで悲しい悲しいとnoteで書くようになったら、「お、頑張ってるな」と思って頂けるとありがたいです。頑張ります。


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