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自称京都好きの語る吉田

明石で生まれ、神戸・塩屋で育ったその次は、大学進学で京都・吉田へ。
ついに親元を離れて一人暮らしを始めたのだ。

明石、塩屋との位置関係はこの地図のとおり。

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神戸と京都はJRでも阪急でも直通しているので、通えないことはない。
でも親からは当然のように一人暮らしするよう言われていたし、兄も同じ大学でそうしたので、何の迷いもなく一人暮らしを始めた。

部屋を借りた吉田は、塀を乗り越えたら数分で大学構内に入れる地で、実際、通う時には塀を乗り越え、生け垣をくぐった。
3回生の実験は朝から夕方までぶっ通しだが、昼休憩で下宿に戻り、焼きそばを作ってビールとともに楽しんでも時間的には余裕だった。

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吉田の地は、雅俗が入り乱れる異様な地だ。
吉田山があり、吉田神社が鎮座する。
鬱蒼と茂る木々が霊験を感じさせるパワースポット。

『徒然草』を著した吉田兼好は、長らくこの吉田神社の神官とされてきたが、どうやらまったく無関係のよう。
兼好から200年を経た戦国時代、吉田神道を興した吉田兼倶という怪しげな人物が自らの権威を高めるため、兼好を先祖と捏造したのが真実らしい。
この兼倶、うまく朝廷・幕府に取り入って吉田神社の格を上げることに成功し、江戸期には吉田神社は伊勢神宮を超えて日本一の座にまで登りつめた。
あぁ、新興宗教チック、なんとも俗っぽい。

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しかし、吉田はそもそも由緒ある地。
平安京の鬼門にあたる地なのだ。

陰陽道や風水をたしなむ人ならよくご存じだろうが、北東の方角を鬼門といい、鬼(邪気)が入り込む不吉な方角とされている。
平安京を造営するにあたっては、鬼が入り込むことは避けねばならない。
そこで平城京の春日大社から神を迎え、鬼門を封じたのが吉田神社なのだ。
さらに北東の延暦寺との二段構えで鬼門を封じる徹底ぶり。
ちなみに春日大社も平城京の北東にあり、奈良の都を守った。

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平安京から800年の時を経て、おそらく吉田兼倶はそんな神威に目をつけ、吉田神社を自らの権勢の道具に使ったのだろう。

さて鬼といえば、牛の角に虎のパンツの出で立ち。
なぜ? それは鬼門の向きを考えればすぐ分かる。
昔、方角は干支で表した。
北が子、東が卯…だから、北東は丑と寅の間。
そこから侵入してくる鬼は牛の角を持ち、虎のパンツをはいていると考えられたのだ。

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吉田神社はこうして平安京の鬼門を塞ぎ、都を鎮護する神社として栄えた。
鬼を追い払う役割を担ってきたからか、平安の宮中で行われていた儀式を復活させたという節分行事はとくに盛ん。
境内に屋台が並び、年越しそばを食べて一年の息災を願う。

そんな雅と俗が交錯する吉田の地で、ひっそりと大学4年間を過ごした。
毎日、吉田山の冷涼で霊妙な風に背筋をゾクゾクさせながら。

(2021/8/9記)

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