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【読書感想文と書評の違いについて -- 解説『だれでも書ける最高の読書感想文』『はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術』を読んで】

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【解説】

 今回は「読書感想文」と「書評」という、この場のような読書系の投稿に必要な二大ノウハウについて学ぶために書かせていただきました。ここでまず単純な質問として、読書感想文と書評、および感想と批評の違いって何でしょう。

 感想の進化版が批評なのは何となくイメージできますが、では批評に比べて感想は劣っているのでしょうか。そもそも何を基準にこの二つは分けられるのでしょう。

 子どもが書いたら感想、大人が書いたら批評?

 アマチュアが書いたら感想、プロが書いたら批評?

 それとも実際のところ、明確な境界線がない?

 いえいえ、明確に違います。ただし、その違いを明確に説明することはプロの評論家でも難しいです。ましてや指導経験のない素人ライターの自分が解説を書くなどできるのか疑問ですが、「多く示されてきた解釈のひとつ」として、難しく考えず読んでいただけたら幸いです(ただし解説の関係上、かなりの長文となっているのでご了承ください)。

《最初に - 批評界の現実》

 批評。実に耳障りのいい言葉ですね。しかし、本当に批評というものについて理解している人間がどれだけいるのでしょうか。世の中には批評と名のつくものが多々ありますが、その中で本当に批評と呼ぶに値するのはごくわずかに過ぎません。大部分は感想と批評を取り違えており、単なる自己満足で終わりがちです。

 仮に批評と呼ばれるものが十あったとして、その中で本当に批評と呼べるものは一つあれば良い方でしょう。悪ければ無益な粗探しや中傷、良くても毒にも薬にもならぬ感想であり、本当に有意義な意見は極めて希少です。

 ですが、そこには理解の不足があります。多くの人は感想と批評の区別がついていないため、正確な批評を下すことができないでいます。そこで、まずはその違いを記してみようと思います。

《1:感想とは?》

 批評と呼ばれているもののほとんどがこれです。最も基本的で、誰にでも行えますが、しかし一番初歩的なものです。

 感想とは文字通り「感じる」「想う」、ただそれだけのものです。自分の心がどんな動きをしたか、それを列挙しただけのものであり、お世辞にも批評と呼べるものではありません。今回取り上げた齋藤先生の『最高の読書感想文』ならまだともかく、実際は世間一般が思う小学生の感想文そのものと言えます。

 これの何が悪いかと言うと、極めて受動的で主体性に欠けた言動だからです。何かを見て、何かを感じる。それは水が上から下へと流れるより当然の、単純と言うよりも短絡的な反応に過ぎません。外界からの刺激に「面白かった」「つまらなかった」と思うのはごく当たり前のことであり、化学変化と同じ次元のものなのです。

 そうした感情の動きをただ相手に伝える、というのは批評としては論外です。ただ面白かったと言われても作り手は応じがたい、どころか間違った方向に増長する危険性さえありますし、つまらなかったとだけ言うのは罵倒や悪口と大差がありません。

 感想を口にする者の多くは、相手のことを見ずに自分の感情だけを見ています。しかし、それだけではあまりに未熟と言わざるを得ません。最低でも思考と分析が必要なのです。面白かったにせよ、つまらなかったにせよ、どの部分でなぜそう感じるに至ったのかを考え、根拠と理由を相手に伝えなくては何の意味もありません。

 感想はサンプリングとして役立つことがあっても、作り手の本質的な助けにはなりえないのです。なったように見えたとすれば、それは作り手が頭を捻った結果でしょう。感想だけを言って許されるのは初心者か代価を払った者のどちらかです。

 結局のところ、感想とは批評ではなく「反応」なのです。

 最も重要な感想があるとすれば、受けた印象とイメージくらいのものでしょう。そうした感覚の分野においては感想に頼るより他にないからです。無論、それもサンプルとしての枠を出ることはありません。

《2:意見とは?》

 批評に入る前に、この「意見」について解説する必要があります。これは感想よりも上に位置するものです。

 なぜなら、意見とは受動的ではなく能動的な行いだからです。「何を感じたか」ではなく、「どうすればよくなるか」と頭を捻った結果、初めて意見は生まれます。ただ漫然と外的刺激を享受しているだけで意見は浮かんできません。

 しかし、意見と感想の最も決定的な違いはリスクと能力です。

 感想には何のリスクもありません。ただ自分が何を思っているか吐き出すだけ、何をどう思おうとそれは個人の自由、一つのデータであり、どんな奇怪な反応を示そうとも他人から責められる理由はありません。

 つまり、感想だけを言っている分には常に己を安全な場所に置くことができるのです。

 ですが、意見は違います。意見に際しては有意義な発言をする義務があります。くだらない意見、間違った意見を放てば責められても文句は言えません。これまでは自分が批評していたはずが、意見を出せば一転して批評される側に回るのです。

 このため、無意識に意見を敬遠する者がかなりの割合で存在します。仮に意見を出したとしても欠点の指摘に関するだけの者がほとんどです。これについては以降の《4》と《5》で後述しますが、こうした意見の有無こそが批評者と批評者紛いの最も大きな違いの一つと言えます。

 また、ごく当たり前のことですが、意見にはある程度の能力が必要不可欠です。

 知識がない者の意見は既出のものが多く、見識のない者の意見はそのほとんどが的外れなものとなります。正確な意見を放つにはその分野における一定以上の実力を要求されるのです。

 もちろん、誰にだって専門外のジャンルはあります。そうした創作物に対して迂闊な意見を控えるのは決して悪いことではありません。しかしその場合、自分は門外漢なのだと弁えて慎重な発言をするべきでしょう。あるいは、最初から何も言わないかです。

 要約すると、重要なのは二つ。

 ◆リスクを受け入れる責任感
 ◆的確な意見を放つ能力

 意見しない者は、このどちらかが不足しています。

《3:批評とは? - その1「理解と意義」》

 意見にリスクと能力が必要なら、批評には理解と意義が必要です。

 まず理解についてですが、批評に際しては相手を理解している必要があります。創作物のみならず、批評対象者についてさえも。それを理解していなければ、まるで見当外れのことしか言えず、足を引っ張る結果になりかねません。対象者を分析し、適性と本質を見定め、その上で的確な助言をしなくてはならないのです。

 そしてもう一つ欠かせないのは、他人に何かを理解させるということです。

 対象者に、あるいは批評を読んだ第三者に理解を与える。新しいアプローチ。異なる手法。本人さえも気づいていない適性。何が不足しているかを、削ぎ落とすべき無駄を理解させる。相手の理想像を汲み取り、そこに至る道筋を提示する。

 人を理解し、人に理解させること。それが批評の根幹です。コミュニケーションそのものとも言えます。早い話が、理解とは想像力です。人について考えを巡らせる思考なくして、批評はありえないのです。

 次に意義ですが、これは至ってシンプルです。

 即ち、相手の役に立つか否か。

 他人の助けにならない批評など単なる精神分析に過ぎません。例えどれだけ相手を理解していようと、相手に何を理解させようと、それが有用でないなら何の意味もありません。建設的、実用的なものでない批評など批評ではなく、単なるドヤ顔の下手な漫談です。

 相手の助けとなるか、無意味な自己満足で終わるか。人の役に立つか、それともない方がマシか。批評やそれに類するものはそのどちらかでしかありえません(これについては《4》で)。

 最後に、これは大前提、絶対条件が一つ。

 それは、相手の感情を尊重するということです。

 至って当たり前のことではあります。まずは対象者の感情に配慮せねば耳を貸してさえもらえません。自分の感情ばかりを声高に叫ぶのでは酔っ払いの説教と同レベル、人に話を聞いてもらいたいなら最低限の礼儀は弁えているべきなのです。もちろん作り手もまた他者の感情に配慮すべきですが、これは創作論の領域でしょう。

 そもそも、批評とは自分のことしか考えない人間には絶対に不可能なことなのです。他人を理解しようとさえしない者は、他人に理解を与えることもできません。そんな最低限の努力さえ怠った者にできるのは、独りよがりの自己満足だけでしょう。

 ごく稀に、作り手は最大限の努力を払ってあらゆる批評を受け取るべきだ、などと言い、一切相手に気を遣わない者も存在しますが、これは単なる怠慢と責任転嫁に過ぎません。

 そしてそのためには、相手と同じ目線で、真正面から向き合うことが欠かせません。それができない、そうしていないのであれば、相手を見ていないということに他なりません。

《4:批評とは? - その2「欠点の指摘」》

 批評者失格の者が最も好むのが、相手のミスや欠点を突くことです。

 リスクを背負わずとも能力がなくとも、欠点の指摘だけは誰にでもできるからです。相手の弱い部分、難がある部分、些細な失敗を見つけ出し、さも大問題のように声高に非難するだけでいいのですから。欠点の指摘というのは、本当に楽です。

 しかし、それだけで終わるのは無能です。それでは十中八九どこかで聞いたような一般論にしかなりませんし、そして何より何の意味もないのです。

 例えば、短気な者に「短気なところが欠点だ」と言って、それで忍耐力がつくでしょうか?

 気の弱い人間に、「お前は気が弱い」と言って、それで気が強くなるでしょうか?

 ありえません。仮に改善されたように見えたとしたら、それは本人の努力の結果でしょう。感想と同じで、指摘そのものは本質的なプラスにはならないのです。

 そもそも、そんな風に言われて「よし、短気や気の弱いところを治すぞ!」と発奮する者がいたら相当におめでたい人間です。普通はまず間違いなく怒り出すか反発するか、あるいは落ち込むか萎縮するかでしょう。

 なかにはそんな反応を相手の努力不足という言葉で片付けてしまう者もいますが、それこそ努力不足か想像力不足に他なりません。何がどうであれ、人の手助けになるどころか無意味なストレスを与えているだけであり、自己満足の言い訳にはならないのですから。

 そもそも、欠点というものは本人も薄々気づいているし、そしてわかっていてもどうにかなるものではありません。だからこそ欠点はそのまま残されているのです。そんな部分を再度他人から指摘されたところで、所詮は問題を再認識させられただけに過ぎません。

 欠点の指摘だけをしたところで欠点は改善されません。指摘するだけでは感想と同レベルであり、ほとんどの場合、中傷と何ら変わらないものにまで成り下がります。何一つ相手の役に立たないという点においては。

 欠点の指摘というのは、愚か者が必ず陥る罠なのです。

 なら、欠点の指摘はしない方がいいのでしょうか?

 いいえ、指摘それ自体が悪いのではありません。指摘だけで終わってはならないということです。つまり、欠点を指摘するなら最低でも欠点を改善する手助けをするべきなのです。もちろん具体的な手法や方向性を提示することが不可欠となります。その際には脅迫的ではなく自発的行動に出るよう誘導するのが望ましいでしょう。

 そして、自分の難がある部分・問題のある部分を指摘されて気分のよい者はいません。指摘に際しては可能な限りの配慮を払うべきなのです。でなければ無用な摩擦を増やし、相手の反発を買って逆効果にさえなりかねません。

 もちろんこれらには責任感と能力と配慮が必要ですが、それが欠けている者は最初から人の欠点に触れるべきではありません。まずは自分の欠点を直すべきです。

 欠点の指摘をするのはいいでしょう。しかし、指摘しかできない者は無能です。指摘だけをして何かを為したような気になるのは無能である上に愚かです。

 弱みや欠点、そして短所はどんな人間にだってあります。それを探り出しただけで満足したり、さも致命的な欠陥のように言うのは浅はかです。ましてやこの手の粗探しというのはあまりにも楽であるため、行えば行うほどに人格を腐らせ能力を低下させていきます。人並みのプライドを持った人間ならば、くれぐれもそんな真似をするべきではありません。

 付け加えるなら、「欠点」は改善するべきですが、「問題」の解決に手を貸すべきではないということでしょう。

 例えば勉強で行き詰まっている相手に、問題の答えそのものを教えるような真似は望ましくありません。手助けどころか逆に相手を堕落させるだけです。教えるとすれば解法であり、仮に答えを教えるのならば同時にその解き方も理解させるべきなのです。

 また、欠点・弱点と短所を取り違えている例も多々見受けられます。

 弱点は弱みであり、欠点は欠けた部分です。弱点を克服し、欠点を埋めることは必ずしも不可能ではありません。しかし、短所はそうではありません。短所は克服できないし、してはならない部分です。短所とは長所の裏返しであり、短所を消すことは長所を殺すことに繋がります。短所を下手に変えようとすれば己の武器を損なうだけなのです。

 肉体的な話に例えるなら、筋肉質の巨漢はマラソンやスキージャンプには適していませんが格闘技やボディビルに適しています。小柄で細身の人間はその反対です。しかし、巨漢はどうあがいても小柄にはなれませんし、逆もまた然りです。

 精神的にもこうした向き不向き、適性というものがあり、後天的に変えることは不可能です。それは人間の本質や原点に根付いたものなのです。これら固有の性質は見方によっては欠点に見えるかもしれませんが、実際は代替不可能な個性であり持ち味なのです。欠点の指摘に際しては、短所と欠点の明確な区別をしなくてはなりません。これは絶対です。

 これまで欠点について語ってきました。

 しかし結局のところ、欠点の改善というのは批評においては二の次に過ぎません。

 尋ねますが、欠点のない人間は良い人間でしょうか?

 短所を持たない人間は他人から好かれるでしょうか?

 答えはNOです。そんな人間面白くもおかしくもありません。欠点のない人間、短所のない人間というのは、いてもいなくても変わらない人間です。

 最も他人から好かれ、慕われる人間というのは、大きな短所や欠点を持っていようとも、それを上回る長所や魅力を持っている人間なのです。

 では、批評とはどうあるべきなのか?

 答えは一つしかありません。欠点の改善の対極のことを行えばいいのです。

 つまり、優れた部分の強化です。

 何が上手なのか。何が得意なのか。どんな適性があるのか。最も相応しい方向性は。そうした相手の秀でた部分を見極め、指摘し、さらに伸ばしていくことです。

 悪意的な言い方をするなら「鞭で尻を叩くより鼻先にニンジンをぶら下げて走らせろ」ということになりますが、しかしこれには悪意ではなく善意がなくては不可能です。

 人の悪い部分、劣った部分ではなく、良い部分、優れた部分を第一に見る。

「どこが悪いか、何がつまらないか」と考える前に、「どこが良いか、どうすれば面白くなるか」と考える。

 短所を矯正するよりも長所を引き伸ばすことを、欠点を潰すよりも本質を育てることを優先する。

 不得手を克服する前に、得手を見出す。

 即ち、物事をより良い方向へと導くこと。

 これが批評において最重要にして絶対不可欠の事柄です。つまり、批評とは教育と同じなのです。真に試されるのは、行われる側ではなく行う側だという点においても。

 そして、劣った人格の持ち主はいい教師とはなりえません。優れた者は人の優れた部分を引き伸ばし、劣った者は人の劣った部分を見て満足する。自明の理です。

 批評についての考察は、主にここで終わります。

 以下は悪例についてとなります。

《5:批評と中傷の違いについて》

 どんなジャンル、どんな分野においても、批評家気取りの人間は後を絶ちません。

 彼らの特徴としては、常に上からの視点でものを言う、他人の粗探ししかしない、何事も否定から入る、自分からは決して動かない、暴言を吐く、相手を馬鹿にし侮辱する、など。

 中には「自分の方が良い物を作れる」などと大言壮語する者もいます。上か下かの目線しか持たない、常に他人の意見に反発して主流や多数派とは反対のことを言いたがる、などというのも重要な点でしょう。

 彼らに共通して言えるのは、決して人の助けにはならないということです。当たり前でしょう。彼らの目的は人の手助けなどではなく、自己満足にこそあるのですから。

《2》で軽く触れましたが、批評者と批評者紛いの最大の差は意見の有無にあります。批評者は意見を出しますが、批評者紛いは決して意見を出しません。常に欠点の指摘だけを行い、代案や改善策を出すことは何かと言い訳をして必ず拒むのです。

 その理由について、批評者紛いの中には「批評家が意見を放つなど筋違いだ」などと言って逃げる者もいますが、それは大きな間違いです。意見と欠点の指摘は全く同じものなのです。ベクトルがプラスとマイナスなだけで、他者に外的な影響を及ぼすという点については何も変わるところはありません。

 欠点を潰すことと、優れた部分を引き伸ばすこと。欠点の指摘が前者に不可欠ならば、意見は後者に不可欠。本来ならばどちらも行って然るべきなのです。にも関わらず、批評者紛いは前者ばかりで後者を行おうとはしません。なぜか?

 答えは一つしかありません。

 批判されるのが怖いからです。

 前述した通り、自分の意見を口に出すというのはリスクを伴う行動です。彼らにとってそれは耐え難い苦痛なのです。他人の粗探しはするが自分の粗探しはされたくない、いつだって自分を安全な側に置いておきたい。それが世に氾濫する「批評家」の本質です。他人を批判する人間こそ、自分が批判されることを何よりも恐れているのです。

 しかし、彼らには的確な意見を放てる能力も批判に耐える自負心もありません。当然です。そんな実力があったら批評家紛いなどしていません。

 よって、彼らは常に他人の粗探しに終始します。建設的なことをするほどの能力はないし、何かしても馬鹿にされるかもしれないから一切リスクは負いたくない、しかし自分の存在を誇示したい。となれば、他人の弱点というわかりやすい攻撃目標に吸い寄せられるのは当然の帰結でしょう。

 そうした安易な思考回路の行き着く先は人の足を引っ張ることだけです。幼稚かつ無責任な上昇志向や英雄願望の歪んだ表れとも言えます。

 現実と折り合いがつけられない人間がよく口にする、「自分は特別だ」「やればできる、本当はこんなものじゃない」「自分は正当な評価がされていないだけだ」、そうした言い訳の一つの形なのです。そんな彼らの行いは、批評でも批判でもなく非難であり中傷です。それが誰かの役に立つことはありませんし、何一つ生み出すこともありません。

 こうした行動の根底にあるのは、否定です。

 彼らは他者を肯定するためではなく、否定するためにこそ批評という皮を被っているのです。

 中には面白半分の者、思慮が浅いだけの者もいますが、大抵の場合は嫉妬と羨望、恐怖と不安、虚栄心と優越感が根底にあります。そしてそれらの原因は能力と自信の欠如、人格に芯が欠けていることに他なりません。

 人の優れた部分を伸ばすどころか、見ようとさえしないのはそのためです。活躍している者が妬ましい。恐ろしい。自分の方が上にいると思いたい。だからこそ彼らは他者を肯定できず、否定に走らざるを得ないのです。他人を認めたが最後、自分と相手の格差、即ち己の弱さと醜さに気づいてしまうのですから。

 しかし他人を否定して見下している間だけは、相手の粗探しをしているときだけは、そうした自分自身から目を背けていられます。相対的に自分は正しく優れていると思い込めるし、自分はまだマシな存在なのだと安心できるのです。

 要するに、現実逃避です。彼らは他人とも自分とも真剣に向き合ってはいないのです。「自分の方が良い物を作れる」と言うのは心のどこかでは敗北を認めているから。上か下かの目線しか持たないのは、自分への言い訳のため。主流や多数派と反対のことを言いたがるのは、自分に注目してほしいという願望の裏返し。彼らは嘘と偽り、ごまかしでできているのです。

 そんな人間にとって、批評する立場は実に居心地のいいスタンスです。そうして人を貶めている限りは、何のリスクもないままで優越感に浸ることができるのですから。普段の日常生活では抑圧されている分、安全と正当性を保証された状況ではエゴと感情のままに他者を攻撃し、快楽と安心と幼児的全能感を得ているのです。

 もちろん、こうした行いは周囲からの反感を買い非難されます。しかし、そんなときに登場するのが批評という耳障りのいい大義名分です。

 これは批評だ、だから暴言を吐いても許されるのだ、むしろこれはお前の成長のためなのだからありがたく傾注するがいい、という訳です。ひどいときには自分が本気で相手の役に立っていると思い込むことさえあるようです。

 しかし、それは全て言い訳に過ぎません。少しでも他人のことを考えるなら、その相手を傷つけ、神経を逆撫でする言葉を吐く必然性などどこにもありません。自分の欲望を誤魔化して体面を取り繕っているだけなのです。

 自分自身からも目を背け、他人の欠点を嘲笑しては悦に入り、いざ己が批判される側に回ると言い逃れと自己正当化を繰り返す。彼ら批評者紛いは誰のためにもならない、いない方が良い存在です。

 なぜなら、批評とは人の良い部分を引き伸ばすものです。それに対し、彼らは無意味に人の悪い部分をあげつらい、人の良い部分を押さえつけるだけのものに過ぎません。そんなものに存在意義があるとすれば、反面教師としてだけでしょう。批評という場において、彼らは害でしかありません。

 なお、批評者紛いが他人から批判された際の反応は、

 ①余裕ぶって笑ってごまかす
 ②粗探しをして揚げ足を取る
 ③根拠もなく否定する
 ④責任転嫁・責任放棄する
 ⑤独善的な綺麗事・理想論を口にする
 ⑥短絡的な結論を出し、規定事実のように語る
 ⑦相手の発言を自分に都合よく曲解する
 ⑧茶々を入れて混ぜっ返す
 ⑨レッテル張りなどの個人攻撃に走る
 ⑩自分だけは特別扱いし、ダブルスタンダードを主張する
 ⑪批判者同士で自己肯定しあう
 ⑫相手の言葉をオウム返しに言い返す
 ⑬筋の通らない屁理屈を言う
 ⑭とにかく虚勢を張る
 ⑮例外的なケースだと言い逃れる
 ⑯無関係な話題を持ち出す
 ⑰開き直る
 ⑱批判について理解できない
 ⑲ひたすら中傷する
 ⑳流そうとする

 この20パターンが概ねで、基本は自己肯定と他者否定。数字が小さいほど高頻度で現れます。とにかく自分のプライドと優越感を守ることを最優先し、筋道立った反論をすることは極めて稀です。

 彼らは他人に真っ向から向き合うということを絶対にしません。そしてどんな些細なものであれ己の非は絶対に認めません。それどころかあらゆる詭弁で自分の行動を正当化するため、説得するのは至難の業です。

 また、ごくごく稀に実際に何か活動をすることもあるものの、総じて極めて低レベルなものに過ぎません。

 最後になりますが、これを読んでいて反発や苛立ちを覚えた人は心当たりがあるということです。特に《4》と《5》では顕著に反応が表れるでしょう。

 批評に際しては相手の助けになることを第一に心がけましょう。そうでない限りただの自慰行為に過ぎません。

 世の中には配慮や思いやり、人の手助けといった言葉をつまらないヒューマニズムや理想主義の一言で片付け、深く考えずに反発する者は大勢います。しかし、意外に思われるかもしれませんが、これらは合理主義の極地なのです。

 自己満足のために行う批評と、相手の手助けのために行う批評。

 自分の感情のままに放つ言葉と、相手の感情に配慮して放つ言葉。

 悪意的で無神経な言葉と、誠実で丁寧な言葉。

 粗探しと、改善。

 どちらがよりよい結果をもたらすか。どちらがスマートに、軋轢なく、効率的に、トラブルを起こすことなく相手に届くか。それは考えるまでもないことでしょう。相手の事情を考えず、自分勝手に好き勝手に発言するのはさぞかし気持ちいいでしょうが、それは所詮浅薄で非合理的な行いに過ぎないのです。

 ただ、一方的な善意というのも押しつけがましく気持ち悪いものです。知りもしない相手からお説教よろしくああだこうだ言われるのは迷惑でしかありません。望んでもいない相手への安易な批評は差し控えるべきでしょう。もっとも、その辺りは批評者の品位に任せるしかないのですが。

 結局のところ、批評における善意とは主義でも思想でも感情でもなく、あくまでスタンスでありスタイルなのです。何なら本当に相手のことを思いやる必要さえありません。もちろんそれに越したことはありませんが、過ぎた感情は時に妨げとすらなります。

 批評で最も重要なのは結果です。むしろ結果以外はどうでもいいと言うべきでしょう。そして結果を出すためには善意も必要、ただそれだけの話です。

 もちろん、人間には思想の自由があります。善意を強要するものではありません。心の中でなら何を考えようと個人の勝手です。

 ただし、「自己完結している分においては」です。批評という他者との接触の場において、自分勝手は許されません。それはただの害悪であり、幼稚な子供のやることです。

 人と関わるなら、最低限のマナーやテクニックとしてでも人への配慮を行う必要があるのです。至って当たり前のことですが、そんな当たり前のことさえできないのなら、どう批判されても罵声を浴びせられても何一つ文句は言えません。

 他者からの配慮を求めることができるのは、自分もまた他者に配慮している者だけです。

 また、ここで語った批評についてはあくまでも理想的な批評であり、万人にそのレベルを要求するものではありません。

 しかし、他人のことは批判するのに自分は意見を言わない者、批判者には他人の作ったものにとやかく言う資格はありません。また、悪意を持って批評まがいのことをするのは最も卑しい行いです。

 そして何よりも忌むべきは、中途半端な気持ちで適当な批評をする者です。さしたる分析も思考もなく、腰掛け気分でいい加減な感想を投下してもただの迷惑、雑音にしかなりません。くれぐれもこの手の人種には成り下がらないように。優れた批評者が優れた作り手とは限りませんが、優れた作り手は優れた批評者であるのです。

《最後に - 批評の基本》

 ここまで大変長い解説となりましたが、これらの概念をシンプルな一言にまとめると、

「異論を一度認め、思想を再び学び、新たな価値を伝える」

『はじめての批評』の感想でも述べました“批評の基本”に行き着きます。

 もちろん『だれでも書ける最高の読書感想文』『はじめての批評』の2冊を読んだだけで感想・批評の真髄を掴めるわけではありませんし、私だってこの2冊だけでここまで書いているわけではありません。

 他の書籍やネット記事など大量に読んで学んできた文献を自己解釈で噛み砕いて体系的にまとめて、やっとこの文量にたどり着いているわけです。

 様々な文献を参考に書いてきたので、この解説にどれぐらいのオリジナリティーがあるのか正直なところ私も分かりません。それでは授業や講義および教育とは何なのか考えると、先人の編み出した知識に「新解釈」という新たな変化を組むことで知識は代々継承されてきました。ですので、もしもこの解説を何かに利用したいという人がいましたら、改変などしない場合に限り自由に再利用・再アップロードしてくださって構いません(連絡も不要ですが、もし「書いたよ〜」と教えていただけたら作者の私が遊びに行きます)。

 ただし素人が書いたコラムですので、先人の正しい知識を学びたい方は、まず『だれでも書ける最高の読書感想文』『はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術』の2冊から始めてみてください。

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