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学校に行っても家にいても大人になっても世界は狭い

雨が降っているから。
寒いから。
なんか今日は行きたくないから。
そんな理由で学校にはあまり行かなかった。

「子どもたちは学校というとても狭い世界の中で生きていて、その狭い世界が全てだと思ってしまう」

なんてことをよく聞くけれど、学校に行っても家にいても私の世界は変わらず狭かったし、一人暮らしを始めてからも、会社員になってからも、フリーランスになってからも、地域で近所づきあいをしようと思っても、
大人になって一瞬広くなったように感じた世界は目の前のことに一生懸命向き合えば向き合うほどに狭くなっていった。

「この場所で嫌われてしまったら終わりなんじゃないか?」
なんて気持ちは、大人になったところでなくなりはしないのだなと何度思っただろう。

私には、今生きづらいと思っている子どもに「なんとなく分かるよ」とは言えても「大丈夫、大人になれば世界は広がるよ」とは気軽には言えない。

インドアな私が家族で暮らすように地方に滞在したいと思ったのは、地方を活性化させたいなどという壮大な目標があったからじゃない。
結果的にそうなったらとても嬉しいことだし、もちろん目指すところではある。
もっとライフスタイルやライフステージに合わせて地方移住が気軽なものになればいいのにとも強く思っている。

それでも、一番の理由は「帰れる場所を増やしたい」からだ。
帰れる場所という名の逃げ場を増やしたいのだ。

そもそものきっかけは長女の一言からだった。
昨年、コロナが少し落ち着きを見せたころ、家族で久しぶりにどこかにでかけようという話になった時のこと。

「どこに行きたい?」と長女に聞くと、
「知らない場所にも行きたくないし、知らない人にも会いたくないよ」と返ってきた。

その一言はあまりにも小さな頃の私過ぎて、そして現在の私過ぎて少し笑ってしまった。

昔から新しいものもそんなに好きではないし、
もっと多くのことを学んで視野を広げよう、
沢山の人に出会おう、と思ったことはない。
物心がついて自分の世界が狭いことを指摘され、自分でも「そう言われたらそうだなぁ」などと思ってもなお、狭いことが悪いとも思わなかった。
今だってそう悪くはないと思っている。

自分の世界の中で、一緒にいて苦しくない誰かとお互いに自分の好きなことを話したり話を聞いたりして、いいねそれ、などと言って、馬鹿にされることも馬鹿にすることもなく生きていければそれに越したことはないと思っていた。

それでも、その世界は自分の思いだけでずっと守り切れるものではない。
無理やり誰かにこじ開けられる時もあれば、自分からこじ開けなきゃいけない時もやってくる。

そもそも「長女の言葉をきっかけに」などともっともらしい大義名分を盾に、ここから逃げ出すチャンスをうかがっていたのは私なのだろうと今は思っている。

今いる場所が苦しいからとかそういうことではなくて、
私はきっとずっと、小さな頃から逃げる場所が沢山ある世界を夢見てきたのだ。

逃げたいほど苦しいこととは何だったのか?と聞かれれば分からないし(むしろないかもしれない)
今も昔も日々苦しいなと思って生活をしているわけでは全くないのだが、

「この場所で嫌われてしまったら終わりなんじゃないか」などという謎の思い込みのもと、

必要以上に頑張ることのないよう
誰も求めていない筋を無駄に通そうとすることがないよう
下手に我慢している自分の姿を献身的で奥ゆかしいと勘違いしてしまうことがないよう

そうなる前にサラリと身をかわし、自分と自分の大切な人、そして自分の中に何となくだけどしっかりある価値観を、自分自身で踏みにじることのないように生きていきたいと思っている。

準備とか移動とか色々面倒そうだけど(面倒なのでその実夫がしてくれているのだけど)、ちょっとたまには別の場所で暮らしてみようかと思った理由はここにある。

それでいうとやはり私は、私だけでなく、自分と思考回路が似ている我が子の進む道に、たくさんの帰れる場所があってほしいと思うのだ。

いつでも戻ってこられるような転園、転校が、全国でもっとラフにできればいいのにと切に思う。
転園、転校などの子どもの生活の変化に「かわいそうなもの」という印象がある限り、逃げ場は増えないように思う。

大人が様々な場所で働けることは理想とされて、
子どもが様々な場所に学びの場を移すことがかわいそうな理由とは。

子どもが場所に縛られなくてはいけない限り、リモートで仕事ができる環境がどんなに整い、自治体がどんなに地方移住を促進し、どんなに関係人口を創出したいと考えても、子どもがいる家庭にはずっとどこか関係のないことになってしまうし、いつまでたっても移住や地方との深い関わりはものすごく決断力が必要なものになってしまう。

実際に昨年、一歩家から外に出て救われたのは、面倒くさがりな私だった。
ほんのちょっと、外に出てみるだけでよかったのだと思った。

私がいなきゃ迷惑をかける。
私がいるから迷惑をかける。
あの言葉の裏にはきっとこんな意味が隠されているのだろう。
あれもしなきゃこれもしなきゃ。

何を思いあがっていたのだろう。
喜ばしくも悲しくも、私がそこにいてもいなくても何も変わらない。
人間関係も変わらない。
仕事も変わらない。
日常は変わらない。

外に出て何が変わるのか。
私のごちゃごちゃの心がさっぱりとゼロに戻るだけだ。
ゼロになって私はまた思う場所に帰るのだ。

新しい生き方なんていうものがしたいわけじゃない。
おしゃれになんて生きられるはずがない。
こうとしか生きられない。

毎日ドタバタしている私の世界は大人になった今でも相変わらず狭い。
少々手間がかかるのだがたまに換気や掃除なんかしながら、この世界が濃く深く、少し美しいものになっていったら嬉しい。

またコロナが増えている中、どこまで何をできるのだろう。
でも、この一年間はまずは帰れる場所を増やしてみたい。
その次の一年は何をしよう。
私の考えはどう変化していくのだろう。

とても不安で、とても楽しみだ。

これは、そんなポエムな気分の私に夫がつくってくれたオムライス。
10か月前までは調味料は塩コショウしかしらないようなひとだったのに、嫉妬してしまうほどきれいでおいしいオムライスだった。

おわり。

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