山口晃氏の田中一村鑑賞術(NHK・日曜美術館)紹介と公募展落選の理由を考えてみた
(長文になります)
はじめに
先日放映されたNHKの日曜美術館の番組、「奄美への道標(みちしるべ) 画家・田中一村」では、何人かのゲストが出ていました。
中でも画家の山口晃氏が出演していたのを見て、番組中彼の発言に注目しました。
私は常々美術の専門家(研究者や美術評論家など)と違って画家の赤瀬川原平氏や山口晃氏の絵画に関する発言は、実作者ならではの見方が多く、大いに納得できると思っていました。
ですから田中一村の絵に関して山口氏からどんな新鮮な発言が飛び出すのかと、期待が一気に膨らんのです。
山口氏は大学時代油画(あぶらが)専攻にも関わらず、日本美術の伝統をベースにした作品を描いています。
その彼が著した2013年発売の「ヘン な 日本 美術史」を購入して読んだ時の興奮は今でも忘れません。なぜなら、日本美術に対する独特の視点と深い考察のオンパレードだったからです。
この記事では、番組での山口氏の発言と、最近投稿した下記に示す私の「田中一村展」の訪問記事で述べたことと照合してみようと思います。
なお、私が文字起こしした山口氏の会話は、ほぼ忠実に再現しています。ですから、文章としては大変読みにくくなっています。しかし、山口氏の会場での雰囲気が掴めるように、書き直さずそのままにすることをご了承ください。
田中一村の作品に対する発言:
(1)《名月前身図》1929 春
山口氏は、最初に南画時代の下記の絵を取り上げます。
山口氏は、まるで田中一村(この絵の時は米邨)になり切ったかのように、身振り手振りを使い、独特のオノマトペ(?)を発しながら語り始めます。
私もこの絵を、すでに南画時代から奄美時代の画面を覆いつくす密林の描写が現れている例として冒頭で紹介した記事で取り上げました。
しかし、山口氏は私の注目点とは異なり、構図がどうのといったことよりも、一村(米邨)が梅を描くにあたって、その独特の運筆と心の動きについて注目しています。
(2)《富貴図/衝立》1929
次に、極彩色の下記の衝立の絵についての発言を紹介します。
ここでも、山口氏は一村の描く際の心持ちとか気分が見る者に伝染し、鑑賞者も気持ちが高揚する、すなわち作者と見る者の気持ちが共鳴することが鑑賞の醍醐味であり、最初の一歩と指摘しています。
ですので、司会者の構図の質問に対しても、通常の構図の解説ではなく、まるで一村の筆の運びをそのままなぞるように身体全体と手を動かして、《富貴図》の独特な絵画表現を解説しているのが山口晃式らしい鑑賞方法です。
私自身、会場でこの作品を見た時は気が付かなかったのですが、濃い青で塗られた岩は、よく見ると穴ぼこだらけで、通常の岩石ではなく、とても不思議な形をしています。
山口氏が、その岩の足元から牡丹の茎が「ぐっと、わらわらわらわらーっと、伸びてきたたころ」、そして「バックに、(手の仕草)全部違う音楽から出ている」という言い方で青い岩のリズム性を指摘した時に、この絵の持つ不思議さ(おかしさ?)を感じました。
(3)《白い花》1947
この絵は、第19回青龍展に入選した一村にとって記念すべき作品です。
山口氏は、これまでの作品に対して運筆など描き方に注目していたのが、一転、形に注目します。
形の「キレ」は、まさに一村の描くすべての絵に感じる部分です。「南画」の修練によるものなのでしょうか? この「キレ」とこの絵に見られる「まぶしいまでの白」と私の好きな「鮮やかな緑」の対比の色彩感覚は見事で、以前の記事で私が好きな一枚だと書きました。
注目したいのは、この絵を「彼の絵の中では親切な絵と思うんですね。」と云っていることです。
なぜこの絵が入選したのか、そして次回以降落選を続けたのかという、その理由に直接関係する発言だと思うので、あらためて章を設けて後述したいと思います。
(4)《秋晴》
次に、第20回青龍展に出品して落選した作品です。一村の自信作で落選の結果に「激怒」したと言われます。
山口氏は、一村が意欲的に日本画の革新に取り組んだ部分を語ると同時に、落選の無念さを代弁するように、「分かんないかなぁそれがっという、、、。なんというか、短気ですかね」という発言で最後結んでいます。
(5)《不喰芋と蘇鐵》1973
番組の中で山口氏が鑑賞した最後の作品です。奄美で描いた代表作の
一つです。
山口氏は、作品そのものというよりも、この作品全体から受ける田中一村という画家の作画姿勢について山口氏らしい言い方で迫っています。(その部分のしゃべり言葉を文章に直したものを下に示します)
・彼という一つの器官を透過して、彼という自我がそこで限りなく押さえられて、一つの装置としてこのような画面を作る絵筆になっている。
・素直に絵を描いて来て、見えてきたものに全力でガッと行くことを恐れない、このように本当にぶち当たり続けてきた人だから、さらに生きていたら二回三回と変わっていったであろう。
奄美の大作が、田中一村の終着点ではなく、今後も変わっていく可能性を指摘しています。
山口晃氏の発言から、田中一村が中央画壇に受け入れられなかった理由を推理した
前章の(3)節、《白い花》(図3)に対する発言の中で、「彼の絵の中では親切な絵と思うんですね。」を取り上げ、「私はなぜこの絵が入選したのか、そして次回以降落選を続けたのかという、その理由に直接関係する発言だと思う」と述べました。
私は新たに章を設けて、この問題を取り上げたいと思います。
《白い花》の入選は、一村の本来の描き方ではなく、画壇に理解されやすい描き方で描いたからでは?
山口氏は、「親切な絵だと思う」との発言の後、次のように続けます。
「途中にあった椿の絵なんか見ますと、こういう透き間をみんな埋めちゃうんですね。そこ埋めたら分からんっというところも厭わないですね。それに比べると形とか、枝振りとか流れが。」
これは、裏を返せば入選した《白い花》は本来の一村の描き方と違うと云っているのです。
「途中にあった椿の絵なんか」という椿の絵は何を指すか分かりませんが、おそらく近年発見された次の絵を指すと思われます。
まさに「隙間を埋めちゃうんですね」です。《白い花》は、このような描き方をしなかったから青龍展に入選したのだとまでは言及していませんが、番組の中で、千葉市美術館副館長で田中一村研究者でもある松尾知子氏が次のような発言をしていることに興味を惹きました。
(文字起こしが出来なかったので、記憶を基に要旨を記します)
松尾氏の内容は、ある意味では山口氏の発言内容と呼応しているように思います。
両氏の発言を聞いて、私は次のように思いました。
私は、日本画の専門家ではないので以下はまったくの推測ですが、もしかすると田中一村は自分の描き方の主張を曲げて、いわゆる当時のオーソドックスな日本画の描き方を採用したのではないだろうかと。そのように見ると、《白い花》の適度な余白と竹の幹の奥行き表現などは、絵の隅々まで力を込めて描き尽くす田中一村らしくなく、むしろ全体に叙情性すら感じる正統な日本画で、当時の青龍展の審査員が納得したのも分かる気がします。
一方、翌年応募した田中一村渾身の一作《秋晴》は何故落選したのでしょうか?
田中一村の日本画の革新性は、金地の"青空"と写実描写のモテイーフとの組み合わせにあった!
さて、あらためて《秋晴》(図4)の絵を見てみましょう。下記に、図4を再掲します。
その構図と構成をみると、地平線をかなり下に取ることにより、全画面のほとんど「空」です。屏風は「金地」(金箔?)で、描かれたのは、手前の樹木と枝に干された大根、茅葺の農家、地面の軍鶏と鵞鳥(?)、上空を舞う鳶(?)などです。
一体どこが、田中一村が目指した新しい日本画なのでしょうか?
話をしばらく変えます。実は、この《秋晴》と同時期にまるで姉妹作のように制作された《黄昏》という作品があります。(図7)
私は、先月10月20日に投稿した下記の記事の中で、この絵を引用し、下記のように記述しました(引用文)。
私は、上記noteの記事の中で、田中一村は戦前の千葉時代から亡くなるまで一貫して「青い空」に「白い雲」を意識的に描き、日本画の革新を目指した「日本画家」であり、それが中央画壇に受け入れられなかった遠因であるという論調で記事を書きました。
しかし本当は《黄昏》ではなく、青龍展で落選し、一村が怒りに燃えた《秋晴》の方を掲載したかったのです。《秋晴》の制作過程でどれだけ心血を注いで一村は日本画の革新を目指したかを記述したかったのです。
ところが《秋晴》(図4)をいくら見ても、屏風に金地(金箔)は、日本絵画の伝統的な素材ですし、全面金地なので、あたかも夕陽に染まった空を表しているだけで、特に革新性は無い絵であると見て、取りあげなかったのです。
しかし、何ということでしょうか、「タイトル」を見てください。《秋晴》なのです! 私は見落としていました。夕暮れではないと、タイトルで明言しているではありませんか。今回初めて気が付きました。
すなわち《秋晴》の金地(金箔)は、夕日に染まった空ではなく、晴れた空、しかも雲一つない青空なのです!
こうなると話が違ってきます。改めて日本画における金地(金箔)に「青空」を考えてみましょう。
ここで、私は7月に訪問した「村上隆もののけ京都」展で見た村上隆《金色の空の夏のお花畑》を例にとります。
タイトルにあるように、金地(金箔)は、夏の青空です。その証拠に、お花畑からはいくつもの沸き上がる入道雲が描かれています。
私は、下記の記事の中で、
この、村上隆の現代ART作品、《金色の空の夏のお花畑》が、尾形光琳《立葵図屏風》を下敷きにしたものであり、長い日本絵画の歴史の文脈の延長線上にある一方、1)金色の空に正面、横向きの花を飛ばす、2)明らかに積乱雲とわかる白抜きの雲を描くという日本絵画の伝統にはない二つのチャレンジを行っていることを指摘しました。
そして、明治維新以降の日本画における「青空」と「白い雲」の歴史の逆転についても言及したのです。
すなわち、最近の記事で、何度も紹介しているように、江戸以前の日本絵画では、「青空」と「白い雲」を描くことが無かったのに、司馬江漢、亜欧堂田善、小田野直武ら秋田蘭画の画家達が洋風風景画の中で「青空」と「白い雲」を描き始め、葛飾北斎、歌川国芳、歌川広重に至って「浮世絵版画」として、大量に流布することで、「青空」と「白い雲」の風景画が、日本絵画として定着したと思われることを述べました。
ところが、明治維新後、日本の絵画が「洋画」と「日本画」に分かれた途端、なぜか「日本画」では歴史の逆回りが起こり、「青空」と「白い雲」が描かれなくなりました。ようやく大正時代前後から新しい日本画を目指す少数の画家達により僅かに青空が描かれるようになったことを指摘しました。
そして「青い空」と「白い雲」が日本画の中で、正々堂々と市民権を得たのは戦後になってからではないかと述べ、その例として田中一村が、すでに戦前から終戦直後にかけて「青空」と「白い雲」を描いていること、そして一村に遅れること2年、後に中央画壇の一人者となった東山魁夷が《残照》、《道》で「青空」を描いたことを紹介しました。
また1950年には、自らの画風を進化させた福田平八郎が、究極に単純化した「青空」と「白い雲」を描いた《雲》を世に問うていることも示しました(図9)。
以上、長々と日本絵画における「青空」と「白い雲」の描写について、述べてきましたが、ここで本題にもどります。
金地(金箔)に「青空」を表現する例として、村上隆《金色の空の夏のお花畑》を紹介し、村上氏は日本絵画として二つの新しいチャレンジを行っていることを述べました。
ところが、田中一村の《秋晴》は、金地が「青空」を表すことは村上隆氏の《金色の空の夏のお花畑》と同じですが、前者ではモティーフすべてが写実的に描写されていることが大きく違うのです。
さて、この《秋晴》を目の前にした青龍展の審査員達はどのような感想を抱いたでしょうか?
結論を先に言うと、大いに戸惑ったと思います。なぜなら、日本絵画で金地に描かれるのは、桃山時代の金碧障屏画におけるモティーフか、琳派の絵の装飾化されたモティーフだからです。ところが、《秋晴》では、金地にまるで西洋画のような写実でモティーフが描かれています。
村上隆《金色の空の夏のお花畑》の場合は、正面向きのお花で、日本の絵画の伝統(琳派)の枠内にあります。
ところが《秋晴》の金地は、全く日本絵画の伝統のらち外にあるのです。これが青空だと言われても、審査員がとまどうのは当然でしょう。
以上から、私はようやく田中一村が、何故あれほど怒ったのか謎が解けました。
もし琳派風描写の地上風景と、金地に白い雲や鳥を配置したら通ったかもしれません。しかし、田中一村が試みたのは、写実の地上風景に対して試みたのです。それが、どれほど突飛なことか、典型的な西洋風景画、例えばモネやピサロの風景画の青空を、全て金地に置き換えた時をご想像ください。かなり違和感を感じると思います。
さらに今書いていて思ったのですが、一村が描いたのは金地に農村風景です。それが写実であれ非写実であれ、金地(金箔)と農村風景との組み合わせ自体が日本絵画の伝統では異端ではないでしょうか。
そう考えると、確かに田中一村は、本気で日本画の革新を目指していたといってよいでしょう。
さいごに:奄美の多雨湿潤の気候について
田中一村といえば、一般にその人生はゴーガンに重ねられ、南国の風景を描いたということで、「灼熱の太陽のもと、明るくそしてトロピカルな植物に溢れた絵」だとイメージされているようです。
しかし、実は奄美で描いた代表的作品は、明るいどころか、今にも雨が降りそうな曇り空や黒い雨雲が描かれており、また植物は逆光気味に描かれていて南国の一般的なイメージとは異なることを私は指摘しました。すなわち、奄美大島独特の多雨湿潤の気候を描こうとしたものだと。
それは、直接作品を見てたどり着いた結論ですが、今回の日曜美術館の番組の中のゲストの一人が、まさに同じ内容を指摘されていたので、そのことを紹介して記事を終えることにします。
ゲストの名前は、前村卓巨氏で、田中一村記念美術館 元学芸専門員で現在画家でもある方です。
前村氏は、学芸専門員時代、毎週のように田中一村の歩いた道を通い、田中一村は、奄美大島の多雨湿潤な気候を描こうとしたのだと言います。
すなわち、花でも、明るく派手な色の南国の花ではなく、島民も気づかない地味な花を選んでいると。
その例として下に示すモノトーンの基調の作品を挙げました(図10)。
また、前村氏は《不喰芋と蘇鉄》の絵(図5 再掲載)で、自分が発見した次の事実によって、一村は単に奄美の自然を眼で見たまま描いたのではない、奄美の自然そのものを表そうとしたのだと言います。
すなわち、描かれた不喰芋の花は、現実ではなく、1)蕾、2)咲き始め 3)開花 4)熟す 5)倒れる と全ての開花の過程が一つの植物に、同一時刻に描かれていることです。
私はこの場面で、カメラが不喰芋に近づいていくときに思わず声を挙げました。
それは、二つの蕾の下にある、海上の島「立神」がクローズアップされたときに、明らかに白い積乱雲が並んだ姿がハッキリと見えたからです。
その番組ではハッキリと映ったのに、実は展覧会の図録の写真では目を凝らしても見えないくらいなのです。もちろん、展覧会のHPの図ではいくら拡大しても見えません。図録を大きく拡大してぼんやりと見えましたので下記に示します(図11 赤い丸の線で囲った部分)。
私は、下記の記事の中では、
としか、指摘しませんでしたので、白い積乱雲も描いていたことを付け加えたいと思います。
(おしまい)
前回の記事は下記をご覧ください。
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