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残 響

ある日々や来るべき日々は行き交う人々で覆い尽くされ、それに木霊する様に人々の混沌の混じった残響がビル影にポツンポツンと残っている。
その残響には、愛や幸せ、憎しみ又は妬み、絶望と言った人々の魂の叫びが住み着いている。

私達は日々残る残響を嫌程身を投じてその魂の響を耳にしながら過ごしている。
だが、世の中はクソほどな残酷な為その私達の心の響きは街を通る電車や車または鳥達の哥や歩行者信号機音によって速やかに掻き消されていく。

例えば日々の愚痴や死に対する概念をそのまま言語とさせて呟くとする。
その声は木霊としてその場には留まるが、その場を通るある物によって直ぐに掻き消されてしまう。
我々は人であり、そして地球と言う生命に属している身に過ぎない。
それ故に神と言う創世者たる者を創り出し、そしてその社会で生きる為の絶対的なルールを築き上げてしまった。
それ故にそれに沿わない人間に対して罰を与えてくるのだ。
我々は生物の一種に過ぎないそれ故にも関わらず、何故か優位に立ちたがってしまうのだ。
まるで文明を築き上げようと必死になっている猿のようでおかしくも見えてしまう。

我々人間は本当にしょうもない生き物に過ぎないのだ。

そもそも私は人間なのだろうか。

我々には夢がありそして目標がある。
それが生きる希望になっている者たちも多くいるのではないだろうか。
我々の目標や夢はそう簡単には達成出来ないようになっている。
まるで私達一人一人に適合したプログラムが恰も誕生した段階で設定されているようにだ。

私にある人はこう言う 「働きなさい」と。

しかし、おかしな事にその人は何故「働く」のかすら教えてくれないのだから困ったものだ。

そもそも何故我々人間は働かないといけないのだろうか。
そして、働かない人間に対しては 「社会不適合者だ!」「ニートだ!」なんて言う御託を並べたがる連中だっているのだ。
そもそもの話これを投げかけてくる人は「何故働くのか」考えたことがない人があまりにも多いのだ。
明確な理由もなく、社会と言う一つのコミュニティに属している一人の人間にも関わらず、何故優位に立とうとするのだろう。
それもおかしな事にこれらを投げかけてくる人に限って世界そのものを知ったかのように話しかけてくるのだから尚更笑いが込み上げてきそうにもなる。

我々は日本という1つの国に属している生物に過ぎないのだ。
日本と言うコミュニティに属しているのにも関わらず全世界そのものを見渡してきた者の様な口調で世間について語りたがる。

ハッキリ言うがそんな人に付いていくなど、自分の命を削ってまでも無理だ。
吐き気がしてしまう。

今の社会だってそうなのではないか?

我々が属している社会、その社会の中で一つのグループに属していながら、そのグループの常識に従って行動をする。
それが会社であったりもするのだ。

そもそもの話をするならば、その会社に属していながら、何も自分の主張や意見や反論すら出来ないのはまるで刑務所の様にも思えてきてしまうのだ。
それに絶対的なルールがあるのだから、強いて言うならば 宗教施設の刑務所 なのではないだろうか。

我々は人でありそして生物なのだ。
その生物たる我々の意見や主張や自由を全て食い殺してしまう権力などさっさと滅んでしまった方が良いのだ。

我々の幸せを奪っているのは自然なんかでは無い。
人々が生み出した優位に立つ者達が作り上げた 権力 そのものなのだ。

その権力そのものを撤廃したら私達は自由になってしまう。
自由になった私達はどうなってしまうのだろうか。
それを明確にしてしまったものがある。

日々私達が当たり前のように利用している SNS なのでは無いだろうか。

SNS には絶対的な権力やルールというものは存在していない。
それ故に人々は自由に言葉を交じる事が出来てしまうのだ。
それが他人を呑み込んでしまう猛毒であったりもするのではないだろうか。

SNSを見るとよく居るのではないだろうか。

そのコミュニティに属していながらにも関わらずそのコミュニティの悪い部分を指摘し、正義ぶる存在が。

彼等は自ら属するコミュニティの悪い部分を晒しあげて、その発言に肯定する信者を集めては一斉に叩いていく。
まるで宗教の様で気持ちが悪い。

そもそもの話
私達は人間であり生物の一種に過ぎない。
それにも関わらず、わざと火を立てて争いをしてしまう。
なんてしょうもない生き物なのだろうか。

SNSは面白い。
何故なら、人の心の裏まで見る事が出来てしまうからだ。
人の唯一弱点は心の裏を見られる事である。

何故なら分かっている人も多いだろうが、SNSでは自分を偽らない限り、そのコミュニティ上で息をするのは難しいのではないだろうか。

コミュニティに属している限り、そのコミュニティの人々と自分も同調しなくてはならない。
その為、自分を偽っていないとコミュニティに属するなど不可能なのではないか。

例えばそのコミュニティに属しているとしよう。
そのコミュニティのリーダー的ボス猿が世の中で言う邪道な行いをしようとしているとする。
その場合、そのコミュニティメンバーはどうするのだろうか。
私の主観が正しければ、大半のメンバーはその事に対して賛同するのではないか。

しかし、ここで問題が生じる。
それに対してあなたが反対意見を言った場合、そのボス猿とコミュニティメンバーの反応はどうするだろうか。
恐らくあなたに対して攻撃的な体制になるのではないだろうか。

その様に、コミュニティに属する事。
それは周りと仕方なく同調する以外方法は無い。

あなたも学生や会社に属しているのなら分かるのではないか?
絶対的なルールに従う。
それが気持ちが悪いと思うだろうか。
それが肯定する立場か、それとも反対的な立場が正しいとは思わない。

しかし、ここで私と同じ肯定する立場になった場合仲間外れにされたような経験があるのではないか。
実はその様な人達が人間として正しく生きているのかもしれない。

そもそもの話、我々は自分達の命を削ってまでコミュニティに属する必要等ない。

何故その様な気持ちの悪いコミュニティに命を削ってまでも属しようと思うのだろうか。

私はそれは洗脳によって行われていると思っている。
人間の大半はバカしかないからではないのか。

そもそも自分とは反対の立場に存在するコミュニティに属しているメンバーは恐ろしい事にこれが洗脳であることに気づいていない者達が多い。

そこまでして自分を犠牲にしてそのコミュニティに属するのなら死んでしまった方がマシなくらいではあるが。

仮にこの文を読み反対的な意見を汲み取った方がここのコメント欄に 「それは違うだろ!」なんてコメントが来たとしても、私はそれが正しいとも間違っているとも思わない。

そもそも絶対的な正解や不正解等この世には存在しないのだ。

それを絶対的な正解や不正解を決めつけているのは神など存在しなくても、それは宗教となんの代わりもない。

もう一度言うが。
絶対的な正解や不正解等この世には存在しない故に「これは正解だ!」や 「これは不正解だ!」なんて言う主張を繰り広げるのは限がないのではないだろうか。

この残響と言うテーマも、人々の心の響きは権力によって揉み消された後の亡骸と言うのを前提としてしている。

我々の日々発する心の叫びは全て揉み消されていく。

しかし、それは私達が行き交う道や交差点、街に亡骸としてそこに存在しているのだ。

【残響】 と言う形としてその場に留まり続けている。

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