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和歌山紀北の葬送習俗(5)死忌み

▼日本には、身内に不幸があると「キビキ(忌引き)」として学校を数日間休んでよいという決まりごとがあります。忌引きの「(いみ)」という文字が縁起の悪いものであることは、日本に生活する誰もが共有しています。忌とは、要するにケガレ(穢れ)のことです。特に、身内に不幸があると喪家や親族、同じ集落に住む人びとがにわかに忌を気にし始めます。この、人の死亡に伴う忌のことを「シイミ(死忌み)」などといいます。今回はこの「死忌み」を取り上げてみます。

▼登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。


1.死忌みとは


ある家で死者が出ると、その家は穢れるというのが死忌みの基本的な考え方です。この状態を管理人の親は「ぶくがかかる」と呼んでいました。「ぶく」とは、「喪に服する」の「服」のことです。管理人もこれを受け継ぎ、今も「忌む」ではなく「ぶくがかかる」と表現しています。「今年は『ぶくがかかって』いるからあれをしてはいけない、これをしてはいけない」というふうに使います。

▼通常、死忌みは死者と血の濃い者であればあるほどその影響が及ぶことになっています。血というのが穢れ観念の中核で、それは出産時の出血、女性の生理血、動物の血など「具体的な血」に対する嫌悪感情のほかに、血縁など「抽象的な血」にも広がってひどく差別的な観念にまで発展してしまったという負の歴史があります。

2.死忌みの期間


▼通常、死忌みには範囲と有効期間のようなものがあります。

▼範囲は、喪家とそこに住む血縁者を中心に、喪家で作られる食べ物、喪家で焚かれる火、喪家にある履き物、衣服等々、喪家にかかわる事物全てに死忌みがかかるとされています。また、葬儀の手伝いをする人や参列者にも死忌みがかかり、だからこそ葬儀が終わると清めの塩をふるのです。

▼次に、死忌みの有効期間内は喪に服することになっています。事例をみましょう。

3日(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
7日(和歌山県橋本市:昭和40年代)
35日(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
49日(奈良県吉野郡野迫川村,和歌山県橋本市,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県旧那賀郡打田町,和歌山県旧那賀郡岩出町,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山,和歌山県海草郡旧野上町:年代は省略)
100日(奈良県五條市中筋・八田:昭和30年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
1年(ないし一周忌)(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
親が死亡した場合は100日(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
親が死亡した場合は1年(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
きょうだいが死亡した場合は50日(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
叔父・叔母が死亡した場合は3日(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
叔父・叔母が死亡した場合は20日(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
叔父・叔母が死亡した場合は30日ほど(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
いとこが死亡した場合は7日(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
いとこが死亡した場合は20日(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
甥・姪が死亡した場合は3日(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
垣内(カイト)の者が死亡した場合は3日(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)

▼これらの事例から、世間一般に流通している『葬儀の作法』のような書籍がいかに役に立たないかがお解りかと思います。つまり、死忌みという観念や習俗はムラの数だけ、家の数だけ流儀があるといえるでしょう。但し、35日や49日のように、死忌み観念が仏教の追善供養行事と習合して半ば規則と化した事例もあります。

▼これらの有効期間が過ぎると「イミアケ(忌明け・忌み明け)」となり、それまで死忌みがかかっていた人びとは元の平常な生活へと戻ることになります。

3.死忌み期間内に慎むべきこと


▼次に、死忌みの有効期間内にしてはならないことがあります。事例をみましょう。

神社に参らない(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
神社の境内に入らない(和歌山県橋本市:昭和40年代)
氏神に参らない(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
葬式で斎の飯を食べた者は、血の繋がりに関係なく氏神に参らない(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
神様を祀らない(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
神事一切に関わらない(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
神事と正月を遠慮する(奈良県五條市八田:昭和30年代)
寺に詣らない(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
他のめでたいことに列席しない(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
伊勢講に参加しない(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
伊勢講の講元は葬式での食事を避ける(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
家人は魚肉を食べてはならない(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)

▼以上のように、忌は神仏(特に神)を護るための観念であることから、忌のかかっている間は神社や神事から距離を置き、ハレの場や伊勢講のように、死忌みとは無関係の不特定多数を忌に巻き込まないことが喪家のリテラシーであったようです。

▼最後の「魚肉を食べてはならない」は、死忌みというよりもむしろ仏教習俗(喪家は四十九日が過ぎるまで殺生してはならない)の影響でしょう。

4.死穢隔離の手続き


▼死者が出た場合、喪家が死忌みの影響を最も強く受けることはさきにみた通りです。そこで、死亡直後に、死忌みのかかっている喪家とそれ以外の者・物とを徹底して隔離する手続きが速やかに行われます。まずすべきことは、喪家の家の中にある神棚を保護することです(「神棚封じ」などと呼ばれる)。具体的にどのようなものなのでしょうか。事例をみましょう。

神棚を清掃する(和歌山県橋本市:昭和40年代)
神棚に白い紙を貼る(大阪府南河内郡旧川上村,和歌山県橋本市,和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野,和歌山県旧那賀郡打田町,和歌山県旧那賀郡田中村:年代は省略)
神棚に白い紙を貼り、扉を閉めて神様を隠す(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
神棚に白い紙を貼り、四十九日は参らない(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
神棚に白い紙を貼り、四十九日はそのままにしておく(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
神棚に紙の幕を貼る(和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
神棚を半紙で覆う(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
「忌」と書いた紙を神棚に貼る(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
「忌」と書いた半紙を神棚に貼る(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)

▼以上から、神棚に白い紙を貼るのが隔離のスタンダードで、より具体的には、神棚の扉ないしは神棚の内部が外に向かって見えている部分を白い紙で塞いだり覆ったりしているようです(タイトル写真+下写真参照)。これによって、神様が鎮座する神棚内部を外界と遮断し、死忌みが及ばないようにするのでしょう。

▼「忌」と書いた紙を神棚に貼る行為も、「忌」という字ではなく遮断する紙のほうが大事で、「忌」という字は単に「隔離してますよ」とアピールするための表示にすぎないと考えられます。

神棚保護の例(井之口 1977:p141)

▼死穢隔離の手続きは、神棚以外にも行われていたようです。事例をみましょう。

「忌」と書いた紙を玄関に貼る(大阪府南河内郡旧川上村:昭和20年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
「忌」と書いた菱形の紙を玄関に貼る(和歌山県橋本市:昭和40年代)
半紙大の紙を縁先の鴨居に貼る(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)

▼このように、玄関や縁先の鴨居など、死忌みがかかっている喪家と外部の境界となる要所に紙を貼る事例がみられます。

▼さいごに、何度も繰り返しますが、喪家及び故人と血の濃い者には強い死忌みがかかっています。では、誰が神棚を保護するのでしょうか。事例をみましょう。

忌のかかっていない他人に頼む(和歌山県橋本市:昭和40年代)
近所の者に頼む(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
家族(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
親戚の者(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)

▼全体的には、喪家以外の人や血縁者以外の人にそれを頼んでいたようです。

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▼死穢隔離の習俗は今も残っており、たとえ故人が病院で死亡し、またその遺体が自宅ではなく葬儀場に安置されていても、死忌みや死穢隔離の観念を知っている人はおのずとやってしまうものです。死をめぐる習俗は、人の内面からは容易に除去できないしつこさがあるようです。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●堀哲ほか(1979)『近畿の葬送・墓制』明玄書房(引用p136).
●井之口章次(1977)『日本の葬式(筑摩叢書)』筑摩書房(引用p141).
●近畿民俗学会(1980③)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●中野吉信編(1954)『川上村史』川上村史編纂委員会.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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