日本を逆転!?世界第三位の経済大国~戦後ドイツ経済の歩みⅰ⑰
2023年も残すところあと僅かとなり、投資クラスターの間では「新しいNISA」での運用先についてのああしたこうした、ああするつもり、こうするつもりという議論が活発になってきました。
この記事を書くことになるのはあと2~3年先だろうか、できればそんな日は来ないといいけれど難しいだろう…そんな風なことを考えている内に今年その時がやってきてしまったかもしれません。
2023年に中国とインドの総人口が逆転したとされていますが、もう一つ、今後の世界経済への影響を考えるうえで外せないのが「世界第三位の経済大国」の存在です。
日本は2010年に中国に逆転されて世界第三位の経済大国となりましたが、2023年にドイツにどうも抜かれた可能性がかなり高そうです。
もし2023年の経済成長率が日独とも2022年と同じくらいで為替水準も同じくらいで推移すれば逆転といわれていましたが、ご存知の通りドイツ経済は失速し、日本経済はインフレが経済を25年続いたデフレから脱却しかけていることでそれは先延ばしされたように思えました。
しかしGDPの国際比較は米ドルに換算されるために為替相場が2023年11月後半時点で150~152円目前と年初の130円台から再び大きく円安に推移した結果、ドイツのマイナス経済成長分を打ち消して日独の経済規模は逆転したと考えられます。
もっとも新たな世界第三位の経済大国となったドイツまでもが2026年前後までの間に今度はインドに追い越されてアメリカ、中国、インドが上位となる時代は目前まで迫っています。
つまり日本はここからごぼう抜きされる宿命にあり、2050年の中長期的にはインドネシアにも追い越され、更に2075年にはパキスタンやエジプト、ブラジル、イギリス、メキシコにも次々と追い越され世界の経済規模で10位以下まで転落することが予測されています。
こうした事は「新しいNISA」での投資戦略にも少なからぬ影響を与えるのではないでしょうか。
さて、コロナ禍に入ってから日本の政府や官庁の不甲斐なさが次々に露呈して、1年遅れの開催となった東京五輪ではその体質がマスコミの劣化(通称:マスゴミ)と共に多くの人の「この国はもうダメかもしれない」という空気感を加速させたように思えます。
本記事では二度の世界大戦の戦犯として厳しい戦後を迎えたドイツ復興の歩みの序盤を解説していきます。
屈辱からの復興
第一次世界大戦の傷跡
ドイツの戦後経済を考えるうえで予め触れておかなければならないのがヨーロッパを舞台とした二度の世界大戦です。
第一次世界大戦で同盟国だったイタリアは途中離脱、オーストリア=ハンガリー帝国は解体され、中東の覇者としてキリスト教圏の東方拡大に立ち塞がったオスマン帝国も解体寸前となり、1320億金マルク…現在価値で200兆円*という多額な賠償金は最後まで存続していたドイツ一国に課せられました。
ドイツでは賠償金捻出のために貨幣を刷りまくった結果、貨幣経済*が麻痺して、1920年には3.9マルクだったタマゴ10個の値段が1923年には3兆マルク。最終的に5年で1兆倍のハイパーインフレーションを経験。
多くの国民の不満を集めた結果、民主主義選挙によって支持を集めたナチス党(国民社会主義ドイツ労働者党、NSDAP)とヒトラーが台頭し一党独裁体制の政治が始まります。
ドイツは第一次世界大戦からの復興(心を入れ替えた)を国際社会へアピールするために1936年のベルリン五輪の開催に立候補し、承認されます。
しかしその内実は戦争に向けた準備機会と国際社会へのプロパガンダでした。振り返るとナポレオン戦争によってヨーロッパに広められた一民族一国家主義という思想は、第一次世界大戦という悲劇をもたらし、隣国であるドイツに強烈なナショナリズムの教訓を植え付けました。
ナチス党は「ドイツ人はアーリア人の一民族」であり、現在のドイツが置かれている苦境は非アーリア人が原因であると喧伝しました。
更にドイツ領土内で暮らす非アーリア人(ユダヤ人や黒人など)の財産を没収するなどの政策を行い、迫害が劇化していきました。
また自分たちドイツ人の置かれている境遇などの不満をぶつけるために意図的にゲルマン人(Germanen*)ではなく曖昧な定義の「アーリア人」「非アーリア人」という言葉を用い、都合よくその時々で解釈を変えながら利用したとされ、近現代では白人至上主義に近い優性思想だったともされています。
またこうした人種差別や迫害について国際社会でも漏れ聞こえるようになっており、アメリカやイギリスなどの国々は不穏な動きを見せるベルリン五輪へ選手を送ることを躊躇っていました。
しかしヒトラーは史上稀に見る演説の上手な人物で、他民族に対する差別的な発言などを控え、ユダヤ人への迫害も緩めるなど健康診断前の女子中高生みたいなことをはじめ、緩和されたドイツの態度を見てアメリカもイギリスもベルリン五輪(1936)への参加を決意しました。
ベルリン五輪1936
国際的な信頼を失っていたドイツでは近代的なスタジアムや選手村、交通機関、ホテルの整備を行い、テレビ*やファックスなどの当時実用化しつつあった新しい技術にも積極的に研究・実用化・開発投資が行われて、海外から視察や報道のためにベルリンを訪れる外国人記者や観光客は煌びやかで近代的なドイツを見て、平和的で寛容なイメージに塗り替えられ、関心はいつしか野心などあるはずもないと思うようになります。
またそうしたアピールのために始められたものの一つが聖火リレーでした。
オリンピック誕生の地ギリシアのオリンピアからブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由してベルリンまでやって来る…これは戦争で周辺国へ進行する際の道路事情を調査する名目として始められたとされています。
こうして開かれた1936年のベルリン五輪の開会式の様子はレニー・リフェンシュタール監督によって最初にして最高のオリンピック映画と評され現在もYouTube等で観ることができます。
スタジアムの観客だけでなく各国の選手団もナチスの敬礼でおなじみのポーズを、ヒトラーに対して行う様子などが記録されています。
第二次世界大戦と終戦
そして1939年9月1日、第二次世界大戦がナチスドイツのポーランド侵攻で始まり当初はその周到な準備によって快進撃を続けました。
戦況が大きく変わったのはフランスが追い詰められ、イギリスもロンドンなどが空爆などの被害を受け、太平洋でも欧州でもナチスドイツ率いる枢軸国の領土が広範囲に広がった頃にそこまで戦火に巻き込まれる事なくしっかりと準備をしてきたアメリカが連合軍に参戦したことが挙げられます。
最終的に全世界で7500万人が亡くなり、その内の6割は民間人だったとされる史上最大の犠牲者を出した戦争が第二次世界大戦です。
ドイツは1945年4月30日、ヒトラーの自殺によって無条件降伏。
しかしヒトラーが自殺をしたという連合軍側の発表を受けて、ヒトラーの遺言に基いて後継者となった海軍上がりのデーニッツ海軍元帥(大提督)を中心とした暫定政府はドイツ北部のフレンスブルクに5月8日以降も活動を続けていました。
その後、5月23日にデーニッツのほか閣僚も全員逮捕され消滅。連合国軍は6月5日に勝利宣言し、統治権の掌握を公式に告知する前にドイツは国家として一度消滅しました。
これを受けて連合軍側はドイツを西ドイツと東ドイツに分割。更に首都ベルリンにおいても連合国での分割統治を行った結果、西ベルリンは東ドイツの中の西ドイツ領という飛び地となります。
またヒトラーの自殺とその残党による抵抗の影響は、そのすぐ後に日本に提示されたポツダム宣言における停戦。
そして1951年のサンフランシスコ平和条約による終戦という段階を踏んだ戦後処理や天皇制の存続(象徴天皇制)への移行、GHQによる間接統治にも少なくない影響を与えたとされています。
ドイツが世界大戦の中心だった理由
さて二度の世界大戦の中心にドイツがあった事の根底にあったのは、ドイツの地理的要因…つまり地政学と指摘する声もあります。
ドイツは産業革命発祥のイギリスと北海を挟んで隣接しており、中世の時代にはキリスト教の新しい宗派だったプロテスタントや時計技術などが海を渡ってかなり早い時期から輸出されたことからも文化的にも非常に密接でした。
そして今度はその逆の現象が産業革命では起こりました。つまりドイツは大陸欧州の中でも地理的にも近かったイギリスからの産業革命が早く伝播した国でした。また伝播と共にドイツに押し寄せたのは資本主義という価値観で、急速にドイツを近代化へ突き動かしました。
ポルトガル・スペインはいち早く新大陸アメリカや東南アジアなどに植民地を広げ、それを追うようにオランダ・イギリスなどもアフリカやインドなどへと植民地を広げていきました。
ドイツは長年、ギルドと都市同士の経済同盟によって構成されていた時代が長く続いていたためプロイセン公国が中核となり周辺の公国をまとめあげ国家としての体制が整ったのはヴィルヘルム1世が初代ドイツ皇帝を名乗った時からであると考えると1871年と近代に入ってからでした。
ドイツは近代化し、軍事力も高めましたが英仏など列強に周辺を固められていて、植民地支配では大きく出遅れていました。
またその一方でドイツ国内では急激な近代化によって時代に取り残される人々も生まれていました。産業革命と資本主義は持てる者と持たざる者の格差を広げ、この問題は『共産党宣言』を発表したプロイセン出身の思想家カール・マルクスが警告したことでもあります。
そして20世紀は既に石炭から石油へのエネルギーシフトが始まっていて、第一次世界大戦途中から偵察機や敵の戦闘機などを打ち落とすために空軍が各国で組織されました。石炭では飛行機を飛ばすことができません。
また戦艦を動かすにしても石油がないことには戦うことができず、アルザス・ロレーヌ地方というヨーロッパ随一の石炭と鉄鉱石の取れる地域だけでは立ち行かなくなったことも領土拡大を目指す大きな動機となったのではないでしょうか。
加えて陸地で隣接するフランスではフランス革命によって王様は処刑され、共和制を経てナポレオンの台頭による帝政が誕生し、一民族一国家主義が"民主主義"という形でプロイセン王国、後のドイツ帝国における"君主制(権威主義)"を揺るがしました。
更に東側で隣接していたロシア帝国がロシア革命を経て、世界初の社会主義国家であるソビエト連邦が誕生したことで、これらの国家に挟まれたことによってドイツという国の在り方が大きく影響されることになります。
ナチス党のやった迫害や弾圧などを決して肯定するわけではありませんが、すべてを否定しても見るべきことを見落とすことになってしまいます。
ナチス党はこうした激変の時代に置かれたドイツという国の在り方を示しました。
手工業者・小商工業者・中小農民を保護し、昔からの道徳や習慣の是正・廃止、下層中産階級の生活向上とこの層の有能な人物の大規模な登用、社会政策と福祉政策の拡充などを示し、時代の変化に乗り遅れた人々にも高度な教育を与え技術を磨き、経済の発展やドイツのヨーロッパ制覇を目指す構想が広く民衆から支持された結果として台頭しました。
しかしドーズ案をはじめとしたアメリカの復興支援でようやく第一次世界大戦の混乱から立ち直りつつあったドイツ経済を、再びどん底に陥れる出来事が起こります。1929年にアメリカ・ニューヨークで起こった世界恐慌が発生したのです。
世界各国の経済は大混乱に陥り、ドイツでも米国からの資金供給は途絶え、資金の巻き戻しが起こりました。
ドイツでは人々の不満が高まったことで政権への批判が活発になり与党が下野。ナチス党に支持が集まった要因であったことは外せないでしょう。
現在、日本人のみならず世界中から投資先としても人気の米国株式の代表指数の一つであるNYダウ工業平均は世界恐慌前の水準に回復するまで25年もかかりました。
EUはナチスのヨーロッパ制覇の影?
ナチス・ドイツは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ三度目の帝国主義として「第三帝国」と呼ばれることがあります。
こうした表現に批判をする人もいるかもしれませんが、現在のヨーロッパ連合(EU)の体制は細部にこそ違いはあるものの大まかにはナチス党の掲げた第三帝国のヨーロッパ制覇を平和的形で実現したと言えなくもありません。
下図は第二次世界大戦におけるドイツおよび枢軸国における支配域(青系)です。
そしてこちらが現在のヨーロッパ連合(EU)の加盟国です。
またEUの前身として1946年に英国首相だったウィストン・チャーチルがスイス・チューリッヒで「ヨーロッパ合衆国」構想*を提唱。
ナポレオン、ヒトラーという大陸欧州で巻き込まれたの大半は民間人だったのですから二度と戦争に無抵抗の民間人を巻き込まないために欧州は結束する必要があるというのがチャーチルの欧州復興計画には含意されているのではないでしょうか。
そして1950年5月9日にはフランス外相ロベール・シューマンが欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の創設を提唱。
エネルギー資源をいかに平和的・安定的に確保するのかは経済的結びつきであり、外交にも繋がる大きな課題である事を考えるとココが現在のEUの始まりと言えるでしょう。
先祖・隣人同士が殺し合い憎しみと悲しみの怨嗟が広がった欧州で、国境を超えるのにパスポートなく移動ができ、異文化を受け入れ、協調して復興に歩んできた欧州連合(EU)は多くの州の結束によって世界の覇権国家に駆け上がったアメリカ合衆国を理想像として目指しているのかもしれません。
現在ではECSC誕生の日をEUの出発点として「ヨーロッパ・ディ」と祝うようになっています。
振り返ると現在の世界の先進主要国において、ドイツだけが第一次、第二次世界大戦で2連敗をしています。そしてそんなどん底の底から這いあがってきた国がドイツと考えると、なんとも地力の強い国でしょうか。
日本もアメリカと「蟻と象の戦い」と呼ばれた太平洋戦争で敗戦し、その後そのアメリカに追いつかんとする経済復興、経済成長を遂げました。
戦後ドイツの歩みもまたそれととても似ている部分があります。
ここからはそれを追いかけてみたいと思います。
戦後ドイツ経済の歩み
日本人とドイツ人は似ている?
日本人とドイツ人の気質はよく似ていると指摘されます。
勤勉で実直、職人気質で、手先が器用…なるほど、確かに多くの共通点があるかもしれません。
しかしその目指している所は日本人とドイツ人では大きく異なるように思えます。
マイスター制度を採用し早い人は小学5年時から進学ではなく、職人(マイスター)を目指す。誰もがなんとなく大学へ進学するではなく、適性と手に職、国内生産力の維持と伝承を重視する教育課程を設けています。
その結果、ベンツ、フォルクスワーゲン、ダイムラー、アウディ、BMW、ポルシェ、オペル、MINI、ボッシュなどの自動車産業・関連産業も活発です。
シーメンスやブラウン、ミーレ、ケルヒャーなどの電機製品にカールツァイス、ライカなどの光学機器メーカーも何処か日本が得意とする「ものづくり」とジャンルを含めて近しいものを感じずにはいられません。
また20世紀を代表する三大建築家(巨匠)の一人、ミース・ファン・デル・ローエ。
彼が3代目校長を勤めたことでも知られるバウハウスによってモダン・デザインは本格的に体系化。
建築だけでなく、その系譜を受け継ぐドイツ製品には年月を経ても色あせることなく愛用する事が出来るプロダクトとしての完成度を高めてくれる点も大きな特徴かもしれません。
こうしたものづくりへの強いこだわりと手先の器用さ、勤勉さは戦後のドイツ経済を大きく支える原動力の核となりました。
ユダヤ人迫害、ホロコーストの教訓
その一方で第二次世界大戦におけるユダヤ人迫害・虐殺などのホロコーストの悲劇は、戦後のドイツの人々にとって強烈なトラウマを植え付けました。
選挙権を有する国民による民主主義に基づいた選挙によって選ばれたナチス党が、結果的に多くの国民からの支持を集めたことによって特定の民族を大量虐殺を是認してしまったという事実――一説には約600万人の犠牲者にのぼる――ドイツ人はこの問題と向き合うために、「多数決が必ずしも正しい結果を導くとは限らない」ことを教訓として学校教育の中で「多くの人と同じ価値観であることに警戒する」ことを徹底して学びます。
この象徴的なことの一つが小学生のうちに「デモの手順」を学ぶというものです。
また私もドイツ人のペンパル(文通相手)が学生時代にいましたが、彼女が教えてくれたドイツのことわざが非常に印象に残っています。
このことわざは戦後の左派に傾倒しかけたドイツで生まれたとされ、大勢の意見に流されるな、多数派のやることに迎合するな、自分の考えを持て、ひいては「流れに逆らえ」という意味です。
日本語のことわざには「長い物には巻かれよ」というのがありますが、このほぼ逆の意味ということになります。
決してすべてのドイツの人々に浸透しているのかと言われるとそうではないのかもしれませんが、私は戦後ドイツ人の気骨にはこの言葉、精神があることがドイツの強さになってきたことを考えずにはいられません。
またホロコーストを生き延びた欧州のユダヤ人たちは戦後、1948年にパレスチナの地にイスラエルが建国されるとその大部分が移住をしました。
しかし中には既に戦後の欧州で商売を始めたり、ドイツ人と結婚をしたり、子供が生まれていたことでドイツに留まることを選択した人達もいます。
現在も決して大人数ではない、しかし結束力を持った「強いマイノリティ」としてドイツの政治や移民政策にも少なくないシコリと影響を残しています。
つまり紛争・戦争によって祖国を追われた移民の人々の受け入れに自国経済や雇用が脅かされる危機となるとしても「NEIN(イヤだ)」と叫ぶ事はナチス党のホロコーストというトラウマを刺激して「非人道的だ」となってしまいう矛盾に囚われてしまうのです。
決してドイツも突出して高いとは思いませんが、日本と比べて選挙への関心・投票率はやはり高いと言えます。
自分たちの投票が国の方向性、将来を決めるということに日本とは全く異なる危機感と責任の大きさを知っているからこそ、ナチス党の台頭を許してしまった教訓があるからこそ、選挙の投じる一票の重みを多くの人々が理解している投票率ではないでしょうか。
マーシャル・プランによる欧州復興
さて戦後欧州の主に西側の復興を支えたのはヨーロッパ戦線によって直接の本土攻撃を受けることがなかったアメリカでした。
アメリカは1945年のブレトンウッズ体制(IMF・世界銀行体制)によって世界の基軸通貨を英ポンドからドルに切り替える合意を受け、第一次世界大戦を契機として影響力を拡大していましたが、これによって名実ともに世界の覇権国家となっていました。
また日本におけるGHQ統治下と同じく、西側欧州の復興を目指し元軍人で、当時の国務長官だったジョージ・マーシャルが提唱した「マーシャル・プラン」によって計画が支援されました。
130億ドル超という巨額の資金を投じ欧州を復興させることは米国にとって西欧という巨大な輸出市場を創出することでもあり、また軍事力を保持して戦後を迎えた社会主義の防波堤として西側諸国を機能させるための投資でもありました。
そしてこの結実として1949年にソ連の侵攻を共同自衛権を発動するために北大西洋条約機構(NATO)が結成されます。
パリ(後にブリュッセル)に本部が置かれ、ベルギー、デンマーク、フランス、アイスランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、イギリスの西欧10か国とアメリカ、カナダの全12か国が加盟しました。
鉄のカーテン
戦争によってドイツの国土は焦土となり、東西に分割。地理的に東ドイツに位置した首都ベルリンは飛び地として西側諸国(欧米)と東側諸国(ソ連)によって共同分割統治されていました。
イギリスの戦時首相だったウィストン・チャーチルは退任後、訪米をした際に次のように述べています。
この講演から東西の分断とその境界線を「鉄のカーテン」と呼ぶようになりました。
戦後の食糧不足とインフレーション
この頃、西ドイツでは復興における物資不足から強烈なインフレーションを再び経験しており、戦中から使われてきたライヒスマルク*の価値はどんどん価値を失っていました。
戦争が終わったということは同時にナチス党に反対をしたり、ユダヤ人の迫害を批難して投獄などをされていた人々、強制労働をさせられていた人々が収容所などから帰ってくることも意味しています。
ヒトラーやナチス党を熱烈に支持していた国民にとっては戦争での敗北は物資面だけでなく、自分たちが支持していたものが否定されたという精神面での打撃を受け、廃墟の中で絶望し、悲嘆にくれても、食べていかなくてはなりません。
収容所から帰ってきた人々は自分たちの主張や警告が正しかったと、こうした人々に廃墟の中で言葉を吐き、石を投げ、戦中の恨みを晴らそうとする者たちも出てきます。
多くのドイツ国民にとっては民主主義的な政治への関与は懲り懲りだという空気もあり、また今日を生きるために政治どころではないという混乱がドイツのあちこちで起こり、まとまりのない中でドイツの復興は足踏みをします。
1946年11月、当時のハンブルク市長だったM.ブラウアーは市議会で次のように演説しました。
そして1946年の冬は当時の人々が経験をしたことのない大寒波に見舞われ、暖房用燃料の不足する中で凍死する市民が150人に上ったとされています。
寒波が過ぎた1947年、ドイツではルール地域やミュンヘン、マインツなど各地で大規模な食糧デモが起こりました。
2月3日にはルール地域エッセンで1万5千人、2月6日にはオーバーハウゼンとミュールハイムでそれぞれ2万人がデモを行い、3月25日にはヴッパータールで8万人、3月31日にはハーゲンで2万5千人、クレフェルトで3万人…4月に入るとドルトムントやデュースブルク、ゲルゼンキルヘンにも波及し、ハンブルクでは労働組合の呼びかけで5月9日に12万人もの人々が抗議集会に参加したとされています。
これに対して連合軍は軍隊を投じてこれを鎮圧すると警告し社会は騒然となったこともあります。
日本の戦中戦後がそうであったようにナチス・ドイツでも食糧自給率は80%と自給自足には足りなかったことから食糧配給制度が1939年8月の開戦直前から実施されていました。
しかしこれが廃止され自由化されたのは1949年と少し先の話で、戦後のドイツはこの配給制度に少し手を加えて配給を行いました。
ナチス党の食糧配給制度は、非アーリア人が極度に差別され、社会の重荷であるとされた精神障碍者*たちが「生きるに値しない生命」として配給の対象から除外される厳しい物でした。
その一方でこうして減らした食料を必要摂取カロリーに基づき重労働者、最重労働者、病人などを区別。また妊婦や子供、青少年、乳児について特別食料切符が配布されていたとされています。
これは第一次世界大戦期にイギリスの海上封鎖や「カブラの冬」によって76万人超の餓死者が生じ、労働者によるストライキが発生。
前線の兵士を支える社会が大混乱に陥った教訓からの措置でナチスが国民が食料を失うとコントロールできなくなることを理解し巧みに人心掌握のために利用していたとも言えるかもしれません。
また1932~1933年にソ連に支配されたヨーロッパの食糧庫のウクライナでも大飢饉が発生し、ホロドモールという飢えによる大虐殺が行われたことも併記しておきたいと思います。
一般的に今日の日本人の成人に必要な接種カロリーは1800~2200kcalとされていますが、戦後ドイツの中で最も食糧事情が厳しかったフランス占領地区では成人1日につき僅か900kcal。
イギリス占領地区では1050kcal、ソ連占領地区では1080kcalと制限され、最も良かったアメリカ占領地区でも1330kcalを基準に配給がされていたとされています。
また1946年3月のハンブルクでは標準消費者1103kcal、妊婦2139kcal、3歳までの子供1041kcal、6歳までの子供1182kcal、重度労働者1714kcal、最重度労働者2264kcal、鉱山最重度労働者2864kcalを基準としていたとされています。(あくまで目標であってこの通りに摂取カロリーが得られていたかは別)
西ドイツ通貨改革とベルリン封鎖
国土が壊滅的打撃を受け、経済は事実上麻痺している上に食糧不足…それなら国外から食料を輸入したいところですが、敗戦国ドイツの通貨に信用はありません。またヨーロッパ中が戦火にさらされたことで周辺国からの輸入も乏しく、結局は連合国軍からの配給に頼らざるを得ない部分がありました。
しかしいつまでも連合軍も配給を続けることはできません。1948年に入ると西側諸国は旧通貨の価値を一旦ゼロにし、新しく発行する西ドイツマルクへの通貨改革を行って連合軍による配給から西欧諸国と同じ資本主義経済へ復興させようとしますが、ソ連率いる東ドイツ陣営はこれに反発しました。
通貨とは使われているその地域における支配力を表し、資本主義陣営である西側諸国が後ろ盾となる通貨と、計画経済の社会主義国であるソ連が支援する通貨では扱われる価値はたとえ額面が同じでも実際の買い物で購入できる量に差が生まれることが明確だからです。
西ドイツでの通貨改革が実施されるとこれに抗議する形で、ソ連は1948年6月24日に西ドイツと西ベルリンをつなぐ道路や鉄道・運河の封鎖してベルリン封鎖を行い1万2千トン/日の物資輸送が絶たれました。
更に西ベルリンは飛び地ですから、電力は全て東ドイツから供給されていました。西ベルリンにある工場や会社へ供給されていた電力も遮断、唯一の発電所は1945年の終戦直後にソ連が修理のためと称して取り壊していました。
西ベルリンは電気も殆ど使えない中で経済が麻痺していき、電気もある東ベルリンへ移り住む人々も出始めました。
ソ連のこうした動きに対して、西側諸国は空輸による支援を行いました。1年にも渡って西ベルリンの人々はこの空輸によって生活を支えられることになります。
1948~1949年にベルリンの子供たちにキャンディーやチョコレートを投下する作戦を立案した「菓子爆撃手」は、日本におけるギブミーチョコレートのような位置づけかもしれません。
また西ベルリン市民は結束しデモを行い、米英仏伊へ西ベルリンを見捨てないでほしいとベルリン市長E.ロイターが呼びかけ、国際社会へソ連のやっていることへの批判が集まります。
このデモによってソ連は西ドイツマルクの流通阻止を断念し、ソ連は西ベルリンから連合軍排除を諦め、1949年5月12日にベルリン封鎖は解除されます。
西ベルリン市民はベルリン封鎖の解除は、冷戦の終結を意味するのだと考えていました。
西側諸国の結束を促し、ベルリン解放を果たした米軍のクレイ将軍は送別式典のスピーチで瞳に涙を蓄えながら「英語でさよならは言いません。Auf Wiedersehen(また会いましょう)」と締めくくりました。
そしてこの解放された日に、後のドイツ連邦共和国初代首相となるコンラート・アデナウアーはベルリン市民に向けて演説を行いました。
戦後混乱期のベルリン封鎖という難局を民主的な力によって守り、取り戻したという自信はベルリン市民及びドイツで暮らす人々の政治参画の核心となりました。
民主主義によって自分たちは西側諸国の一員としてここから復興していくのだと、今度こそ間違えないのだと。
しかしドイツの人々が期待した雪解けの春はすぐにはやって来ませんでした。
ベルリンの壁
1949年5月23日、西部のボンを首府とする連邦共和国臨時政府が誕生し、アデナウアーはドイツ社会民主党(SPD)のシューマッハと1票差で初代首相に就任。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が誕生。
これに対して10月7日にソ連統治下でドイツ民主共和国(東ドイツ政府、首都は東ベルリン)が誕生。
また1955年に西ドイツは主権の回復を宣言し、ドイツ連邦軍を再軍備しNATOへ加入します。
その後も米ソの緊張はソ連の原爆実験成功によって再び失いかけたバランスを取ろうと、不安定な状態が続きます。
アジアでは朝鮮戦争(1950-1953)やベトナム戦争(1955-1975)などが相次いで勃発。
米ソの対立が激化し、長期化してくると東ベルリンから西ベルリンおよび西ドイツへの人口流出が後を絶たないことにしびれを切らしたソ連は1961年8月13日午前0時、突如として西ベルリンを包囲する155kmもの境界線の通行を一切禁止とし、有刺鉄線などを張り巡らし、その後巨大な壁、通称「ベルリンの壁」を建設。
この「ベルリンの壁」によって東西の行き来は通行不可となり、出稼ぎや仕事、買い物などで出かけていた多くの家族・友人・知人はこの日を境に不意に引き裂かれることになります。
壁を越えて越境しようとした人々もいましたが、警備兵に次々に射殺され200名以上が犠牲となります。「ベルリンの壁」は米ソ冷戦によるイデオロギーの対立が本格化していることを象徴していました。
そして、こうした混沌と混迷の東ドイツで牧師の父の元で育ったアンゲラ・メルケルは、物理学者を経て政治家となり、後にドイツ初の女性首相として16年もの間、東西統一後のドイツをけん引していくことになります。
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