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幽霊を印刷するカーテン 〜黒沢清試論〜 (未完)



※黒沢清監督の『CURE』、『回路』、『東京ソナタ』、『叫び』、『ドッペルゲンガー』、『クリーピー 偽りの隣人』などの作品に触れています。



・中身があるからこわくてヘン!

恐怖を巡って興味が尽きないのは「おばけに中身はあるのか?」というテーマである。
子供向けの絵本やマンガ、アニメなど、視覚表現による典型的なおばけのイメージ〜人体を模した白いシーツに真っ黒なお目目が点々〜は、はたして中身があるものとして描かれているのか?それとも、思いきってシーツを剥ぎ取ったその先にはなにもない!?
中身があるように膨らんだシーツ、向こう側になにかいるかもしれないカーテン、そのもしもの可能性を伝える“しわ”や“ひだ”は、われわれの肌をちりちりと刺激する恐怖の源泉だ。
あの世の布が揺れ動き、膨らみ、ついにめくれ上がるーーそんな戦慄すべき光景を捉え続けている作家がいる。黒沢清だ。
かつて黒沢は、NHKの深夜番組『トップランナー』の中で、自身の映画製作について次のようなことを語っていた。
「人間に取って恐怖とはなにか?というテーマにすごく興味があるんです」
「僕の撮る映画がもし変だとしたら、それは、映画というのがそもそも変なものなんですよ」
長年メジャーなフィールドで活躍を続けていながら、黒沢が撮る映画はいつもどこか変だ。予定調和を突き崩し、起承転結からはみ出すなにか余分なものが入り込んでいる。物語る作法においてだけではなく、映像それ自体の中に自己破壊的な要素が含まれているように思えるのだ。
それゆえ、完成した作品は他のどんなものとも異質な恐怖の相を帯びる。指先で触れられそうな、舌で舐められそうな、膚(はだえ)で感じ取れそうな、いわば触知的な恐怖とでも言おうか。いやむしろ、黒沢と似た基質を持つエドワード・ヤンの作品タイトルにならって言えば、映画を見るわたしたちの方が、そこに息づく『恐怖分子』たちによって触られ、感じ取られ、舐め回されるーーそんな不気味な感覚に近い。いずれにしろこの恐怖は、今にも触れられそうな物質性に満ちていながら、本来手でつかむべきものに目で触れる、触覚を視覚によって代理するという映画メディアの特性において、精神的・オカルト的な質にも転換される。二つの異なる質は互いにエネルギーを循環させながら、理性によって排斥されたものたちがさまよう未踏の空間を形作っていく。
なぜこんな離れ業が可能になるのだろう?おそらくひとつには、黒沢映画において幽霊は徹底して“中身を持った存在”として扱われ、膨らんだシーツのしわや風に揺れるカーテンのひだは、幽霊の中身=肉体の記録装置として表現されている、という点が指摘できるだろう。
へんさとこわさ、物質性と精神性はそのまま“中身を持ったおばけ”というフレーズの語義矛盾、身体性の特異な揺らぎに通じている。そう、おばけ、幽霊、恐怖分子(以下、黒沢映画のイメージに適しているように思える“幽霊”に統一する。この用語は基本的に“肉体を持った幽霊”という特殊な存在を表す)は、それが明示的であろうと暗示的であろうと、いつも必ず具体的な肉体を伴って現われてくるのだ。それはカーテンがまくれ上がる一瞬の隙を狙って仕切りを踏み越え、こちらに侵入してくる。


・カーテン、この幽霊的な身体

従って、黒沢映画におけるカーテンは単なるもの言わぬ物体ではない。それは、幽霊との間にある両義的な性質を分かち持つ、生きた壁なのだ。通行を遮断する/許可する、仕切る/通り抜けるという矛盾した性質を介して、彼らは密接に結びついている。
幽霊は、肉体を有するために明確な所属を持たない。肉体を超越した霊的な世界にも、肉体が精神の作用と明確に切り結ぶ現実世界にも、居場所を占めることができずにいるのだ。それゆえ致し方なくさまよい出てくるのだろう。つまり、この肉体は幽霊に取って耐えがたい苦痛を強いる、内なる壁なのだ。自らのからだがアイデンティティを仕切り、両極の世界に引き裂いてしまうのである。カーテンもまた、あちらとこちら、二つの世界を仕切る壁としての機能を持っている。とはいえ、それが外部からの侵入を阻むかたい壁などではなく、日差しの遮蔽やプライバシーの保護といった観点から設けられる、通行可能な、やわらかい壁であることは言うまでもない。カーテンに仕切りとしての機能を与えているものは、その実質ではなく、見かけによる類推~空間を遮る点で壁に似ている〜であり、まずはそのように信じましょうという人間世界の約束事であるにほかならない。
ところが、そんな約束事の体系から切り離された幽霊には、それが通行可能な壁であるかどうかが識別できない。人間存在にのみ備わった類推する能力(哲学者カッシーラーはここに人間を他の生物から分かつ固有の条件を見出し、“象徴を操る動物”という定義を与えた)を持たない(どこかの時点で失った?)幽霊は、だから、肉体を行使するほかない。指先でじかに触れ、からだを押し当て、じっくりとその感触を確かめてみなければならないのだ。こうして不可視の運動を写し取るカーテンは、不自然なしわやひだを浮かび上がらせ、風の流れに逆らうように膨らみ、波打つ。幽霊の肉体の痕跡を型取る、生きた壁となるのだ。
カーテンが通行可能な壁であると了解された段階で、幽霊は通り抜けてくる。こちらの世界に姿を現すのだ。“すり抜ける”ではなく“通り抜ける”。黒沢の幽霊は、ホラー映画によく見られるタイプのそれとは違い、自らのからだに阻まれて壁をすり抜けることができない。そのためにカーテンというやわらかい入口を選び取るのだ。
幽霊とカーテンは、こうして仕切る/通り抜けるという両義的な性質のうちに共謀を果たしていく。


・なぜカーテンはクリーム色なのか?

仕切る/通り抜けるという機能を合わせ持つカーテンが、幽霊の複雑な身体性を模倣するものとして現れていることを見た。これによって、黒沢映画をめぐるある謎に答える契機が開かれるだろう。
即ち、「なぜあのカーテンはいつもクリーム色なのか?」
なるほどたしかに、遮光用に供されるものとして、クリーム色のカーテンはごく一般的なものではある。だが、恐怖を表象するオブジェとしてのそれがクリーム色をしているのはどこか不自然だ。どうして白いレースのカーテンや薄い水色のカーテンではいけないのだろう?
これもやはり、肉体を持った幽霊の両義性=仕切る/通り抜けるに由来している。簡単な話だ。無数の網目を穿たれた白いカーテンや、光を透過する水色のカーテンは、空間を仕切る能力においていかにも弱い。どころか、あらかじめ隣り合う二つの空間をあいまいに貫通させ、ぼんやりとした向こう側の景色を明らかにしさえするのだ。おわかりだろう、おぼろな光や形象を“すり抜けさせる”カーテンは、”すり抜ける”ことができない幽霊の身体的属性とは対局の位置にある。“通り抜ける”ための依代にはなり得ないのだ。
もちろんこうした背景には、「最初から幽霊の姿が見えてはつまらない」という制作上の意図もあるには違いない。だが、それでつまらなくなってしまうというのは、黒沢が、幽霊をカーテンの向こう側に息づいているもの、物質的な量感を備えた存在として位置付けていることの証拠ではないだろうか?これはまた、「充分に仕切られていない壁(肉体を模倣していない壁)は入口になり得ない」という幽霊の身体性とも呼応する。
さらに言うなら、あのクリーム色は、人間の肌や皮膚の色を連想させる目的から選ばれたものでもあるに違いない。本来それらに最も近い肌色や薄いピンク色は、白や水色と同程度に光を透過してしまう。おまけに見る者に爽やかな印象を与えるという点で、不気味さからかけ離れてもいるのだ。おそらくはこうした理由によって、次善の策としてクリーム色が選ばれたのだろう。とはいえ実際、仕切りの向こう側に待ち受ける恐怖を予感させつつ、肌や皮膚といった肉体のニュアンスを再現するためには、あのいくぶん厚手に作られたクリーム色のカーテンが一番であるように思われる。
幽霊が召喚される装置はやはり、充分に仕切られていながら通り抜け可能な、皮膚としての壁でなくてはならないのだ。


・抗い揺らめくからだ、舞踏としての運動

だが、幽霊が肉体を持つとは言っても、そのあり方、運動性や生理感覚はわたしたちのそれとは大きく異なるものであるに違いない。現に黒沢は、重要な局面において断じて幽霊に普通の歩き方をさせない。その動きは、日常的に訓練された人間の歩行様態を逸脱する、舞踏めいた形態をとって現れるのだ。もっとも見やすいのが『回路』(2000)。そのものズバリ“向こう側の世界への回路が開く”恐怖をテーマにした本作のクライマックス。様々な予兆に見舞われた加藤晴彦演じる主人公が、廃墟の暗闇の中で幽霊と遭遇するシーン。かすかな光の中から人体のシルエットが徐々に浮かび上がり、全身があらわになったかと思いきや、幽霊の上半身は揺らめき(やわらかい布、カーテンのように)、ぐにゃりと折れ曲がるのだ!幽霊がわたしたちとは異なる身体性を持っていることを端的に伝える演出だろう。事実、この幽霊を演じているのは役者ではなく、プロのダンサーなのだ。黒沢自身もオーディオコメンタリー内で「通常の人間には不可能な動きを再現してもらうためにお願いした」旨を証言している。
ここに哲学的な視座を導入するなら、近代の批判者ミシェル・フーコーが問題にした人間を機械化するドリル(フーコーを援用した鶴見済の名著『檻の中のダンス』からの孫引きになってしまうが、例えば学校とはまずなによりも“長時間大人しく席に座っていられる体”を教えこむものだという。自然で自由な人間の肉体に不自然で不自由なドリル=訓練を繰り返し経験させ、首尾よく社会に奉仕する機械へと作り替えるわけだ。学校という空間が監獄をモデルとして誕生した、というフーコーの指摘はあまりに有名だろう)に対する異議申し立てとしての舞踏、日常的な制約から人間を解放する身体芸術の、本来的なあり方を見て取ることもできるだろう。舞踏が目指す究極の身体、この世の条理から限りなく隔たったからだは、当然のこと、あの世からやってくるしかない。そこになにかしら革命的な表象(いわゆるイデオロギー的な転換を超えたラディカルな転換、人間が人間的な形態を保ったままあの世へ行く=身体性を更新する、というような)を読みこむことも可能かもしれない。こうした方向は、最終的に、からだの物質的重みを哀切に主張しながらも、地上を離れ夜空を飛び回る『叫び』の幽霊(中谷美紀)の身体性を位置づける結果にもなるはずだ。
いずれにせよ、黒沢が幽霊のからだになにかしら特殊な論理を付け加えようとしていることは明らかだろう。

 

・身体性の移行による可視化

幽霊はからだを持っている。にも関わらずそれは、両義的な性質に絶えず引き裂かれているために、ある以降を経験しなければ可視化されない。暗示的な身体から明示的な身体へ、という通過儀礼を経験することによってはじめて、わたしたちの目に見える存在となるのだ。
暗示的身体は、カーテンやシーツなど、やわらかい布に生じるしわ、ひだ、揺らめき、膨らみ、めくれによって表現される。これらやわらかな布に刻まれた痕跡は、彼岸から此岸をまさぐる幽霊の動きを少しづつ描写し、プリントしていく。
カーテンによる幽霊のプリントアウトが完了した結果として、明示的身体が表れる。人間が認識できる実体が出現するのだ。ただしその動きは、此岸の法則に従属するわたしたちの身体性とは異なる、一種の舞踏として表現されるだろう。ここにおいて映画はひとつのクライマックスを迎える。
黒沢の作品は、おおよそこのような流れに沿って進行していく例が多いが、これがホラージャンルの定型表現〜恐怖の暗示(象徴的な予告)→明示(物質化)〜とは微妙に異なっている点には注意が必要だ。なぜなら、暗示的身体は象徴の次元に留まるものではなく、最初からそこに存在しているものだからだ。それは、たしかに肉体を持ち、内臓を持って、おそらくはカフカ曰く“血と肉の詰まったただの袋”としての苦痛を抱えた上で(『叫び』の幽霊の悲愴な姿を見よ!)、静かに呼吸している。シーツのしわはそのまま幽霊の皮膚であり、カーテンの膨らみは幽霊の内臓なのだ。少なくともそのように捉えない限り、黒沢映画に特有の恐怖の質(映し出されるすべてのモノが、いかなる象徴化の作用をも経ずして、ただモノである限りにおいて、こわい!)は理解され得ないに違いない。わたしたちがしばしば映像そのものの中に含まれているように感じる、なにか余計なものの正体とは、まなざしによる認識を免れた幽霊のからだなのである。


・カーテンの変容、白からクリームへ

カーテンの変容はとりわけ『CURE』(1997)の中に見てとりやすい。

洗脳者の秘密の実験室には、クリーム色の遮光用カーテンだけが引かれており、光を透過する白いレースのカーテンはかかっていない。催眠暗示にかかりつつある役所広司は、自宅でリビングで妻の首吊り死体に遭遇する。そこでは白いレースのカーテンが風に煽られ、揺れている。窓は開かれており、伸び縮みするカーテンとの隙間から光が差し込んでいる。しかし、これは精神を病んだ妻の世話に疲れた役所の深層意識の反映、妻さえ死んでしまえば自分は楽になれるのに·····!という隠された願望が見せる幻であり、現実の光景ではない。人を暴力と殺人へと駆り立てる催眠暗示の恐るべき効果は、後半に進むにつれ役所の周囲の世界を蝕んでいき、よきパートナーであった精神科医のうじきつよしをも死に追いやる。決着の時。すべての元凶となった邪教の施設廃墟で、ついに役所は犯人と対峙する。洗脳から脱するため、彼は犯人を銃殺する。銃弾が三発。今際の際、✕マークをなぞろうとする血まみれの指を押しとどめ、さらに四発。これですべては終わりだ。しかし、その直後、邪教の教祖の録音音声が再生され、どこからか流れ出した水が床を侵しつつある部屋に、彼は佇む。その傍らでは、白いレースのカーテンがなびいているのだ。役所の無意識下にある願望が成就されたことの表れだ。思えば、病院内での接見の折に彼が犯人に向かって言葉は、直接にその願望を語っていたものだ。『おまえらみたいなのがいなけりゃ、俺はこんなことにならなかった!』『俺は、妻は許すが、おまえらは許さない』しかし後の方のセリフは、恐ろしい本音を覆い隠す“否認”の身振りと取るべきだろう。本作が問題とするのは意識が隠蔽しようとする無意識の言葉だからだ。役所が本当に殺したがっているのは妻の方である。その可能性に気付いたために、彼は妻を自分の手の届かない精神病院へと逃がすのだ。犯人はその代理として殺害されるに過ぎないが、しかし、いずれにしても彼の心は一種の救済を得る。妻を殺したがっていること、萩原を殺したがっていること。それが無意識において彼を深く救済するものであるという、明晰な意識と整然たる秩序によって編まれる現実原則の側からは到底容認しがたい残酷な事実が明らかになる。二つの現場にともに白いレースのカーテンがかかっていることがそのなによりの証拠だ。抑圧された願望を解放することによって人間を救済=CUREするという萩原の目的は、皮肉にも達成されたわけだ。
分厚いクリーム色のカーテンから薄手の白いカーテンへの変容は、非ホラー映画であるはずの『東京ソナタ』においても重要な役割を果たす。快感劈頭、風に舞う新聞紙。開かれた窓を一家の妻である小泉今日子が締める。その時風にそよいでいるのは白いレースのカーテンだが、あのクリーム色のカーテンもしっかり脇に存在している。このシーンが冒頭に置かれているのは、開口部の出現、あちらとこちらを仕切るガラス窓とカーテンがともに開かれ、異界の出入り口と化すことを示すためだ。はたして、後半、その開口部を通り抜けて幽霊が押し入ってくる。まるでシーンを反復するかのように、小泉今日子が風にそよぐカーテンを分け、開け放たれた窓を締めると、既に室内にはナイフを持った男が侵入している。鍵屋だったが思うようにいかず、自暴自棄になったこの泥棒は小泉をガムテープでぐるぐる巻きにし、金を出すよう要求する。演じる役所広司は、舞台調あるいは劇画調の大げさな発声で叫びまくる。『俺はなにをやってるんだ!』『なにもかも上手くいかなかった!』『俺はほんっとうにダメな男だ!』登場人物全員が、低く、小さく、平板な口調で話す本作の世界にあって、その熱血ぶりはあまりに異様かつ“リアル”であるために、かえってしらじらしくウソ寒く感じられる。リストラ、家庭内不和、正義の美名のもとに行なわれる戦争、大人と子供の間のディスコミュニケーションなど、現代の社会問題をたっぷり詰めこんだシリアスな作品にはまるで不釣り合いな演技プランが選択されているわけだ。これは、泥棒を、こちら側の世界の論理とは異質な世界からやってきた者、幽霊(この場合は妖怪とでも呼んだ方がしっくりくるが・・・)として描くための手段だろう。
カーテンを触媒にしてあの世が流れ込んでくる。それまでは、歪ではあるもののかろうじてホームドラマとしての体裁を保っていた映画は、この幽霊の出現によって一気にギアチェンジし、正体不明のなにものかへと変貌を遂げる。異界からの侵入者の手引きを受け、家族それぞれが家庭という空間の磁場を逃れ、向こう側へと脱出していく。母は役所に引っ張られて(『だれかあたしを引っ張って』という無意識下の願望は妖怪によって叶えられる)世界の涯てとしての海辺へとたどり着き、次男は夜行バスの無賃乗車を見咎められ、送られた留置所(これまた黒澤流の、錆の浮いた廃墟めいた室内)の中で家族や先生とは明らかに異なる、他者としての大人たちと遭遇し、父親は歩道橋の上でダンボール箱の山にさんざん突っこんだ挙句、トンネル手前で車にはねられ、文字通りにあの世を経験する。不思議なのは、こうした小旅行によって、バラバラだった家族が再び絆を回復することだ。幽霊は青いフェラーリを駆って元いたあの世へと帰っていくが、唯一彼が出現する以前に異界(米軍として派遣されるアフガニスタン)へと旅立っていた長男だけは家庭に復帰しない。ラストシーン。まれに見るピアノの才を持つ次男が発表会でドビュッシーの『月の光』を弾く。カーテンは、と見れば、例の遮光用カーテンは消え失せ、白いレースのカーテンだけが静かに風になびいている。リストラされた事実を偽り、頑なに『親の権威』に固執し続けていた父親は、感動の涙を流す。演奏が終わり、家族三人が仲良く去っていくところで幕。
ここでもカーテンの変容は物語の進行と人物の心理的な変遷と切り離すことができない。クリーム色のカーテンは幽霊の通用口であり、ここを通り抜け、戻ってくることによって登場人物たちは一種の救済を得る。白いカーテンは平安のサインであり、からっぽだった心(香川が頭を突っ込むダンボール箱のように、家族不在のリビングのように)が再び情感によって満たされたことを示す。
おそらくは香川の指図によって家族全員が着席しない限り食事を始められない、窮屈で不気味な食事風景は、必ず仕切り越しに映されていたものだが(窓“越し”、わざとらしい位置に据えられた食器棚“越し”、さらには観葉植物“越し”にまで!)、カーテンが仕切る異界を全員が経験した今、再びあの壁が機能することはないだろう。映画が終わって以降の食事風景は、なにものも間に介在することなく、直接に映し出されるはずだ。
なによりも重要なのは、救済は異界を経験することによって(比喩的に言えば、いっぺん死んでみることによって)初めてもたらされている、という点だろう。『CURE』における無意識下の願望は、自身の内部にありながらけっして覗き込むことのできない、内なる異界であるに他ならない。逆に言えば、いっぺん死んでみない限りは、ごくありふれた一家団欒さえ手に入らないということであり、黒沢の考える救済はけっしてポジティブなものではない。『東京ソナタ』では、エンドロールになにやら不穏な金属音(階段を降りる音?)が被せられ、『CURE』では犯人が死んでも暴力の感染連鎖は止まらない。無意識との対決融合、異界との接触は、ユングが“個性化”と呼んだ概念に似て、厳しく、危険きわまりない種類の自己実現であり、“本当の自分になる”(萩原は繰り返し『おまえ、誰だ?』と問いかける)ことの代償を常に要求するものでもあるのだ。しかし、それなくして、おそらく人間は人間になることができない。幽霊と出会い、触れ合い、親密になり、ついには自分自身が幽霊になってみることによって初めて、人間は人間になることができる。これこそが黒沢清映画の最大のテーマであると言えるだろう。
ありとあらゆる形態の壁の出現は、その困難を表すが、人間は何度でも壁に体当たりして、必死に開口部を穿とうともする。その困難と栄光の間で、クリーム色のカーテンはふわふわと揺れ続けるのだ。


・エロティックなティータイム〜吉井和哉による黒沢清〜

ちょっとした休憩がてら、ここで黒沢ホラーを注釈しているかに見えるある歌の歌詞を紹介したい。
『風に揺れている 白いカーテンが なんか言ってるみたいだよね
徐々にで そう徐々にでいいから
赤み帯びて 目を覚ませピンク』
これは、YOSHII LOVINSONの泣かせる名曲『トブヨウニ』の冒頭部分だ。別れの危機に瀕している一組のカップル。男は復縁を迫るが、女はけんもほろろの対応。そこで男は必死に言葉を費やして女を口説き、失われた恋心の復活を願う。ざっとこのような状況が歌われている。白、赤、ピンクという映像的な色彩の移り変わりが、再び色づいていく内面の変化を表現しつつ、『赤み帯びて 目を覚ませピンク』という、吉井お得意の性的含意を伴ったフレーズにどきりとさせられる。赤い唇の先端からピンクの膣奥へ、という事態の進行を祈念するわけだ。
いかにもおセンチでワイセツなこのラブソングは、同時に黒沢ホラーの本質をそのまま表現しているようにも思える。
『風に揺れている 白いカーテンが なんか言ってるみたいだよね
(暗示的身体の出現。この段階ではわたしたちは吉井と同様、風に揺れているカーテンを『なんか言ってる“みたい”』としか感じ取れないのだが、それは既にして現実に『なんか言ってる』)
徐々にで そう徐々にでいいから
赤み帯びて 目を覚ませピンク
(明示的身体への以降。暗示的身体に徐々に赤い血が通いはじめ、カーテンに押し当てられたピンクの内臓が浮かび上がる·····)』
いかがだろう?こうして見ると、恋愛関係の復活を願うピュアな詩が、まるで物言わぬカーテンから託宣を受け取り、忌まわしいなにかを召喚するための呪文のように思えてくるから不思議だ。エロイムエッサイム 我は求め訴えたり 『赤み帯びて 目を覚ませ ピンク』よ!!!!!!!
·····無論以上はほんのたわむれに過ぎない。だが、吉井の歌に宿るエロティックな遊戯感覚は、黒沢作品に通底するライトモティーフ=人間相互のディスコミュニケーションを巡って、再び召喚されるだろう。


・カーテンに化ける壁、不安な空間の設計術

幽霊の身体性とカーテンの身体性の結びつきについて論じてきた。充分に仕切られた/通行可能な壁。クリーム色のカーテンに代表されるこうした壁のあり方は、同時に、あの優れて黒沢清的な空間を支えるセントラルドグマでもある。
先述した通り、黒沢の映画はいつもどこか変であり、物体が象徴的な意味を帯びることなく(いや、そうした含意は別のレベルにおいては存在するのだが、明らかにそれを追い越す速度で)モノがモノとして迫ってくる、サルトル的な文脈で言うところの“即事物”である限りにおいて恐怖を訴えかけてくる、という奇妙な特質を持っている。言い換えれば、映画内で選択されたモノの造形や配置、さらにはその集合によって構成される空間のすべてが、なにやらひじょ〜に気持ち悪く、落ち着かない気分にさせるのである。
そんな船酔いにも似た感覚、存在の嘔吐を催す不安な空間を支える柱こそが、あの“充分に仕切られた/通行可能な壁”の存在だろう。いわばそれは、実存的な不安を描くサルトルの小説『嘔吐』の主人公ロカンタンが遭遇する存在の不気味な根っこ=マロニエの木なのだ。
しばしばあまりに作為的だとして批難されるクロキヨ空間を思い出してみよう。例えば、『クリーピー 偽りの隣人』(2016)に繰り返し登場する奥行きのある構図。本文が定義するところの“幽霊”に該当する不気味な隣人(香川照之)が訪ねて来る場面。西島秀俊が妻の竹内結子が待つ家に帰り着くと、リビングとダイニングを仕切る戸が大きく開け放たれており、そこをひょいとまたいで香川が登場する。『おかえりなさい』。その後皆で食卓を囲む流れになるのだが、香川を信用できない西島は一人加わらず、リビングの中央に突っ立ったまま、あちらに対するこちらとしての空間性を鋭く主張する。そのためカメラは、リビングとダイニングの二つの空間を一つの画面の中に捉え続ける。まるで、リビングの中央に鎮座まします西島を消失点とした一点透視図法絵画のような、不自然で人工的な構図。だが、ルネサンス絵画における神の不動性とは異なり、カメラは西島の正面から→背後から(後ろ姿が影となって映し出される!)→と次々に視点を切り替え、前景と後景とを入れ替える。この操作によって、人間身体が象徴する正面と背後、光と闇、善と悪、異常と正常といった観念が相対化され、ひとたび視点を転ずれば“サイコパス”で『イカれてんな〜』なのは香川よりむしろ西島の方であるという真理、セリフの上でもたびたび示唆されるテーマが映像的に提示されるのだが、ともかく。
ここで注目したいのは、画面がリビングとダイニングという二つの空間によって常に引き裂かれているという視覚的な(つまりはモノ的な)事実の方だ。これにより、わたしたちの視線は一個の安定した空間に安らぐことができなくなり、複数の空間の間を絶えずさまよいながら、漠とした不安と混乱の中に落とし込まれる。部屋をまたいで香川と西島が矢継ぎ早に言葉を交わし、それに合わせてカメラの視点がめまぐるしく切り替わる(空間認識がシャッフルされる)のだからなおさらだろう。
さらに重要なのは、こうした不安な空間を作り出しているものが、なによりもあの“開かれた戸”であるという事実だ。この戸は、閉じられている限りにおいてリビングとダイニングを仕切る、充分な強度を持った壁として機能する。しかしひとたび開かれるなら、それはたちまちあちらとこちらを繋ぐ入口と化すだろう。つまり、この戸は開口部を穿たれることによって、あのクリーム色のカーテンと同じ“充分に仕切られた/通行可能な壁”に擬せられているのだ。従ってそれは容易に幽霊の侵入を許す呪具となり、恐怖を喚起する表象となる。香川が開かれた戸を“通り抜けて”登場するのはそのせいだ。件のシーンは、恐るべき殺人鬼がついにこちら側(西島家の内部)に侵入してくる、初めての場面なのである。かくして香川の存在は幽霊としての明示的身体を獲得し、もはや無視できない脅威となって再出現する。
だが、正常性からかけ離れたサイコパスとしての属性が与えられているとはいえ、あくまでも彼は人間であり、映画の最初から目に見えるからだを備えているではないか?たしかにその通りだ。だが、恐怖の視覚的表象として見る限り、その存在は序盤において安定した現実世界=西島家の外側に留め置かれているに過ぎない。むしろそうした前段階において、からだを誇示し、見る者に不安な経験をもたらしているものは、あのクリーム色のカーテンの方なのだ!
冒頭、とある失態から警察を辞し舞台となる街に越してきた西島は、妻とともにご近所の挨拶回りにうかがう。一度目の訪問。チャイムを押しても応答はなく、外出中なのか居留守を決め込んでいるのか(後の展開からしてたぶん後者だが)、香川は姿を現さない。『明日にするか』と西島。はたしてその翌日、竹内が一人でチャイムを押す。するとようやく香川は玄関先に出てくるが、その表情は生い茂った草木に覆われて見えない。つまり、一度目の訪問では幽霊のからだは不可視であり、二度目においてもアイデンティティの主たる顔は隠されているわけだ(直後、「チョコを渡したい」という竹内の粘りによってしぶしぶ顔を見せ、歩み出してはくるものの)。いずれにせよ、この時点で幽霊のからだは西島のからだと没交渉のままだ。物語が進行するにつれ、香川は西島と竹内との間に(おそらくは戦略的に)個別的な関係を築いていくのだが、なにより見逃せないのは、恐怖の輪郭がいまだ形作られていない二度の訪問時において、例のクリーム色のカーテンが既にその姿を現しているという事実だ。カーテンは、香川家を正面に捉えた左側に建てられたあばら屋の窓(?)に取り付けられており、西島家と香川家のちょうど中間に位置している。つまり、両家を、彼岸と此岸をはっきりと“仕切っている”のだ。不気味に揺れ動くこのカーテンは、その後幾度も登場し、風の流れを無視するようにはためき、膨れ上がっていく。まるで自身のからだの細部、しわやひだによって形作られた表情を見せつけるかのように。この通り、超常現象を扱うホラーにおいてだけではなく、現実の殺人鬼を題材にした本作においても、幽霊の暗示的身体は明示的身体に先んじて登場していると言えるのだ。さらには、二つのからだがエネルギーを交換し、暗示的身体から明示的身体への移行が果たされるのが、例の“通り抜け”儀式によってであることは言うまでもない。
ところで、一般的な生活感覚に引きつけて言うなら、あのカーテンはどう見ても不自然だ。そもそもカーテンを、それも遮光用と思しきクリーム色のカーテンを、わざわざ窓の内側ではなく外側に取り付けるなどということがあるだろうか?老朽化した小屋に比してカーテンが妙に真新しいところもおかしい。このように意図された不自然は、「そうまでしてカーテンを登場させなければならない」という観点から本文の見立てを裏付けると同時に、より本質的な側面〜黒沢映画における壁のさまざまな様態〜を暴露していくだろう。


・複数化する空間、分裂する意識 〜壁のレヴェルを巡って〜

『クリーピー』中の空間設計=開かれた戸による画面分割の例で見たように、黒沢は、奥行きのある構図を駆使してさまざまに空間を複数化することで、観客の視線をひとところに安住させず、絶えず意識を分裂させ続ける。この不安な経験を準備するのが“充分に仕切られた/通行可能な壁”の存在だ。カーテンがこうした両義的な性格を持っていること(つまり、クリーム色のカーテンは“充分に仕切られた/通行可能な壁”という定義の“/=スラッシュ”部分そのものである)は既に確認した通りだが、間を取り持つスラッシュが機能しにくい、“仕切られた”と“通行可能な”が視覚的印象として両立し得ない程度に強固な壁については、必ずなんらかの開口部が穿たれる。いったい、わたしたちは黒沢映画において、どれだけ多くの開かれた戸や半開きになったドアを目にしてきたことだろう!それらは開口部を持つ限りにおいて、カーテンと同じやわらかい壁として機能し、空間を分節し、見る者の心理状態をゆらゆらと揺らし続けるのだ。
とはいえ、これは、“仕切られた”と“通行可能な”という相反する視覚的印象が微妙なバランスを取ることによって初めて可能となる事態であるに違いない。白いレースのカーテンや薄い水色のカーテンは、前者の条件が不充分だったために呪具化され得なかった。“仕切る”印象の弱さが“通行可能な”印象を強化し、双方のバランスが崩れた結果、不安なオブジェとしての形象化が阻まれるわけだ。では、これら半透明な壁に対する透明な壁、ガラスの壁ならどうだろう?
結論から言えば、これは立派に依代として機能しうる。まず“仕切る”点については申し分ない。ガラスの壁がカーテンより強固に空間を仕切ることは明らかだろう。しかしそのぶん、通り抜けは容易にできないはずではないか?しかり。だが少なくとも、からだの中のある部分はほぼ完全に通り抜けることができる。目だ。よく考えてみてほしい。本文は“仕切られた”と“通行可能な”という定義を、一貫して視覚的印象の観点から行ってきた。視覚的にではなく、物理的に、ということであれば、カーテンは最初からなにものも仕切ってはいない。それに仕切りとしての役割を与えているものは、形態の類似から共通した印象を取り出し、付け加える、人間独自の能力であるにほかならない。要するに約束事とは「壁のように見なす」という視覚的印象の操作体系を指し、本文は、徹頭徹尾、この点を問題としているのだ。同様に、戸やドアも単に手で開閉すればいいだけだから、壁としての強度はさほど持ち合わせていない。にも関わらず、木や鉄といった材質の硬さから、はたまた「鍵が掛かる」という約束事への期待から、わたしたちの視覚はそれらを充分な仕切りとして見なすのだ。つまり、こちら側の世界、人間が目で触れるスクリーン(カーテン=映画)において重要なのは手よりも目なのである。反対に、あちら側の世界、幽霊が手で触れるスクリーン(カーテン≠映画)において重要なのは目ではなく手だ。つまり、わたしたちが映画のスクリーンを介して幽霊に目で触れているまさにその瞬間、幽霊もまた反対側からカーテンというスクリーンを介してわたしたちの世界をまさぐっているのだ。こうした論理を隅々まで内面化しているゆえに、黒沢世界におけるさまざまなモノは、視覚によって象徴化される一歩手前で、不気味な手ざわりを伝えてくるのだ。これが触知的な恐怖の正体である。
ガラスの壁は、手の侵入を堅固に阻む一方で、たやすくまなざしを貫通させ、通り抜けさせる。“仕切られた”と“通行可能な”の双方の要件を満たし、高度にバランスを保っているのだ。
ここに、ガラスという材質が持つ特性、空間を遮蔽し/投射された映像を写し出す、というスクリーンに極めて類似した性質を付け加えるなら、四方をガラスで囲まれた場所が、あの特権的な映像空間と化すことになんの不思議もないだろう。


・全面ガラス張りの大学オフィス、手(モノ)と目(象徴)が拮抗する空間の白眉

再び『クリーピー』だ。
西島が犯罪心理学を講じる大学のオフィスは全面ガラス張りで作られている。通常はオシャレで開放的な空間として表象されるであろうそのオフィス内で、数年前の事件で心に傷を負った少女(川口春奈)への聴取が行われるシーンは、映画中の重要な転換点であり、黒沢のフィルモグラフィー中でもとりわけ異様な位置を占めている。構図、カメラの動き、ライティングなどの要素が渾然一体となって、ほとんど謎かけじみた様相を呈しているのだ。順に見て行こう。
なにやら準備を整え、画面奥から手前に向かって歩み出す西島にくっついてカメラが動き出し、簡素なデスクにたどり着く。『おまたせしました』。既に着席していた川口の斜向かいに西島が腰を下ろすと、カメラは川口の背面、西島の正面を斜めに切り取るように捉えつつ、一瞬静止する。なるほど、ここから固定カメラになって、二人の顔の表情を切り返しショットで抜きつつ、じっくりと二人の会話が映し出されるのだな〜と予想を行ったのも束の間、なんとカメラはぐにゃりと揺れ、再び動き出したかと思いきや、ゆるやかに回転をし始めるのだ!が、驚くにはまだ早い。会見が始まったのはおそらく正午頃のはずだが(回転の前段階で注意喚起されるガラス壁の向こう側の光景〜明るい日差しのもとで学生たちが会話しているテラス〜からそうと知れる)、不自然なタイミングで席を立ち脇にあるホワイトボードに向かう西島や、そこから逃れイマジナリーラインを割って画面手前の階段に接近する川口を追い、カメラが回転していくにつれ、画面は次第に暗くなっていき、ついには真っ暗になってしまうのだ!さらには、空間を一周しきったカメラが再び元のデスクに帰着すると、まるでなにごともなかったかのように画面は明るさを取り戻す。これはいったい何事だろう?わたしたちはこの異様な演出をどのように受け取るべきなのだろう?
モノ的、視覚的、幽霊的な側面からまずは捉えてみよう。ここで企図されているのは明らかに不安な空間としての大学オフィスの形象化である。
衝立を挟んだ画面奥左手からちらちらとこちらの様子を窺う男性(二人の会話をレコーダーで記録していると思しい)を意図的に含んだ、これまた奥行きのある構図に加え、ガラスの透過性によって空間は外と内に複数化され、さらにその空間全体はカメラの回転によって絶えず入れ替わり、極端な明暗の変化の中でまたたいていく。つまり、空間的に複数化された画面は、時間的にも分節され、複数化されているのだ。二重・三重に仕組まれた、執拗なまでのまなざしの分断。観客の安定した視覚と意識に揺さぶりをかける、黒沢流空間設計の真骨頂と言えるだろう。
では、心理的・象徴的・人間的な側面から捉えてみるならどうか。この場合、空間の変容は、過去の忌まわしい記憶を掘り起こし、苦痛とともに吐き出す川口の無意識、心理的な暗黒面の顕現を表している。語り出すに連れ、西島に強く問いただされるに連れ、徐々に暗く翳っていく空間は、暗鬱な事件の記憶に沈滞していく川口の内面に対応する。そうしてとうとう闇に沈んだ画面の中、階段近くのガラス壁に身を預ける川口のアクションは、無意識が境界をまたいで露出しつつある危険性を示唆する。なぜならこの時、当然、ガラスは寄りかかった川口の背面を写し出しているからだ。反転した自身の像、分身、つまりは主体から独立したコントロール不能の無意識だ。ある日突然役所広司演じる主人公の分身がし、大暴れする怪作『ドッペルゲンガー』に明らかな通り、“分身”はまた黒沢映画を特色付けるテーマのひとつでもある。分身を産出する壁としてのガラスは、カーテンに次ぐ特権的な壁であり得るだろう。
川口の心理的な明暗の変化は、同時に西島の本質を暴露するものでもある。なぜなら、ガラスは続いて接近する西島の姿を写し出すからだ。本作における西島は、極端な棒読み口調で話す、人間的な温かみを欠いた平板な人物として描かれているが、そうした側面が加害的な性格を有している事実がはっきりと示されるのがこのシーンなのである。被害者の苦悩などまるで顧みず、ただ自分の欲求を満たしたいがために詰め寄った結果、彼は、川口から「あなたも他の人たちと一緒なんですね」という痛烈な一言を投げつけられるに至る。その後、西島が抱える精神的な暗部は、かつての部下である東出昌大(そういえば、件のシーンで東出の顔が意図的にフレームアウトさせられ、見えなくなっている点は奇妙だ。川口と西島が、さらには香川が共有するダークサイドから、彼は切り離されてあるということだろうか)を調査の過程で失うことによって、再度爆発する。川口の自宅を訪れ、犯人の顔を覚えていないか暴力的に問い詰めるのだ。その身振りはまるで、彼が常日頃から理解し、距離を保って観察している(と思いこんでいる)危険なサイコパスそのままである。要するに、オフィスのシーンに見られる異様な演出は、先行するリビングとダイニングのシーンによって暗示されたあの、正面と背後、光と闇、善と悪、正常と異常の反転可能性を強化するものなのだ。
では最後に、映画の外側から、現実法則に沿って謎かけに応じることはできるだろうか。つまり、実際にはここでなにが起きているのか?一番の眼目は「時間は現実に経過しているのか、否か」という点にあるに違いないが、結論から言えばこれがよくわからない。なぜならこの状況が、あらかじめ相互否定的に仕組まれたものだからだ。一方の見方=「時間は実際に経過しており、ただ昼から夜へというゆるやかな変化が高速に圧縮された形で捉えられているだけだ」という見解は、部屋がひとりでに明るさを取り戻す事実によって否定され、他方の見方=「あくまで心理的な動きを表現するものであって実際には時間は経過していない」という見解も、ガラスを透かした外に広がる景色も内と同程度に暗くなっており、学生たちが帰路を急いでいるように見える、という点から否定される。こうして時間経過の有無を確言することは不可能となり、このシーンが現実であるか幻想であるかはついに同定され得ない。問いは不安定なまま宙吊られるわけだ。否定的な条件の巧妙な布置によって、ここでもやはり、わたしたちの意識は安らぐことを許されないのである。


・地下室に穿たれた開口部、最もかたい壁で、すら。

地下室、特にホラー映画における地下室はしばしば監禁という主題と結びつきながら、最も強固な壁、脱出不可能な空間として機能する。それは開口部を隠蔽する限りにおいて、視覚的・心理的に閉じた印象を発散し、見る者に絶望と恐怖を与えるのだ。これにはほとんど例外が存在しないように思える。ところがなんと、『クリーピー』では、この最もかたい壁=地下室にすら開口部が穿たれるのだ!
西島からの相談を受け、香川の家に立ち寄った東出は、偶然秘密の地下室を発見する。コンクリートや鉄筋の硬質さ・冷たさを強く感じさせる、こうした西欧風、もっと言えば英国ゴシック風(19世紀初頭、ホレス・ウォルポールの奇怪な洋館建設を皮切りに始まったゴシック・リヴァイヴァルの波は、清潔を旨とし秩序と礼節を重んじるはずのヴィクトリア朝イギリスを魅惑し、“picturesque”や“sublime”といった観念と結びつきながら汎ヨーロッパ的な現象を形成していった。わが国におけるヴィジュアル系バンドの装い、ダークなアニメやゲームの着想の源も、元をたどればここにあると言える)の地下室や廃墟は、黒沢映画のトレードマークのひとつだ。
とはいえ、『回路』の廃墟などと比して、この地下室はとりわけ異様である。まず、ばかでかい。さながら人気ゲームシリーズ『女神転生』の3Dダンジョンのごとくに広大なのだ。おそらくは、登場した瞬間、こらこらちょっと待てーい!あの木造の一軒家のどこにそんな地下室が存在するんだ!そもそもサイズ的に入らないんじゃない?入ったとして間取りはどうなってるんだよ!という総ツッコミを受けるに違いない、不自然極まりない代物なのだ。そして、さらに問題なのが、このとびきりの恐怖を喚起するに違いない完璧な密室空間を用意していながら、重要な場面に限ってなぜか開口部が穿たれる=密室が解除されてしまうことだ。わざわざ不自然を押し切って登場させておきながら、である。
例えば、香川の娘(実は娘ではない、人質)が助言を仰ぎつつ死体の処理を行うシーンや、言葉巧みに洗脳され呼び寄せられた竹内がそれを手伝うシーンにおいて、地下室の扉は常に開かれている。その気になればいつでも逃げ出せるのだ。無論、こうした状況の不自然さは、人間の孤独な心理につけこむ香川のマインドコントロールの恐ろしさを際立たせるための演出でもあろう。からだが動こうとする手前でこころが動かないために、逃げ出すことができないわけだ。しかし、これらシークエンスを印象付ける構図が、出入口の開かれた扉を正面奥側に置いて地下室全体を捉えた、あの一点透視図法めいたものであることを考えれば、単純に恐怖を伝えるための演出だとは言い切れまい。おまけに、ここでの地下室は西島がダイニングで捉えられたのと同様に、真っ暗な影として映し出されるのだ。言うまでもないがこの影は香川の恐るべき暗黒面を表す。おわかりだろう。脱出の希望をもたらすはずの扉は、開かれることによって空間を複数化し、まなざしの安定を妨げつつ、いつ香川が通り抜けてきてもおかしくない不安な開口部として機能しているわけだ。最もかたい壁である地下室までもが、カーテンの様態を模倣しているのである!
この特筆すべき硬度の変化によって生じるエネルギーは、さらに別用のやわらかい壁をお仲間として召喚する。布団圧縮袋だ。香川の命令に従い、娘と竹内は死体を布団圧縮袋の中に閉じ込め、小型掃除機を使って空気を抜いていく。そこでこれ見よがしに長尺で捉えられる圧縮過程、ぺきぺきと音を立てながらたわみ、歪み、縮まっていくビニール袋は、素材の特性上、布製のカーテンよりいっそう細かなしわとひだを無数に浮かび上がらせる。この場面が本作最大の恐怖をもたらすのは、ただ行為の残酷さによってではなく、あの世のからだの表情(死体)を印刷するしわやひだ、もっともやわらかい壁の出現によるのである。また、この壁が掃除機を突っ込むための隙間=開口部を保持している点にも注意されたい。





 ・空間による画面分割から時間による画面分割へ〜横倒しにされた壁仕切りとしてのカメラの水平移動〜

さまざまな壁の様態を確認してきた。やわらかい壁=カーテン、かたい壁=引き戸、透明な壁=ガラス、もっともかたい壁=地下室。このいずれもが、なんらかの視覚的な開口部を持つことによって、黒沢映画における恐怖の表象、特権的な壁であるカーテンの様態を模倣している。結果として、奥行きのある構図の中で複数化された画面はわたしたちに不安な経験をもたらし続ける。また、こうした空間設計の不自然が、モノ自体の不自然と連合することによって、幽霊の肉体を彼方から召喚し、触知的な恐怖を作り出すのでもあった。
では、空間的な制約から、奥行きをうまく利用できない環境においてはどうなのだろう?
カメラの早い横移動(これまた指摘されることの多い特徴的なスタイルだ)を駆使し、部屋と部屋、空間と空間とを連続的に繋ぎ合わせることによって、複数化された空間を視覚的意識の中に実現させる方式が取られる。あの恐るべき短編『木霊』において、少女二人の移動に合わせてスムーズにカメラが横移動していき、だれもいない教室を次々と映し出していく場面を思い出そう。いわば、黒沢の横移動は、奥行きのある構図によって縦方向に実現される複数化された空間を、そのまま横に寝かせた形態なのだ。








(以下、自分向けのmemorandum)


・神話的境界概念の黒沢作品への当てはめ
例証、しかし·····作品論と同時に概論を提示した方がラクかも?

原始的な暗部(筆者の大好きなTHE YELLOW MONKEYの楽曲『DEAR FEELING』には恐るべき鋭さを持ったこんな洞察が登場する。『首から下げた誠実は 手首に巻いた崇高は 獣が単に進化して 代わりに手にした財産』)は、どこか黒沢作品に通じるものがあるのではないだろうか?
黒澤映画において、人物は明らかな意図を持って平板化されている。みな一様に棒読み口調で話し(そのように演技指導されているとしか思えない)、他人に無関心で、深い交わりを持つことを恐れているような印象がある。感情の起伏に乏しく、セックスシーンなど当然のこと登場せず、そのようにプールされた感情はあるきっかけによって一時に噴出する。突如として激発する暴力は、わがものにならぬ肉体の不条理を抱えた不慣れなものとなって現れざるを得ない。『アカルイミライ』に登場する温和で頼りない藤竜也がオダギリジョーとの接見中に突如感情を爆発させるシーンは忘れがたい。我を忘れ、大声で怒鳴り、握りこぶしで机を叩いた直後、藤竜也の上半身はその衝撃、意図せず出現した自らの暴力、その責任主体としての身体性を受け止めかねるかのように、ゆらゆらと滑稽に揺れ動くのだ。

 

そんな、あらゆる絆のコミュニティーから分断され、持て余されたからだを生きる登場人物たちよりよほど生き生きとした運動性を、幽霊のからだが獲得している事実はまことに興味深い。人間たちががんじがらめに絡め取られている条理から軽々と脱し、彼らの眼前でゆらゆらとモダン・ダンスを踊りながら、なにものにも縛られない自由な身体性を見せつける幽霊にこそ、逆説的に生のエロスが発散されているとは言えまいか?加藤晴彦が恐怖し圧倒されたものは、幽霊のタナトスではなくエロスであり、この世から解放された肉体の危険なまでの自由(まさにラカンの言う“対象a”のような)だったのではないだろうか?
このように考えると、黒沢作品に横溢する冷たい官能=エロスの拠って来たる場所が明らかになる。それはつまり、この世から解放されたあの世、現実規則に縛られない幽霊の肉体から発するものなのだ。そして、ある意味では彼らの出現が人間味に欠ける登場人物たちの欠如を埋め合わせ、アイデンティティを回復し、その魂を深いところで救済するのだ。これは、幽霊の自由な肉体性が人間の不自由な肉体性を直接に刺激する(恐怖とエロスを伴って)からこそ可能になる奇跡だろう。黒澤映画に通底するテーマが“人間相互におけるディスコミュニケーションとそこからの救済”である以上、“肉体を持った幽霊”は欠くことのできないモチーフなのである。人間とコミュニケートし、救うためにこそ、幽霊は人間の肉体を持たなければならなかったわけだ。
従って、黒沢清の特異性を最終的に一言で要約すれば“恐怖による救済を描く”ということになるだろう。

直接的な
さ、次行こう!
いくら試論とはいえ、ここまでの記述にはあまりに例証が不足している。そこで、以下では、黒沢ホラーのエッセンスが凝縮された三作品を望見しつつ、肉体を持った幽霊、生きているカーテン、暗示的な肉体から明示的な肉体への以降、モダンダンスに仮託された異質な身体表現、といったテーマを確認していきたい。
取り上げるのは、1994年から断続的に制作されたTVシリーズ『学校の怪談』のうち、黒沢が監督を手がけた『廃校綺談』『木霊』『口裂け女』の三作品だ。いずれも傑作揃いだが、とりわけ『木霊』は黒沢のフィルモグラフィーの中でも屈指の名作である。順に見ていこう。

『廃校綺談』
廃校になることが決定しているとある中学校。

 

 

 


明示される身体は日常的に訓練された歩行様態を逸脱するモダンダンスとしての動き、暗示される身体は彼岸と此岸を分かつ布の揺れ、はためき、しわ、ひだ、プリーツ、膨らみによって表現され、それがひそかに抱き、覆い隠している目に見えないものの存在を主張し、さらにその布はやわらかい壁としてその存在を秘匿しながらもこちら側への通行を導いていくのだ。
両者はけっして対立的な表象ではなく、互いに併存しており、暗示的身体の現れ、その積み重なりが明示的身体の最終的な出現を導いていくことも多い。その意味で両者は同じひとつの身体性(とはいえおそらく、わたしたちが生きる世界の論理とは異なる)の別用の表れだと言えるのだ。だが、誤解されてはならない。これが、ホラー映画の定石としての恐怖の暗示→明示というスタイルとは決定的に異なるのは、暗示的身体は単なる気配に留まるものではなく“実在”しているという点だ。それは、中身を持って、内臓を持って、血と肉の絶え間ない運動性を備えて、そこで呼吸している。ただわたしたちの目に見えないだけなのだ。見えるのは、水の壁としての布の膨らみが伝える実態に過ぎない。つまり、あのシーツのしわはおばけの皮膚であり、カーテンの膨らみはおばけの内臓なのだ。そのように捉えない限り、黒澤映画に特有の恐怖の質は理解され得ないに違いない。

 

 

 

黒沢の映像的特徴のひとつと呼べそうな“ただ風に揺れているだけで不安を煽るカーテン”は、既にTVシリーズ『学校の怪談』の一作品として作られた『〜』の中にも登場している。学校の保健室のカーテンがゆらゆらと揺れる。風に揺れているだけで不安になる映像が当時し、こっちの世界とあっちの世界をあいまいに区切る揺らぎ(つまり、われわれは、ふとした拍子にあっち側を覗き見てしまう可能性がある。これは、鍵のかかる個室から構成される西洋の住宅建築より、日本の襖に近い存在であるが、重大な相違は、それが風によって意図せずめてくれてしまうことがある、という点だろう)としてのカーテンが登場する。そのまま“向こう側の世界への回路が開く”恐怖をテーマにした『回路』では中身のある幽霊のからだがぐにゃりと折れ曲がり、強烈な逆風に襲われ思うように進めないという主人公の焦燥感を表す夢のシーン(ハンガリーの巨匠タル・ベーラの黙示録的傑作『サタンタンゴ』へのオマージュだろう)において、演じるオダギリジョーの異様にモードちっくなコートがばたばたとはためき、これまたうそみたいにオシャレな白シャツに白T(BAPEの猿やチェ・ゲバラの顔がプリントされている、恥ずかしいほどアイコニックなアイテム)を着てねり歩く高校生たちの白シャツのあのはためきにも通じ、『LOFT』や『叫び』では中身の充満した幽霊(だから中身を“吐き出せる”)が、白いワンピースを存分に風になびかせながら飛んできたりする。
つまり、黒沢清は一貫した恐怖美学を毎回異なる手法によって表現する作家なのだ。「幽霊には中身がある。シーツのしわやカーテンのひだの揺らぎはそれが遮り覆い隠すものの存在を逆説的に主張する、という点で、幽霊的な痕跡だと言える。つまり、しわやひだは幽霊の皮膚なのだ。」
このような考えのもとに捉えられているから、ただ風に揺れているだけのカーテンがあれほどこわく、不安を煽るものに感じられるのだ。

 

 

「もうここには来ないみたい」と言った瞬間バサッと崩れ落ちる花柄シーツの女幽霊は、黒沢清の『回路』で主人公の加藤晴彦を襲う幽霊、明らかに女性的な“肉体”を持った中身感溢れる幽霊の上半身がぐにゃりと折れ曲がる印象的なシーン(実際に女性ダンサーが演じている)を思い出させるが、
前者はそれまで主張していた充実した中身が突如消失すること(おばけには中身がなく、シーツを人型に固定するものらなにもなかったこと)によって喪失の切なさを演出し、後者は、向こう側の世界への回路が開いたことが漠然とした符号によって仄めかされていたところに、いきなり中身満載の幽霊が肉体性を主張することでわれわれの度肝を抜く。

 

・ジョゼフ・ロージー『できごと』へのオマージュ
主人公の事故死シーン。家の全景からカメラがパンしつつ右に回っていったら近場の木に衝突した車、割れたフロントガラス、ハンドルを握ったまま頭から血を流す主人公。なぜこんな近場の事故死を描くのか?

野生動物の保護にご協力をお願いします!当方、のらです。