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「自分はこれが嫌だ、我慢している」に気付く自体が難しい、という話。

毒親育ちだから、だとは思うのだが、私はどうも自分の感情を自覚するのが苦手である。ネガティブな感情は特に。
なので、「嫌なことを我慢しない」とか「嫌なときはきちんと他人に伝える」を実行しようとしても、それ以前の問題として、「私は本当はこれが嫌だけれど、我慢している」を発見すること自体に非常に難儀してしまう。

私の頭の中では日頃から、「こんなことは別に嫌がるほどのことでもない。何故なら(以下略)」「この程度、我慢というほどのことでもない。何故なら(以下略)」という理屈が大量に渦巻いている。そして、それらを一生懸命に掘り進めなければ、「本当は嫌だ」に辿り着けず、「私は我慢している」に気付けない。
毒親育ちを自覚してから、この「自分のネガティブな感情を発掘する作業」を気をつけて行うようにしてはいるのだが、これがやたらと大変だ。

例えば先日のこの記事で書いた、父の日・母の日問題のモヤモヤ。この記事で私は、『夫が母の日のプレゼントを私に用意しない件』について「長年グダグダモヤモヤしていた」と書いた。
これは嘘ではないのだが、ちょっと脚色が入っている。正確には「何となく面白くない感情で、毎年同じ自問自答を繰り返している状態」だった。
厳密に書くと、実際にはこんな感じである。


私は毎年『夫が母の日のプレゼントを私に用意しない件』について、毎年、「本当に問題はないのだろうか?」と、何となく面白くない気分で考えては「大きな問題はないだろう」という結論を出すことを繰り返してきた。
そして、息子が小学校に上がったタイミングで「看過できない問題となり得る」と判断し、息子に母の日イベントを体験させるために、夫に協力を求めることにした。これで問題としては解決した。
その後、自分の生きづらさ克服のために、自分が我慢している・不満を持っている事柄を洗い出した際、「ネガティブな気分になる事柄」で、かつ「考える回数やボリュームが多い」ことから、この『夫が母の日のプレゼントを私に用意しない件』もリストに上がった。従って私は、この件について我慢をしている、あるいは不満を持っていると推測できる。


お前はロボットか何かか。
そう自分に言いたくなるぐらいの、こう、何というか、アレである。
本当はここで終わりにしておきたいのだが、今回は私の感情を発掘する話なので、今掘った分を追加で書いてみる。

話が話なので、「本当は私はどういう気持ちか」は、容易に推測できる。
要するに、『夫が母の日のプレゼントを私に用意しない件』に不満があるのだから、つまり私の感情的には「本当は私も母の日には何かプレゼントが欲しい」だろう。たぶん、というか、絶対それしかない。
誰でも分かるレベルの、シンプルで単純な話である。

えー、嘘。マジで?うわぁ恥ずかしい。
そもそも何年も前から夫を好きじゃなくなってて、日頃から近寄るな話しかけんなってスタンスしてる癖に、母の日のプレゼントは欲しいって、それってアリ?なくね?
っていうか、実際貰ったら喜べるの?何貰っても結局気に入らなくて文句言うんじゃないの?
やー、でも「感情」なんだから、道理が通らなくても良いのか。
そっかー。そんなに欲しかったのか自分。
そうか、ダサいけど本音がそれなら、しゃーないかぁ……はぁ。かっこわる……(結論)

ウォッホン。ともあれ、だ。
父の日母の日問題が最初に発生してから9年。
今この文章を書きながら、私はようやく、「私も母の日には何か、夫からのプレゼントが欲しい」という「気持ち」に到達したことになる。
既に八百長システムでこの問題は一旦解決しているが、今後私の不満が再燃するようであれば、「父の日・母の日を両方、夫婦間でちゃんとやる」「どっちもやらない」のいずれかを改めて提案すべきだろう。

で。この「本当は私もプレゼントが欲しい」、書いてるだけでめっちゃ恥ずかしいのだが、そこは一旦置いておいて、この感情を本当に自分で自覚できていなかったのか?カッコつけてただけでしょ?と思われる方がいたら、半分正解である。
さすがの私も、「自分はこの件で不満があるらしい」と認識できたタイミングで、この感情には薄々気が付いていたが、あまりにカッコ悪いのでそれ以上考えないようにしていた。そこは認める。
だが、「自分が不満に思っている」ことに気付くより前には、本当に、全然全く気が付いていなかったのだ。「私も何かプレゼント欲しい」に。7年近くも。

普通の人なら、最初に「母の日をスルーされた」時点で、すんなりとそこを自覚して、「え、去年父の日あげたよね?何で母の日ないの?」と言えるのだと思う。たぶん。
遠慮があったりして言えない場合にも、「ちぇ、なんだよー」という種類の不満を持つことが出来て、次回以降は「自分は我慢している」という自覚が持てるのではなかろうか。
なのだが、多分私は「不満を持ってはいけない」という、自分に対する検閲の発動が早すぎて、そもそもの不満の原因となる自分の願望自体をなかったことにしてしまう。「理屈で言ってこれは妥当か、そうでないか」という話をこね回すことで「私は『不満』を持っているのではない。間違っているから納得できないだけだ」と自分自身に対して正当化を始めてしまう、そういう仕様をしているのだろう。

なお、この考え方――「不満を持つことそのものの禁止」は、毒母が私に強制していたものだし、次の段階の「不満を持っているのではなく、理屈に合わないから納得できないのだ」という主張もまた、母のよく使う手法だ。
無論、母自身は自分の不満を認識できないような人間ではないはずである。単に他者との交渉の手段として「私は感情論ではなく理性で話しているのだ」というスタンスを取っているだけだ。
だが、私は自分の感情を自分の理屈でねじ伏せ、自分自身が「私は不満など持っていない」と思い込むために、この手法を適用してしまっている。それで本当に不満が消えて無くなっているなら良いが、当然そんなこともなく、私自身に黙殺された感情の死体が山積みとなった結果として、「どうせ生きててもロクなことがない」式の絶望的な世界観や閉塞感、「漠然と不幸な感じ」などを構成してしまう、という状況になっているわけである。

うーーーん。面倒くさい奴だな我ながら。

勿論、全部が全部、発掘するのに7年とか9年かかるわけではないのだが、「私もプレゼント欲しい」レベルのシンプルな不満を認識するのに、これほど厄介な手順がいるぐらいなので、「他人に不満を伝える」という毒抜き訓練は、私にはめちゃめちゃ実行が難しい。
例えば日常会話の中で、相手が不快な発言をしたとき。早い人なら言われた瞬間に「えー!何その言い方!」と言い返せるだろう。遅めの人でも多分、家に帰って数時間から2,3日経てば「よく考えると嫌なこと言われたな」となり、「次に言われたら嫌だと伝えよう」と準備をすることが出来ると思う。私も実際、この辺で済むパターンもある。
だが、私の一番面倒臭いパターンだと、「何か引っかかるな」が降り積もり、「なんかあの人と話そうと思うとテンション下がるなぁ、私はあの人が苦手なんだろうな」となっていき、その内すっかり「あの人がいるなら、あそこは行かないでおこう」とかになってしまって、「何故あの人が苦手なのか」に永久にたどり着けない、ということが冗談抜きで起こる。何年も経ってから、「あの人はああいうことよく言ってたな」と思い出せたら偉い、というレベルで、「アレを言われて嫌だった」までが物凄く遠いのである。
どう考えても、間に合わないのだ。
自分が嫌だと感じたことをリアルタイムに自覚して、「嫌なことを言われた」に到達できなければ、「あなたのこの発言が嫌だ、やめて欲しい」と不満を伝えるなど、出来る見込みがない。

この「自分が嫌だと感じたことをリアルタイムに自覚する」のは、どうすれば良いのだろうか。
みんなどうやっているのだろう。実に難問だ。
だが何とかして、訓練していかなければならないのだろうなぁ。

何かの出来事が起こった時に、自分の思考が走り出すより前に、自分の感情が快か不快か、不安か怒りか悲しみか、はたまた喜びや期待なのか、といった感情の色を確かめてから考え始める、そういう習慣を作っていくことで、徐々に処理速度が上がる……だろうか。
ひとまず意識して、試していきたいと思う。

ところで、この厄介な仕様を私に組み込んだ毒母に対して、今どういう感情があるかというと……
うーん。うーん。何だろう。
怒って……はないと思うし、恨み……でもないと思うけど、恨んだり怒ったりしていい局面なんだよなぁ。

「ったく、しょうがねぇなぁ」という感想しか出てこないが、この手の「諦め」は私の平常運転であって、これを除去しないと本当の感情には到達できない。
うーん。何だろう。「快か不快か」すら分からないぞ。
何かこの件で今、母に言いたいことは……もっと聞いて欲しかったとか、そんな風には思ってないなぁ。何だろなぁ……。

あ。あった。

「なーにが”最高傑作”だよ。とんだポンコツ作りやがって」

これだな。
うーんと、これは「軽蔑」か?「呆れ」と「恨み」、若干「怒り」もあるかもしれない。

とりあえず、今日の私は毒母について、「軽蔑」の感情があるようだ。

うん。こんな感じで、頑張ります。

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