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わかおの日記23

今日はそれなりに早起きをして、友人とキャッチボールをした。ぼくに付き合うために、調布くんだりから自転車で来てくれる、非常にありがたい友人である。いつもの遊水地に集合したが、土曜日ということもあり、小学生たちで混みあっていた。ぼくは「大学生の剛速球を見せつけてやるぜ!」と肩を回しながら、キャッチボールを始めた。

ぼくは中学校から野球を始めた。弱小で、常に投手不足だったこともあって、割とすぐに投手をやらせてもらえるようになった。ピッチャーは野球の花形である。ぼくは、その魅力に取りつかれていった。中学校の頃は常に野球のことを考え、どうしたらもっといいボールが投げられるようになるか模索していた。

それでもやはり初心者がまともな投球動作を編み出せるほど簡単なものではない。中学2年生頃のぼくの投球フォームは、思わず目をそむけたくなるほど醜悪なものだった。体が大きかったため、素人にしては球は速かったが、試合ではフォアボールを連発し、運よくバッターを打ち取れたとしても、味方にエラーをされていつまでもアウトがとれないという無間地獄であった。さすがにこのままではよくないだろう、そう思ったぼくは母親に志願し、野球教室に通わせてもらうことになった。それが、ぼくと師匠との出会いである。

それからいろいろあって、ぼくは週に1回師匠のもとに通うことになった。師匠に教えを乞う弟子たちは、みな真剣に野球の道を究めようとしている小中学生たちばかりで、ぼくのような右も左もわからない素人中学生はいなかった。それが珍しかったのか、師匠もぼくのことをよくかわいがってくれた。師匠のおかげでだんだんと要領をつかんできたぼくは、この辺りから輪をかけて野球に熱中していった。

高1の終わりからは、ぼくの野球人生は下り坂の一途をたどっていたのだが、中3から高1にかけてのぼくは無敵だった。ぼくがあまりにすさまじいボールを投げるので、相手校の監督が血相を変えて、「あの子は何年生?」とうちの監督に聞きに来たこともあったそうだ。試合後に監督から聞いたので、多分本当だと思う。ぼくの人生で最も快感だった出来事のうちの1つである。

そのような状態からまたもやいろいろあって、今の体たらくに至るのだが、ぼくは師匠には本当に感謝している。師匠のおかげでぼくは野球の本当の楽しみを知ることができたからだ。この出会いがなかったら、ぼくはたぶん努力が報われないことに辟易して、野球を嫌いになっていただろう。

その縁は今に至るまで続き、大学生になったぼくは師匠の娘さんの家庭教師をしている。もちろん今でも野球のアドバイスをしてくれる、非常にありがたい恩師である。

その師匠にいただいたアドバイスを胸に今日はキャッチボールをしたのだが、いかんせん調子が悪かった。コントロールは乱れに乱れ、サッカーをしていた小学生に渾身の速球をお見舞いしてしまった。痛かったのだろう、被害者の小学生は泣きじゃくっていたので、親など呼ばれては面倒だと思い早めに撤収した。弟子の粗相をお許しください、師匠。

追伸 1イニングで30点くらいとられたことがあります



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