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給料はどこへ?シューマンを弾いて忘れよう

私たちの仕事はどんどん忙しくなっていった。今週はパリからナタリー・シュトゥッツマンがマタイ受難曲を歌うためにやって来て、来週からはあのドミンゴとのレコーディングだ、というふうに休む暇もなかった。個人的には、イタリアの現代音楽の作曲家として有名なルチアーノ・べリオ本人がふらっとやって来て、自身の70年代の名作の数々を指揮したリハーサルの高揚感を今も忘れることができないほどだ。ただそんな表向きの華々しさとは真逆に、オーケストラのメンバーの給料がひと月も遅れるようになっていた。そして休みはほぼなかった。それでも私たちは楽器を抱え、毎朝疲れた面持ちでリハーサルに行った。ある夜のコンサートが終わってアパートに戻ると疲労でそのまま眠ってしまったのだろう、目覚めると私はまだ黒いコンサート用の服を着ていた。朝は朝で、譜面台の上では折り目一つない真新しい譜面が私たちを待ち構えていた。ある日のリハーサルの直前、クラリネットのダニエルが立ち上がり、私たちの裕福でカリスマたっぷりのマエストロ(指揮者)にこの現状を訴えた。するといつものように爽やかな笑顔で指揮棒とシューマンのシンフォニーの総譜を持って現れたマエストロは、少し笑みを曇らせながらこう言った。「諸君。君たちの状況を遺憾に思うが、その件が一刻も早く解決することを僕は願うのみだ。でも今朝は僕たちの手の中にあの偉大なシューマンの音楽があるのだから!」と言って総譜を開いた。誰も、それ以上何も言わなかった。ただ一つはっきりしていたのは、私たちの心の中にシューマンが入り込む余裕がなかったという事だけだ。

少しづつ、外国籍のメンバーたちがオーケストラを去り始めた。スロヴァキア人のホルン奏者、ドイツ人とハンガリー人のヴィオラ奏者、オーストリア人のコントラバス奏者など、ドイツ語が堪能なグループが次々に辞めていった。私は外国人としてとても寂しい気持ちで彼らを見送った。そして2年後にはほぼイタリア人とアルバニア人ばかりのオーケストラになった。   

私たちは相変わらずカティアの家に集まって、パスタだけの簡単な夕食会を続けていた。こんな集まりであれば、ギリギリになって誰かが参加したいとなってもパスタをもう一人分だけ余計に茹でるだけなので簡単なのである。これは皆にとっておそらく経済的にも助かる方法だった。この家の食卓は賑やかだ。はじめは2~3人くらいでキッチンに立つのだが、途中から誰が呼び鈴を押すかわからない楽しさがある。近くにいるとか、やっぱり行くことにするだとかで電話がかかってくる。そのうちに友達の友達もやって来て、という具合に知らない人が混じって食事をしたり、一杯飲むだけで帰って行ったりするが誰も嫌な顔一つしない。テーブルについたら気の利いたことを話す必要もない。皆思い思いにリラックスした時間を過ごし、聞き役に徹する人もいる(外国人の私の方がむしろ「言語」としてのイタリア語を話さなければという強迫観念みたいなものに駆られていたかもしれない)。

そういう静かな「聴き手」たちは、大抵こちらが気付かないうちに食事を済ませ、あとはにこにこしながら周りの人たちの話を楽しそうに聞いている。 私が長い外国生活を通して常に直面した、自分の限界あるボキャブラリーの中だけで多くの言いたいことを表現しなければならないという不自由さは、言いたいことが多ければ多いほど疲れと敗北感を伴う。でもそんなときに決まって目に飛び込んでくるのは「一言も発しない聴き手」の穏やかな表情だった。彼らのゆったりと落ち着いた態度を見る度に、勝手に強迫観念に駆られて喋ろうとしている自分が恥ずかしくなった。そして、いつか私も彼らのように話し手を励ますように、皆の話を静かに、楽しそうに聴けるようになりたいといつも思った。

季節は巡り、私の中にもこの不安定で先の見えない忙しさだけに埋没していく日常から抜け出したいという抑えきれない衝動が芽生えていた。より良い条件のもと、自分の音楽的価値観を安心して分かち合えるオーケストラがどこかにあるはずだと信じていたのである。

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