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言語は音楽

言葉を紡いでいくとき、言葉のひとつ一つに音が生まれ発せられていく。その音の連なりが、ある種の音楽のように耳に届くときがある。

タイ語を聞く機会が多い。一時期はドラマが中心だったが、今は配信がほとんど。ライブであったりイベントだったり。
タイ語の響きが美しい。
日本語にはない発音があるそうで、なかなか習得するのは難しいようだが、繰り返し聞くことで耳から覚えられるものもあり、短いワードで覚えられた言葉がいくつかある。

それは、自国の言葉ではなかなか感じ取るのは難しい。なぜならすでに言葉は意味を持って、感覚よりも思考の方に届けられ、すぐに思考が始まるからだ。なので共通語から離れた、都道府県それぞれの方言を聴いたとき、もしかしたら音楽的要素を持った言語として、私たちの耳は反応する可能性がある。例えば青森県の方言を聞くと、まるでフランス語を聴いているようだと言う人は結構いる。

私もかくいうその一人だが、確かにフランス語を聞いているような気分になる。ただ、フランス語を学んだことも親しんだこともないので、意味は全くわからない。そういう点では、やはり言語を聞いているというよりは、音のつらなりや響きを聞いての反応なのではないだろうか。

数十年前、ベッティ&クリスというアメリカ人女性のデュエットが、「白い色は恋人の色」という曲を日本語で歌って、大ヒットしたことがあった。ハーモニーが綺麗で、柔らかく魅了されたことを記憶している。そのとき思ったのが、どうして外国の人が歌うと柔らかく聴こえるのに、日本人が歌うと同じように柔らかく聴こえないのだろうということだった。それはこの曲に限らず、日本人が歌うと、どの曲も語調がきつく聴こえる。ハングル語もどちらかといえば同じ部類に入る。
その疑問を当時の専門家のひとが、言語の違いと話しているのを聞いた。詳しい内容は忘れてしまったが、とにかくキツく聞こえる、柔らかく聞こえる違いは、その国の言語、発音の仕方に原因があるということだった。

最近聴き始めたタイ語の曲。
言葉はわからないのに、言葉の響きだけで心地よくなる。優しくまろやかな言葉が、琴線に触れて思わず涙が出ることもしばしば。メロディもイントロがしっかりあるのがいい。最近、日本では、イントロを飛ばして聴く傾向が増えたそうで、その需要に合わせるかのように、イントロがなかったり、あっても短かい曲がっ主流になってきた。イントロによって楽曲がどのようなテーマなのかをイメージできたり、逆にイントロとは雰囲気が違うテーマを持った楽曲で驚かされる楽しみがあった。本来、イントロとアウトロは楽曲と溶け合った一つのものだったはず。それが排除されてきたことがとても悲しい。なんでも短く、合理的にという風潮が音楽にまで浸透し始めたことが切ない。セカセカせず、ゆとりを持って音楽に親めたらいいのになと、ついつい思ってしまう。

タイ語は読むのも書くのも難しい。
日本語にない文字や発音があるので、読むこと、話すことを習得するのは、なかなか時間がかかりそう。もちろん聞いて理解するのも難しい。
ただ、数日前、ドラマのタイ語を聴きながら、ふと言語は音楽だと気がついた。
メロディに乗せる前に、すでに言葉の1音、1音には音がある。例えば、「あ」という言葉ひとつとっても、そこにはちゃんと音階があって、「あ」をいくつも連ねたとき、「あ」のメロディーが、Wordという短いつながりの中で、音楽が生まれている。
音楽のなかの「歌」も、言葉の1音ずつが連なって言葉となり、それがメロディに乗って音楽となる。アクセントは本来の言葉とは違うが、音楽的要素を意図して作られたものと、古来より使われてきた言葉という違いはあるものの、音の連なりによってできている点ではまったく同じだ。
そこに気づいて、もしかしたら音楽としてタイ語を聴く。そんな意識を持って聴いたら、言語として聴くより覚えやすいかもしれない。


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