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和歌山紀北の葬送習俗(9)別火

▼「ベツビ(別火)」という言葉をご存じでしょうか。意味は読んで字の如く、別の場所で火を焚くことです。さきに『和歌山紀北の葬送習俗(5)死忌み』で、死者を出した喪家のあらゆるものには忌がかかるという観念を取り上げました。そして、死忌みは喪家で焚く火にもあてはまります。この、火にも忌がかかるという観念のおかげで葬儀、葬式の段取りが結構面倒臭いことになっていたのです。そこで、このページでは別火という習俗を取り上げてみます。
▼登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。

1.別火で炊いた食事を誰が食べるのか

▼喪家の火は穢れているという別火の観念、習俗があるため、葬儀、葬式で出される食事の多くは喪家の外で作ることがスタンダードとされていました。早速事例をみましょう。

・故人の近親者は穢れた火で煮炊きした物を食べる(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・他人は喪家の火で作った物は食べない(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・葬儀手伝いや会葬者は喪家の外で煮炊きした物を食べる(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・喪家の家族は自宅で食事をするが、それ以外の人は他家で炊事、食事を行う(和歌山県伊都郡かつらぎ町四郷:昭和50年代)

▼以上から、故人の近親者は喪家の不浄な火で作られた物を食べ、喪家以外の人に対して別火が適用されるようです。では、別火が適用される人の食事はどこで作られていたのでしょうか。タイトル写真と下の写真をご覧下さい。

(池田ほか編 1979:p182)
(堀ほか編 1979:p138)

▼このように、喪家以外の人向けの食事は喪家の庭や離れで煮炊きするのが原則で、喪家の屋内でそれが行われることはありません。写真はいずれも1970年代のもので、焚き火の風景が写されています。別火が焚き火でなければならないという制限事項は特にありません。庭先までガスを引けなかったか、プロパンガスが普及する前の風景なのでしょう。また、大鍋など、多数名を賄うための調理器具が写っています。こんな大鍋が自宅に備わっている家は今も昔もあまりないでしょう。これは、集落に住む人だけが使うことのできる共有物であると思われます(集落の共有物を集落の人間だけが使用できる権利のことを入会(いりあい)権という)。
▼なお、タイトル写真と合わせて、これら3枚の写真に共通する傾向がもう一つあります。それは、女性しか写っていないことです。かつて、葬儀、葬式におけるあらゆる賄いは女性の担当でした。

2.別火の習俗がない事例

▼一方、「今は別火をしない」という事例もあります。

別火はしない(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
忌火の観念が消滅し、近親者以外の会葬者が喪家で煮炊きしたものを平気で食べるようになった(和歌山県橋本市:昭和40年代)
字じゅうの人が喪家で昼食、夕食をするので他の家では火を焚かなかった。だから葬式では「櫃の口があいた」ぐらい米を使用した(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)

▼管理人が育った故郷の集落では、別火をしなくなったのは昭和後期から平成初年代にかけてで、別火をしなくなったというよりもむしろ、喪家の内外で食事を作らなくなったのです。市内の仕出し屋さんに幕の内弁当をどっさりと頼み、喪家もそれ以外の人も一律に弁当を食べるようになったと記憶しています。
▼さらに興味深いことに、当人らは「別火がない」と思っているけれど、やっていることは別火ドンピシャという事例があります。

喪家の食事は喪家が支度し、手伝人の食事は「宿(ヤド)を借る」といって近所の家で作る。これは喪家で支度するのが大変だからである(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
別火の観念はないと地元の人は言っているが、伊勢講の講元が喪家での食事を避ける(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)

▼これら2つは、葬送習俗を実践する当事者がその意味を分からないまま行為に及んでいるという事例です。ある習俗を、意味や由来を理解しないまま実践する例はよくあることで、別に生活者が学者である必要など一切ありません。ある習俗がフェイドアウトしたり、より合理的な手段へと改変されていくプロセスというのは、これら2例にみるように意味や由来が欠落していったときに進むのかも知れません。

3.枕飯と別火

▼枕飯は故人のためのものであり、ふつうは忌がかかっていると思いきや、枕飯には別火の観念が適用されており、喪家の本屋で炊かれることはありません。事例をみましょう。

雨垂れ落ちのところで炊く(奈良県吉野郡十津川村:平成20年代)
軒の外で炊く(和歌山県西牟婁郡:平成20年代)
かわらけで炊く(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
枕飯を炊いた鍋は数日間戸外に出し、使用しない(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・枕飯を炊いた火は完全に灰にし、カラケシズミ(空消し炭)として残さない(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)

▼上例のうち、「かわらけ」とはざらざらした素焼きの器のことで、「空消し炭」とは炭の火を水で消さず、自然に燃え尽きるのを待つことです。
▼枕飯を別火扱いすることには、理屈の上で矛盾があります。遺体や故人の霊魂には忌がかかっており、また故人のためのものである枕飯にも忌がかかるはずです。一方、喪家には忌がかかっており、喪家で焚く火にも忌がかかっています。したがって、故人のための枕飯は喪家の本屋で炊いてもよいはずで、枕飯を清浄な別火で炊く意味が管理人にはわかりません。
▼喪家に忌がかかり、喪家の火にも忌がかかっているとして、古い和式民家には釜(竃)が並ぶヘッツイと呼ばれる炊事場があり、そこにはたいていカマドの神を祀る神棚があるので、死穢隔離(神封じ)の手続きが行われてヘッツイ全体が清浄な状態に置かれているとすれば、枕飯を別火で炊くことには一定の論理性があるかも知れません。しかし、枕飯を別火で炊いてしまうと、こんどは別火のほうに忌がかかるんです・・・ 考えれば考えるほどわかりません🌀🌀🌀

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▼葬儀、葬式のメインフィールドが葬儀場となった今、別火の習俗はどうでもよくなりました。そして、さきに触れたように葬儀、葬式の食事を仕出し屋に頼むようになり、女性が賄いを担うという、現在の価値基準では大問題になりそうな性別役割分業も消滅しました。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●堀哲ほか(1979)『近畿の葬送・墓制』明玄書房(引用p138).
●池田秀夫ほか(1979)『関東の葬送・墓制』明玄書房(引用p182).
●井之口章次(1977)『日本の葬式(筑摩叢書)』筑摩書房(引用p77).
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●横井教章(2014)「葬送儀礼に見られる米―民俗誌の記述を中心に―」『佛教経済研究』(駒澤大学)43、pp265-290.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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