vitae scientia

自分を生きるってなんだ?

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自分を生きるってなんだ?

最近の記事

わたしの中に全ての可能性がある

前回ヒプノセラピーを受けた直後のメモを書いた。 その後、フォローセッションというものがあって、セラピー中に私が話した内容を全てメモして時系列でまとめたものを見ながら振り返るということをした。 実はこれがすごくよかった。セラピー直後より、このセッションによって得た感覚にとても価値がるように感じた。 セラピー中はいくつものシーンがとびとびに移り変わるのだけど、それは事前に想像していたよりもぜんぜんスムーズにいかなくて、問いかけられるたびにイメージよりも思考が前に乗り出してき

    • ヒプノ終わったメモ

      今日ヒプノセッションを受けたので、忘れないうちに色々メモ。 セッションの説明や過去生の詳細を書いていると忘れそうなので、取り急ぎ気づきの部分だけ書いておきます。 私はあなたであり彼であるまず、同じ過去生のシーンに登場する別の人物がそれぞれ全てが過去の自分であると感じるのが不思議であり、面白かった。 例えばです。仮に革命の闘士リーダーのKさんとすると(いきなり中世設定!)、Kさんの仲間で彼を隣でみている存在であるEさんや、はたまたKさんに弾圧&投獄(!!)される王(か領主

      • 思い出す練習

        はじめてヒプノセラピーのセッションを受けることになり、今日はその事前カウンセリングでした。 ヒプノセラピー(hypnotherapy、催眠療法)は心理療法のひとつで、催眠状態に入って自分の内面と向き合いながら、悩みやストレスの原因を探ったり、解決の糸口を見つけたりする療法です。 ... ヒプノセラピーで催眠状態に入ると、きわめてリラックスした精神状態になり、この潜在意識にアプローチしやすくなると言われています。 事前カウンセリング当日のセッションでやることをイメージできる

        • 人助けの覚書

          今日の出来ごとを書いてみる。 私は用事があって出かけていてある建物から外に出たら、目の前でおっさんが転がっていた。前の車道に車が路上駐車されていて、その傍におっさんが地面に寝ている状態だったのだ。 「ん??」と一瞬我が目を疑った。一見すると車の修理でのために車の下に潜って作業しようとしているのかともみえたよ。 するとその人は首だけ起こしてウネウネと体を捻りながら周囲をみている??私の頭の中のはてなが出尽くしたころ、あ、倒れちゃったのかもしれない助けた方がいいかな?と考え出

        わたしの中に全ての可能性がある

          「ありのまま」だった自分の記憶

          ありのままの自分てなんだろう?って考えてる。もういろんなところからメッセージがきて「ありのまま」でいいよって言われているのに、肝心の私自身が「ありのまま」じゃ危ないっておもっているらしく、「ありのまま」ということがそもそも分からないようにされちゃってる、そんな感じがする。 ヒントは子ども時代にある? そんなこんなで、じゃあ自分は生まれてから一度も「ありのまま」だったことはないんだろうか?なんて小さいころの記憶を辿ってみる。 小さな子どもだった頃は、きっと人の目を気にすると

          「ありのまま」だった自分の記憶

          瞼の裏

          突如思い立ってどうでもいいことを綴ろうと思う。 目をつぶったとき、瞼の裏に幾何学模様がくるくるとまわって動いているのが見えるのですが、それってみんな見えるんですか?という話題。 何度か気になってググってみたことがあるのだけど、そういう情報は多くていろんな画像も載せられていて、すごく自分が見えるいくつかのパターンにピッタリな画像の人もいて、やっぱりみんな同じように見えているんだなーって思う一方で、なんでそんなふうに見えるかっていう理由についてしっかり解明されている記事がほと

          ダメな自分をまるごと受け入れる

          先週のニュースからの動揺は落ち着きつつある。もうあまり関連する記事は読まなくても大丈夫になった。過去は嘆ききったし、自分の苦しい体験も言語化することで落ち着けたみたい。 どうやったら沼の底から抜け出せるのかこれはずっと考え続けている。実際にいまも毎日がなんだかダルくて眠くて、気がつくと無為な時間を過ごしてしまっている。毎日時間がたっぷりあるように思えるのに、1日の終わりで何もできていないことに愕然とする。「明日こそ」と誓いながら毎晩眠りについて、次の日も同じ誓いを立てる日々

          ダメな自分をまるごと受け入れる

          真っ暗な沼の底から抜け出す

          先週末の衝撃的なニュースがこの数日ずっと心の中に鉛のように残っている。私は彼の特別なファンでもなく、最近の出演作だって観ていなかった。それなのに、なぜだか自分でも不思議なくらい、その事実に胸がしめつけられるくらい苦しくて悲しくて、涙が溢れて止まらなかった。 衝撃の第一報のあと、関連するニュースや追悼のメッセージなどを読み漁ってしまい、ずっと泣き続けていた。そして、何がそんなに自分に動揺を与えているのか、考えていた。 向き合えずに蓋をした未消化な悲しみ私には彼と同じ亡くなり

          真っ暗な沼の底から抜け出す

          生き方のクセ

          昨日はとある学びに出かけていて、とても充実した1日だったな。今朝はぐんと気温が下がって、予定していた砂浴はなくなったけど、友だちに会いに出かけます。 8、9日目:なかなかおいしくならない毎朝起きると今日こそおいしいんじゃないかと期待するけど、やっぱり苦マズい。 それと、今は飲むことが目的になってしまってて、飲むことで何が病気を治したいとか、飲む味わいを楽しむとか、何か大事なものがすっぽ抜けてる感じはする。 生き方のクセは小さな動作にあらわれる私はどうやら意図が強すぎるよう

          生き方のクセ

          雲が薄くなり晴れ間がのぞく

          今日は雨は降らないのかなー?明日はせっかくの晴天なのに、明日は朝から出かけてしまうので、今日のうちに少しシーツや枕カバーなどを洗濯して干しておこう。今朝は私の頭の中の雨もやんで雲も少し薄くなってきているような感じ。 7日目:軽くて飲めるやっぱり頭の中の軽やかさに比例するんかな?今日は飲めるなーって予感がしてたら、やっぱり飲める。おいしい〜っていうほどじゃないけど、まあ普通にごくごくごくと3口くらい飲んだ。 慣れてきて、できたらこんどアレで洗顔とかしてみたいんだけど、どうや

          雲が薄くなり晴れ間がのぞく

          感じて待つということ

          昨日は日中にこれを書いてさくっとアップしようと思っていたのに、移動中に書き終わらずにそのまま下書き保存されていて、けっきょく次の日にもちこされているのである。 5日目:まあまあ飲める昨日は起きた時からなんとなく「今日は軽めじゃないか」という予感があった。それは昨日寝る前にお茶をがぶがぶ飲んだからとか、そんなもんなんだけど。 実際に色もなんとなく薄めで、口を近づけた時の匂いも軽かったので、あんまり心構えなしにぐびっと一口。そのあと、ごぐ、ごく、と3口くらいスッと飲んでしまった

          感じて待つということ

          気の重い日々

          今日もとにかく筆をすすめよう。 また1日何もせずに終わってしまった。そして日付が変わろうとしているこの時間。こういうときは、今から何か1つでもやろうか、もしくはもう寝ちゃって明日朝早く起きてやろうか、なんて考える。 けどそうやって考えているうちに、けっきょく”今日”のうちにはなにもせず時間だけが経ってしまい、”明日”も朝早くは起きれず、そしてまた何もせずに終わる1日になる。そんな”今日”と”明日”で毎日がくるくると回っていくようだ。 さて、いつものやつ書きますよ。 4日

          気の重い日々

          おもむろに続き

          さて、昨日はとうとつに尿療法のことを書いてみた。 そしてそれを書いた後に私は就寝して数時間後に起床して、また、朝の習慣になりつつある、(と言ってもまだ3日目で坊主になるかならないかな岐路に立っているくらいだ)飲尿タイムを迎えたのだ。 3日目:苦いの再び今朝のは、初日の味に印象が似ていた。喉越しマズっ!って感じの苦さがあった。なんとなく理由としては、睡眠時間が短くて体がだるいことと、あとは感情面では少し思い悩んでいることがあってエネルギーが重いことだ。 面白いことに1日目

          おもむろに続き

          おもむろに記してみる

          どうしてこんなに、何もできないんだろう。 他の人と同じように私にだって1日24時間と言う時間が与えられているはずなのに、どうしていつも何もできないままその時間が過ぎていってしまうのだろう。 やりたいことはたくさんある気がするし、時計をみれば時間はたっぷりあると感じるし、だけど次に時計をみたときにはもうそのたっぷりあるように感じた時間はもうなくなっていて、そして自分が何をしていたのか分からない。。。 毎日たくさんのことが起きていて、それは外側の出来事だったりもするけど、多く

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          私はそれを知っている

          今日夕飯のときに実家から電話が掛かってきた。 最初に電話口に父が出て、挨拶だけするとなぜかすぐに母に替わった。 そして母が「もしもし」と発したその瞬間から、すでに私はそれを理解していた。”これは良くない報せだ”と。 とっさに頭をよぎったのは祖母のことだ。 老人ホームで暮らしている96歳になる祖母は、このコロナ禍でずっと家族とも面会ができなくて、きっと頭と身体も弱っちゃうよね、とみんなで心配していたので、すぐに「おばあちゃんがどうかした?」と聞いてしまった。 そして、祖母で

          私はそれを知っている