【小説】事故(あの日)

 某所で、掌編小説の公募が開催されていた。
 募集作品のテーマは、「あの日」。
 よくわからないテーマだったので、よくわからない小説を応募することにした。
 当然のごとく落選したので、ここに載せる。
 題名:「事故」


 あの日、あの日、と、つぶやきばかりこぼれ落ちる、尖った口先を眺めていれば、語られていく思い出話にも、いくらかの真実味を感じられそうだった……今では思い出話を吐き出すしか能のない、薄汚れたビール瓶に、かつてはビールが入っていて、どこかのコップに身を傾け、自分の「中身」を注ぎ込んでいたのだと、思わせるに足る有り様を、歩道の上のビール瓶は、俺に向かって、張り切ってさらけ出していたわけだ……ビールの代わりに、「思い出話」を口から吐くことで!
 「おい、若造」とビール瓶。「お前みたいに若ければ、舞台の真ん中に立てる瞬間が、人生には何度だって訪れるはずだなんて、うっかり思っちまうかもしれないが……」ビール瓶は俺を見た。「そんなに甘くはないんだぜ……俺が輝けたのはたった一日、これから長く付き合ってくれるものだと、こっちが勝手に思い込んでいた、居酒屋の大将が俺を掴んで、恰幅の良い紳士の前に、俺の身を差し出したあの瞬間、くう、今思い出してもゾクゾクするね……その一瞬が俺のこれまでで、一番良い思い出ってわけだけど、それ以降はまるでみじめ、俺の人生、あそこで止まっちまっているわけさ……ああ、あの日あの日あの日」
 なんと退屈な思い出話! 期待したこちらが馬鹿だった……しかし俺は大げさに、いかにも興味深そうに、的確な相槌を打ってみた。
 「なるほど、お気の毒ですね……貴方は信頼していた大将に、一日限りの付き合いだと、思いがけない宣告をされ、きっと傷ついているのでしょうね……」
 「そう、そうなんだよ、分かってくれるか」ビール瓶は泣き出した。「ああ大将、俺はまだまだ使えますよ、ビールをなくした後だって、別の液体を入れられます……大将があの紳士と楽しそうにおしゃべりして、話が弾めば弾むほど、みるみる俺の「中身」が減っていき……まあ、まさか空っぽになったって捨てられることはないだろうが、この会話の席からはひょっとすると外されるかも、だなんて嫌な予感をいだきつつ、さて、いざ「中身」が無くなれば、俺のことを、つまらないものを見る目つきで一瞥して、鋭い声で「何だ、空か」と言ったかと思えば、ひょいと持ち上げ、俺が何より軽蔑していた「ゴミ」どものたまり場に、俺を投げるように捨てに行き……そして……それっきりだなんて……」ビール瓶の両目から、涙の粒がこぼれ落ちた。自分だって「涙」というものに対して同じような仕打ちをしているくせに、随分、勝手な被害者意識である。
 「まあまあ、それじゃあ今から行ってみましょうよ、その大将のところに」俺はビール瓶に提案した。
 ビール瓶の表情が、露骨に明るくなった。「そ、そんなことができるのかい?」
 「ええ、多分それは向かいの店でしょう」このあたりに居酒屋は一軒だ。期待に胸を膨らませているビール瓶を持ち上げ、俺は車道を走って渡り、居酒屋に駆け込んだ。
 カウンターの向こうの大将は、客が来たかと期待する目つきで俺の方を見ると、みるみるがっかりした表情になり、「なんか御用ですか」と冷たく俺に言葉をかけた。居酒屋なんぞを利用する柄でもないことを、俺の風貌を見てすぐ察したらしい。
 「このビール瓶に、覚えはないですか」あるわけねえよと思いつつ、俺は大将に聞いてみた。
 「さあねえ、うちではいつも決められた場所にゴミは捨てていますから」
 「ゴミ! ゴミとおっしゃいましたね、この瓶を」
 「空き瓶じゃないですか……もう堪忍してくださいよ」
 俺はビール瓶を持って外に出た。ビール瓶は、よほどゴミ呼ばわりされたのがショックだったのか、ガタガタと震えながら、涙を流していた。
 「あんた、大将にとってはただのゴミらしいね」俺は、一番ビール瓶を傷つけそうな言葉を投げかけた。
 ビール瓶は、ビクリと体を震わせた。
 ビール瓶が何か否定の言葉を吐こうとした瞬間、俺は、ビール瓶を車道に向かって叩きつけた。砕け散っていく音にかき消され、ビール瓶の声はもう聞こえない。
 「あの乞食、またやりやがった!」と誰かの叫び声。
 自分がゴミだと察しながら死んでいくゴミを見ることは、いつもながら気分が良い。
 しかし、よほど自分がゴミではないと言いたかったのか、砕け散ったビール瓶の破片のひと粒ひと粒は、未だに、自分たちの上をタイヤが通るたび、執拗に呼び止めては、退屈な思い出話を聞かせようと粘るらしい。
 「大将、大将、あの日、あの日!」

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