「村上隆もののけ京都」展(4):村上作品を見て日本絵画の特徴を考える(続き)「四神と六角螺旋堂」の部屋とその作品
(長文になります)
本記事は前回の記事(3)の、個別の展示作品の紹介・感想の章「日本美術との比較で村上”現代ART”作品を考える」の続きになります。
■「四神と六角螺旋堂」の部屋とその作品
第1室「もののけ洛中洛外図」の部屋を見終わると、次の部屋「四神と六角螺旋堂」の部屋に入ります。
部屋の入口は、カーテンで仕切られており、手で開けて中に入ると、突然暗闇が広がり、何事かと驚きます。目が慣れてくると、中心に柱と上部に和風建築物が見え、部屋の四隅には大きな絵画が上からの照明に照らされて浮かび上がっています。
以下、中心の柱の様子と四つの絵画を示します。
ほとんど前知識なく訪れたので、少し雰囲気に戸惑いました。この部屋で感じた正直な感想を以下に述べます。
以上のもやもやした気持ちを抱いて早々に暗がりの部屋を出ました。
けれども撮影した写真を観察し、さらに展覧会のHPの説明文を読んでみると、やはり新作の《四神》の絵は現場でもっと丁寧に見て置けばよかったと思うのです。
暗闇の意味を考える
なお、高橋氏が企画した、「もののけ」、「暗闇に対する恐怖」の観点はすごく大事だと私は考えます。京の人々は、今日我々が明るい照明の下、平気で夜の街を歩き回るのとはまったく違う気持ちだったはずです。日本の昔の絵画を見るにしてもその点を考慮しなければなりません。
実際、現在私が歩き回っている東京、特に下町を街歩きスケッチしていると、ときおりハッとすることがあります。
例えば墨田区の「都立横網町公園」です。
ある日「墨田区立旧安田庭園」を訪れた際に、偶然この公園にさまよって入ってしまったのです。私はこの公園の名前は聞いたことがありません。しかし、その場所はとんでもない過去を持った場所だったのです。
旧陸軍被服廠の移転に伴い、公園として整備中に関東大震災が襲ったのです。東京府市併せて死者7万人という中、なんと半分以上の3万8千人の人々がこの地で無念の死を遂げたというのです。ですから、その後慰霊のための法要が行われ、昭和5年には慰霊堂(震災記念堂)が建てられました。
悲惨な過去はさらに続きます。わずか15年後、太平洋戦争の最終年、あの東京大空襲により10万人以上の死者数が出たのです。このうち、身元不明者10万5000人と関東大震災の遭難者5万8千人を併せて弔い慰霊堂(震災記念堂)は東京都慰霊堂と改称されます。
訪れた日は雲一つない快晴でしたが、慰霊堂の解説文を読んだとたんに、周りがかすんだ様に見えました。何か被災者の霊が辺りに充満しているように感じられたからです。
霊魂は何年地上に留まるのか分かりませんが、関東大震災も東京大空襲もたかだか100年以内のことです。私たちは普段明るい照明ですっかり忘れていますが、歴史をひもとけば、東京の下町一帯は無念の霊魂で覆われていることに気が付きます。もし東京がかっての漆黒の闇に戻れば、現代人と言えども無数の霊が感じられるのではないでしょうか。
日本美術における夜景の描写について
以上東京の街歩きスケッチを引き合いに出して暗闇の意味を考えましたが、今回高橋氏が暗闇の部屋を設定したのは、京都の長い歴史の中で、人々が夜の暗闇の中で跋扈する「もののけ」に恐れおののいてきたことを現代の人々のも感じてもらいたいと思ったからでしょう。その意図は十分理解します。
実際、鴨長明の「方丈記」に書かれた災厄(大火、戦乱、飢饉、大地震)だけでなく、伝染病、洪水なども入れれば、その後も鎌倉、室町、江戸幕末まで続きます(現代と違い、飢饉や伝染病の死者数が大きいらしい)。
名前の付いた災厄だけでも枚挙にいとまなく、膨大な人数の人々の屍が市中を埋めたのは江戸、東京と同じです。
しかし、私は日本絵画の歴史を意識する村上氏の新作は、むしろ明るい場で展示してもらいたかったと思うのです。なぜなら、かつての日本の絵画では、夜の情景でも暗闇は描かなかったからです。
例えば「夜」の字が題名が入っている有名な日本の絵巻を次に示してみます。
1)《百鬼夜行絵巻》
2)平治物語絵巻《三条殿夜討の巻》
いかがでしょうか、夜の情景なのに背景は黒く塗りつぶされていません。
また題名に「夜」はなくても、次の有名な絵巻もあります。
3)《鳥獣人物戯画・甲巻》
専門家によれば、キツネが自分の尾を松明代わりに燃やしているこの場面は夜の光景だとされています。
《鳥獣人物戯画》のように題名に「夜」の字が無い《源氏物語絵巻》など物語絵巻や寺社の多くの縁起絵巻でもおそらく夜の光景は上記の例のように描かれていると思います。
以上、日本絵画における夜の描写の例を示しましたが、この記事を読んだ初めての方は、なぜ私が日本絵画の夜景の描写についてこだわって書いたのかお分かりにならないと思います。
実は、日本絵画(文化)における「ベタ黒」の役割についてこれまでも記事にしてきたことと、最近鈴木春信や伊藤若冲、与謝蕪村など18世紀の画家が初めて漆黒の暗闇を描いたのではないかとの思いに至りました。今回の村上隆展の「暗闇の部屋」を見て触発されたという訳です。
それでは、本題の《四神》の各作品の鑑賞に移ります。
現代ART作品:《玄武》《青龍》《朱雀》《白虎》について
図37~40に、それぞれ4枚の新作《玄武》、《青龍》、《朱雀》、《白虎》を示します。
まず、言えるのは、中国の神話上の霊獣とされるそれぞれの神獣の姿は、《白虎》を除けば、昔からのオーソドックスな形にほぼ従っており、極端なデフォルメはありません。
実際、国内最古と云われる文化庁キトラ古墳壁画保存管理施設のホームページで公開されている国宝《キトラ古墳壁画》の四神のイラストと比べてみてください(図41)。
しかし今回の作品の三神は、いずれも村上隆流のPOPな色彩で彩られているのが大きく異なる点です。
さて、《四神》の中で、唯一《白虎》だけは、ほとんど余白を入れずに、複数の白虎で絵画平面を埋め尽くしています。
村上氏がこれまでやってきた、日本美術の歴史の文脈に沿って眺めると、上段、下段の正面を向いた3匹の虎の表情、目つきは、曽我蕭白の《雲竜図》(あるいは、《獅子虎図》)に通じると思うのは私だけでしょうか? そして虎の各部位に配した小さな獣(?)は、円山応挙の”カワイイ子犬”の文脈を思わせます。
ところが、《白虎》以外の三神の絵の背景をよくご覧ください。暗闇の中で絵を見た時にはまったく気が付かなかったのですが、《玄武》《青龍》《朱雀》では、様々なアイテムがその背景に描かれているのに気が付きました。
私が撮影した写真では背景部分が不鮮明なので、京セラ美術館の企画展HPから引用した《四神》の画像を次に示します。
ここでは、《玄武》、《青龍》、《朱雀》に絞り、村上氏がいかに背景に工夫を凝らしているか、日本絵画の文脈を意識して細部を見てみましょう。
まず、背景が暗い、《青龍》と《朱雀》の拡大部分図を下記に示します。
各図のキャプションに、私が気が付いたアイテムを書きましたが、以下にまとめてみます。
以上《青龍》《朱雀》の二つの絵の背景についてまとめただけで、私は村上氏が自身の現代ART作品を創作する上で常々語っている「日本絵画の歴史の文脈を採り入れる」ことが大いに頷けるのです。
その理由は以下のようになります。
さて、残りの《玄武》の背景は、《青龍》《朱雀》と違い広重の浮世絵ばりに最上部を赤くその下を地平線に向けてグラデーションにして夕暮れ風です。下に、背景に配置されたアイテムを示します。
羅漢像とおぼしき人物像と夕暮れの空の色を除けば、《青龍》と《朱雀》で述べた背景のアイテムに関するまとめが当てはまります。
以上のように村上氏の作品《四神》のどの部分をとっても日本絵画の歴史の理解と裏付けの下に描かれていると云えます。
なお、今回の《青龍》の作品の下部の白い積乱雲は、葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》の白い雲を引用していると断定しました。
実は前々回の記事、その(2)の中で、私は《金色の空の夏のお花畑》(再掲載図2)の白い雲を見て、葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》の白い雲を連想したことを述べました。
日本の絵画における写実的な雲の描写について調べた結果をもとに、村上氏は《金色の空の夏のお花畑》の中で、日本絵画上のチャレンジをしたのではないかと推測しました。
しかし、今回の《青龍》の雲は明らかに北斎の《神奈川沖浪裏》を引用しており、《金色の空の夏のお花畑》の場合も村上氏は日本絵画における雲の描写の歴史を理解して描いていたこと明らかになりました。
六角螺旋堂と正体不明の金色の物体について
さて《四神》の絵の鑑賞は私なりに済んだのですが、「六角螺旋堂」の謎が残っています。
結論から言うと、京都に六角螺旋堂なる場所を見出すことはできず、名高い会津のさざえ堂と、葛飾北斎と歌川広重の江戸の「五百羅漢寺のさざゐ堂」の2枚の浮世絵版画に行きつきました。
その行きついた推理の過程は次のようです。
推理はここまでです。当初は、京都の六角堂にこだわりました。しかし螺旋と結びつくものは無く京都に「六角螺旋堂」を探すのはあきらめました。
しかし今気が付いたのですが、六角とは京都の六角堂を直接示すのではなく、ただ六角構造を表し螺旋階段を持つことを意味するだけかもしれないのです。京都という土地にこだわり過ぎました。
今回の展示物は会津さざえ堂を意識し、日本仏教建築の伝統を単に意識したものだと考えることにします。
なお、柱の上部に付けられた得体のしれない金色の物体の写真をよくみると髑髏が寄せ集まった彫刻でした。髑髏については記事(その5)の中で触れたいと思います。
最後に:■村上隆《五百羅漢図》の存在を忘れていました!
以上の「六角螺旋堂」の推理の中で「五百羅漢」という言葉が浮かびましたが、前節の《玄武》の背景のアイテムでも村上隆風の羅漢像らしき人物が描かれていることを知りました。
そこで村上隆《五百羅漢図》のことを今更ながら思い出したのです。記事(その1)の冒頭で述べた様に、今回の「村上隆もののけ京都」展を訪問した動機は、単純に展覧会のポスターに使われた《金色の夏の空のお花畑》に描かれたお花が正面描きであることが、長谷川久蔵の「桜図屏風」、琳派や明治以降の日本画の花の描写に連なる日本絵画の伝統的な描写と同じなので、実物を見て確認したいという軽い気持ちでした。
しかし、この記事のシリーズを重ねるうちに、村上隆氏の作品は一筋縄ではいかないことが分かってきました。おそらく、私と違って村上現代ARTを愛する人は、2015年の森美術館で開催された「村上隆の五百羅漢図展」の作品を見た上で今回の京都展を見に来ているのに違いないのです。
本当に遅まきながら調べてみると、ありがたいことに当時の森美術館の公式ブログの記事とスペシャル映像の動画、そして村上隆氏本人がカタールのドーハで開催された五百羅漢図の展覧会の準備会場で《五百羅漢図》の解説動画を見つけました。
そこで分かったことは、「五百羅漢図」が、村上氏がそれ以前に制作し確立してきた村上現代ARTから次への大きなステップになる作品で、今回の「もののけ京都」展の新作に直接つながっているということです。
スペシャル映像「村上隆の五百羅漢図展」
MURAKAMI EGO「五百羅漢図」村上隆氏 解説 / Takashi Murakami
詳しくは、上記の村上氏本人の解説動画をご覧いただくとして、今回の記事の主要な対象の《四神》の絵について、そうだったのかと初めて知ったポイントだけを以下に記します。
本人も動画の冒頭で話していますが、森美術館の公式ブログでは、《五百羅漢図》について、以下のように記述しています。
予想外の内容に驚きました。私は「五百羅漢図」は、五百羅漢だけを描いている絵だと思っていましたが、すでにこの時点で「四神」が組み込まれていたのです。
しかも、動画の中で村上氏が熱く語っているように、江戸絵画、特に奇想系の画家の流れを100mの長さの大作の中に詰め込んだというのです。
ですから、今回の《四神》の4枚の絵は、《五百羅漢図》の延長線上にあり、エッセンスを詰め込んだ絵画だと言えます。
江戸絵画の流れを詰め込んだという《五百羅漢図》は、日本絵画の特徴を知る上でも図録できちんと見てみたいと思います。
記事(その5)に続きます。
前回の記事は、下記をご覧ください。
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