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「ありのまま」だった自分の記憶

ありのままの自分てなんだろう?って考えてる。もういろんなところからメッセージがきて「ありのまま」でいいよって言われているのに、肝心の私自身が「ありのまま」じゃ危ないっておもっているらしく、「ありのまま」ということがそもそも分からないようにされちゃってる、そんな感じがする。

ヒントは子ども時代にある?


そんなこんなで、じゃあ自分は生まれてから一度も「ありのまま」だったことはないんだろうか?なんて小さいころの記憶を辿ってみる。

小さな子どもだった頃は、きっと人の目を気にするということが辞書にないので、自分の感じたままやりたいように気持ちいいことを楽しくやっていたのだと思う。
だけど、何かの拍子にそれが「いけないこと」「恥ずかしいこと」だって(誤って)ラーニングしちゃうんだけど、それは思ったよりもけっこう早い時期にやってきて、まだ文字も書けないし言葉もうまくしゃべれないようなほんの小さい時期に、何かわけもわからず「あ、これはダメなんだ」って感じてしまう体験があるんだろうな。

野ションさいこ~!の記憶

私の場合は、思い出したのがこんなエピソード。
何歳だろう?3歳か、4歳か、5歳か、埼玉の生家に住んでいたころだったのでそのくらいの年齢だと思う。当時はおじいちゃんの工場の隣にたてた平屋に私たち一家は住んでいて、田舎だったのでお隣さんとは玄関同士が並んでいるというより、隣の敷地が始まるラインはあるけど畑があって、人が住んでいる建物は遠く向こう、みたいな隣家との距離がすごくある閑散とした雰囲気だった。

そんな家だったので、子どもだった私は玄関から軒先、庭と、だいぶ自由に動き回っていつも探検して楽しく遊んでいた記憶があるんだけど(日中1人だったみたいだから兄はもう幼稚園にいっていたんだと思う)、あるとき玄関から庭に続く道の傍らの芝生でおしっこをすることを覚えたのだった。
いわゆる野ションというやつである。

きっかけはたぶん、外で遊んでいる時にトイレに行きたくなってもいちいち部屋に上がってトイレにいくのが面倒だったのだと思う。それにおうちのトイレはなんだか一人ぼっちになる空間で好きじゃなかった。こわかったのかな。
だから野ションは最高だった。したいときにいつでもすぐおしっこができる!明るくて広くてのびのびとできる!なんだか開放感があって気持ちいい!そんな感じだったと思う。

これは恥ずかしいこと?!

私なりのルールがあって、いつも芝生のここの部分でする、と自分なりに野営トイレの場所を決めていたようだ。どのくらいの期間そこでしてたんだろう?それが数日間なのか1ヶ月なのか、何ヶ月もしていたのかは全く記憶がないのだけど、、、だけど芝生の色が変わっていたのは覚えている。周りの芝は緑色なのに、ソコだけ枯れた茶色の芝だった映像が鮮明に記憶に残っている。

あるとき、近所の子ども?か大人か?誰だか忘れたけどその変色した芝をみつけて「なんでここだけ色がちがうのー?」って聞いたのだった。私は、なぜかそのとき、そのことは聞かれたくなかったと思った。それで、同じことを聞かれた母が、ちょっと恥ずかしそうにさてどうしようかしらぁ〜?というふうに困りながら、何かを答えていた気がする。なんて答えていたのかも覚えていないけど、その時強烈に「ヤダ!恥ずかしい!」っていうような感情を自分が感じた気がする。
そしてそれをきっかけにその野ションの習慣は終了したのだった。(たしか)

恥の概念はどこから生まれる?

このことを思い出しながら書いてて考えるのが、当時の私はもともと野ションが恥ずかしいことだったと認識していたのだろうか?ということ。
いちおうひと目を気にしていたような気もする。。。だけど冒頭に書いたとおり隣近所も人の気配が遠いような田舎だったから、誰かに見られてしまう心配がほとんどなかったので、特別にコソコソしていた記憶はない。

たぶん母はたしなめてはいたとは思う。「そんなところでおしっこしたら恥ずかしいわよ」とかなんとか。男子だったらまだ違うのかもしれないけど「女の子なんだから」とかも言われてたのかな?なんとなくそんなことを言われながらも、別にいいじゃーんて思って続けていた感覚は覚えている。

当時はけっして「いけないことを思いっきりやっちゃう開放感」とか野ションプレイのような「コソコソとやる背徳感や罪悪感」という大人的な感覚はなかったんだと思うの。たんに「気持ちいい!」「楽しい!」みたいなんだった気がする。

プロセスではなくその瞬間に世界が変わる


だけど人がきて芝生の色を指摘されたときに、なんだか急に世界がギューッと小さく縮んでせまってきたような、そして「知られたくない!」とか「言いたくない!」という感覚が突然生まれたのかもしれない。

ちょっと不思議なかんじ。そのことに対してイケないこととか恥ずかしいことっていう概念がなければ芝生の色を指摘されても「私そこでおしっこしてるの〜」って話せるはずなのに、実際はそうではなかったわけで。
なんとなく、指摘されてその芝生の色をみて、芝がまあ枯れちゃってるわけで死んでるんだよね、その映像だったり、聞いてくる人の好奇心のエネルギーだったり、お母さんの困った反応だったり、なにかそういう情報を受け取って一気に私の辞書に「恥」や「罪悪感」という言葉が書き込まれて、その瞬間にそれを知っている私になったような、そういうものなのかも。

さて、最初のテーマと少しずれてきちゃった気がするけど、、、
私にとって思い出される「ありのまま」の自分を表現して出していいる体験というのはあの野ションに何の罪悪感も何の恥じらいもなく楽しい習慣としてしていたあの時かもしれないなーなんて。そして恥や罪悪感は何かの経験を通してその概念を獲得していくのかと思ったけど、もしかしたら私たち人間の中にはその種はもともと埋められていて、何かのスイッチを押されると発芽するように最初から仕込まれているのかもしれないなぁなんて。アダムとイブが知恵の実を食べたときからの宿命ってか?

あ、んで結論を忘れてたけど、、、
「ありのまま」じゃ怖いよーっていってる私の中の子はこの子はその1人だろうなーて思う。あの芝生が見つかったとき、怖かったんだよね。隠さなきゃ!って思ったんだよね。もう世界は安全だよ、よしよし。と言ってあげる。


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