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短冊に書く願い事の話。

母はイベント好きである。
私が子供だった頃から今に至るまで、母は毎年七夕の時期になると、どこからともなく笹を調達し、折り紙で飾り付けて玄関先に飾っていた。
気が乗らなかった私が一度、母と一緒に飾りを作るのを拒否した時は恐ろしい勢いで怒られたので、私はそれ以降、あらゆるイベントに文句を言わず参加せざるを得なくなり、母のやりたがるその手のイベントにネガティブなイメージがついてしまった。プレゼントを貰えるクリスマスぐらいならともかく、七夕なんて迷惑な。と、そんな捻くれたスタンスになってしまったのである。

これが他人の話なら、「その手のイベントが好きな母」が七夕で張り切って笹飾りを準備しようとして、「子供が一緒にやる気を出してくれないからと拗ねる」というのは微笑ましく可愛らしい話のようにも聞こえる。「ハイハイ、しょーがないなぁママは」と、そんなコメントが許される関係性であったなら、私もそう思ってストレスなく付き合うことも出来ただろう。
だが恐怖に縛られ、無理矢理にでも母を全面的に肯定し続けるよう強制されていた私には、母が何かを思い立つのは常に迷惑この上なく、七夕や年賀状のような「真面目にやると手間と時間がかかり、しかもクオリティの高さを要求される」イベントはひたすら苦行でしかなかった。

とはいえ、2年半ほど前に「下剋上」を果たして以降、母はその手のイベントに私を巻き込まなくなった。実に有難い話である。勝手にいつの間にか準備された笹飾りが玄関先に置かれていて、「ここに短冊あるからね」と切った色紙がテーブルに置いてある、その程度なら負担にもならない。キャッキャと願い事を書いている息子に合わせて、自分の願い事を書いておくぐらいならば、私もストレスを感じずに参加してやることが可能だ。
昔からこの程度で済ませてくれればよかったのにねぇ、とひとりごちつつ、短冊に何を書くべきか考える。意外と枚数が多いので、雑な願いを多めに書く方式が良さそうだ。

「みんな元気でいられますように」
雑で漠然とした健康祈願。まぁまぁ、王道である。

「お金持ちになれますように」
これもまた王道。お金はあるに越したことはない。

「息子が元気に大きくなりますように」
この辺りは毎年恒例である。

「FF16のPC版が発売されますように」
私個人の願望を出してみた。PS5が高いのが悪いのだ。どちらかといえば織姫や彦星より、吉田に頼むべき案件だが。

「リバウンドしませんように」
んなもん知るかよ!と織姫・彦星に言われそうな気もするが、割と切実な願い事である。そこそこ頑張ってダイエットに成功したので、できればこのまま維持したい。が、ダイエットを真面目にやったのも初めてなら、「維持」を目指すのも初めての私としては、借りれる可能性のあるものなら、星のパワーだろうが何だろうが、全部借りておきたいのだ。

ふう。こんなものか。5枚も書けば十分だろう。
さて、息子の書いた短冊を見ると…

「カービィのグルメフェス(ゲームソフト名)がほしい」
「カービィのアミーボがほしい」
「7月分の宿題がはやくおわりますように」

うん。正直なのはよく分かった。
宿題について考えているのは一瞬偉いような気もしたが、何のことはない。先日「夏休みに、カービィのアミーボが欲しい」と言い出した息子に「7月の宿題がちゃんと終わったらね」と言い渡しておいたので、ゲームの前提条件として宿題の事を思い出したと、そういう話なだけである。

っていうかそれ、星に頼むようなことじゃないよな。
「ほしい」は私に頼むべきだし、宿題は完全に自助努力だよな。

とはいえ、FF16のことを書いている私に、文句を言う権利もないか…とそのまま気にせず、自分の短冊をセロテープでいい加減に笹にくっつける。
息子は息子で笹の最上段に「カービィのグルメフェスがほしい」をくっつけていた。欲しい順序で言うとアミーボよりもグルメフェスの方が優先なようである。好きにしたまえ。

思えばこの「短冊に書く願い事」の中身も、昔は母に何のかんのと言われていたなぁ、と思い出す。結局「ピアノが上手になりますように」「走るのが早くなりますように」なら問題ないらしいと学習して、以後は毎年それで固定していたような気がする。
そう考えると、息子が何を書いていようと気にしない今の母は、大分丸くなったというか、お祖母ちゃんとして問題ない振る舞いをしている。まぁ、当然というかこれが普通なんだろうけど。

私がもっと豪胆で、母の怒りなど意に介さない、息子のような子供であったなら、母は単なる「ちょっと喜怒哀楽の激しい、可愛げのあるお母さん」で済んだのだろうか、とちょっと思う。
いや、自分が悪いと考えるべきではないな。母が激しい喜怒哀楽を、ノー配慮でしょっちゅう私にぶつけまくっていたから、私が「ビクビク怯えていつも親の顔色を伺っている子供」になってしまったのだ。「私が息子のようなノーテンキな子供でなかった」原因は、「母が私のような母親でなかったから」だと、そう考えるべきだろう。

「私のような母親」である必要もないと思うけれど、せめて「今のお祖母ちゃんとしての母のような」母親でいてくれたなら。「カービィのグルメフェスが欲しい」と短冊に書いても怒られない環境であったなら。私も、七夕飾りを見てテンションが落ちるような人間にならずに済んだのだろう、きっと。

数年前、幼稚園だった息子が言っていた「かんらんしゃになりたい」「ライオンになりたい」と比較すると、随分とスケールダウンしたように見える願い事だが、今の息子の頭の中を正直に映し出している、きったない字の短冊を眺めて。
私のように余計なネガティブな記憶を連鎖させることなく、息子が七夕を何となくのんきなイベントだと思えると良いなぁと。そのために役立つ範囲なら母のイベント好きも、それ自体が悪いわけじゃないんだよなぁ、と。

そんな取り留めもないことを考えていた、七夕だった。
やれやれ。毒とは厄介なものである。


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