僕は長崎市の決定を誇りに思う
これは書こうかどうか、迷ったのだけれど僕は今回の長崎市の決定を誇りに思う。少年時代にあの街に親しみ、多くを学んだ人間としてとても嬉しく思う。
市側はこの8月9日の式典にイスラエルを招待しないことは混乱を避けるためであり、「政治的な」配慮ではないという。しかしこのパフォーマンスこそが悪い意味での「政治的な」配慮であり、僕は胸を張りテロに対して虐殺で報復するのは「間違い」だというメッセージを、最後の被爆地が世界に発信するべきだと思う。
右派はこうした長崎市の態度を、ロシアに利すると、現実的に西側のメンバーとして振る舞うしかない日本外交戦略の足を引っ張ると批判するかもしれない。しかし、倫理的にはどう考えてもロシアとイスラエルを「同時に」批判するしかない。むしろ戦後の「西側」が築き上げてきた価値観に従うのなら、ロシアを批判しイスラエルを擁護する米英独の態度こそがダブルスタンダードであることは明白だからだ。
そしてある思想や精神が長い年月の中でその本流では廃れ、むしろ傍流でしか生き残らないことは珍しくない(なぜ、「禅」の本場が日本になっているかを考えてみればいい)。だからこそ戦後80年を迎えようとするこのタイミングで日本が「本来の」西側諸国の取るべきスタンスを愚直に取り続けることが重要だと僕は思うのだ。「繰り上げ当選」的に「西側」の一員として(アメリカの子分として)認められている「西側」の傍流だからこそ、僕は日本が「ロシアとイスラエルを同時に批判する」ポジションを取るべきだと考える。そしてこのポジションは、今後の両地域の状況の変化によっては、国際社会において重要な役割を果たすことになるはずだ。具体的に言えば今後「ロシアとイスラエルを同時に批判している西側の先進国」だからこそ「できること」が発生する可能性は少なくなく、それは「実務的な」レベルで有効なポジションになり得るのだ。
これは日本国憲法の「前文」からの引用だ。僕は憲法9条については改正が望ましいと考えている。防衛戦力の存在と平和主義政策は両立するので、単純に自衛隊は国軍化すべきだと思うし、それ以上に80年前は違ったのだろうが、いま9条を普通に読むと「一国平和主義」を肯定しているようにしか読めないからだ。さすがに、もう日本人にさえ犠牲が出なければ、他国はどうでも……という考えは通用しないだろう。しかしその反面、前文のコスモポリタニズムは、今日の世界情勢だからこそ輝いて見える。騙されたと思って読んでほしいが、前文は一周回って「いま」だからこそ価値が増しているように僕は思うのだ。
「9条(一国平和主義)」ではなく「前文(コスモポリタニズム)」の立場に立って、日本がロシアとイスラエルを「同時に」批判すること。ここから戦後80年目を迎えるこれからの日本を考えてみたいと僕は思う。
そこで、今日僕が取り上げるのは加藤典洋の『敗戦後論』だ。
これは戦後半世紀の節目にあたる1995年に発表された論考で、端的に述べれば右派の感情を「国内戦没者を先に追悼すること」で慰撫し、彼らもまた歴史に翻弄される被害者でもあることを認めることではじめて、日本人はアジアの被害者への「加害」を認めることができる……という論旨のものだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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