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食卓作法以前の話 その2「いただきますとごちそうさま」

2006年3月 7日 (火)

 <食事時の挨拶、してますか?>

「いただきます」と「ごちそうさま」って、ふだん言いますか?

口に出して言わなくても、心の中で言ってるよ~っていう人、照れくさくてよう言わんわ、という人、思ったこともない、という人、それぞれでしょうね。

少し前に、「学校で『いただきます』を言わせるのはおかしい」ということについて、論争がありました。

実際の詳細をリアルタイムで追っていたわけではないので、不正確な部分があったらお許しいただきたいのですが、要は、こういうことでした。

ラジオ番組へ、手紙での投稿があったそうです。

<ある小学校で母親が、「学校には給食費を払っている。お金を払っているのだから、うちの子供には給食を食べる時、『いただきます』と言わせないで」と申し入れてきた。>

この手紙が紹介されると、番組へは数十通の反響があり、その多くは申し入れに否定的なものでしたが、支持するという手紙も数通あったそうです。

また、中には、「言う言わない、ということでなく、『いただきます』の時に手を合わせることは宗教的行為であり、強制するべきでないのでは」という意見もあったそうです。

こういうことが「論争」になるんだなぁ……。

この問題に関して、まずはこれが私の感想でした。

30年、40年前から、人の価値観がどんどん変わってきています。

人の価値観は、その人の家庭環境、仲間や友達の影響、その時々の世相、自分が属しているコミュニティなどでかなり左右されますから、このお母さんの価値観が、お金には有って「いただきます」に無い、それもまた、善悪でなく、単なる事実だと思うのです。

おそらく、この手紙を出されたお母さんはこう考えたのではないでしょうか。
 ・自分は「給食費」という名の「料金」を払っている。
 ・すると、そこから給料を得ている給食センターの職員が、
  「給料に対する仕事」として、給食を作る。
 ・出来た給食は、いわば「お客様」である自分の子供に出
  される。
 ・それなのに、お客様の方がへりくだったように「いただ
  きます」と言わされるのはおかしい。

この考え方は、お母さんの中ではどこにも破綻がありません。

出発点が「お金」であり、あくまでも「給食」は、その対価であるからです。

私が子供の頃に教えられたのは、
「食べるということは命をもらうこと、そして料理を作った人がいるから、美味しいものが食べられる。両方に感謝して『いただきます』を言いなさい」
ということでした。

まあ、クソガキだった私は、「お母さん」というのは料理を作ってあたりまえ、なんで感謝なんかしなけりゃならないんだ!とだいぶムカっ腹を立てた覚えがあります。
(↑これぞまさしくバチあたり)

それが、少し大きくなってくると、冬の米とぎ、白菜漬けの冷たさ、梅干作りの大変さ、毎日々々同じ時間にご飯が出来ていることのありがたさ、そんなものが少しずつわかってきて、自然と感謝するようになるのですが―。

どんなに腕の良い料理人でも、材料が無ければ料理は作れません。

材料の中には、命を奪われるものがあり、それを奪う作業をする人がいます。

長い時間と手間をかけて作られる作物があり、調味料があり、それを長距離運ぶ人がいます。

料理だけが魔法のように、ポンっ!と目の前に出てくるなんてことはありえないのです。

お金入れたら即ガシャン!て出てくる自動販売機だって、すごい手間とコストと人手がかかっているわけですからね。

「だけど、それみんな仕事でしょ?それで飯食ってるんだから、当たり前じゃない」

そうです、みんな仕事です。めいめい責任持ってがんばってい
る仕事です。

でも、当たり前のことを当たり前にし続けること、実は大変なことです。

―少しでいいので、想像力を働かせましょうよ。

何かに感謝するとは、その「何か」の向こうにあるものを見ようとする心だと思います。

しかし、それはけして強制されるべきものではありませんし、宗教問題と同列にするものでもないと思います。

「自分がこうしたから、こうだった」
「自分がこう言ったから、こうなった」

これだけで完結している人には、なかなか難しいことかもしれませんが、世の中には自分1人だけが暮らしているのではありません。

だからこそ「お互い様」という言葉があり「どうぞ」「お願いします」「ありがとう」「こちらこそ」という言葉があり、「いただきます」「ごちそうさま」もその延長にあるのだと思います。 

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