見出し画像

現代の怪談「タワマン文学」を読んでみた。

「この部屋から東京タワーは永遠に見えない」

普段ならあまり手に取らない種類の本かもしれない。理由はわからないけれど、日本のいわゆる常識とか共通の認識みたいなものには若い頃から苦手意識が強い傾向にある私は、ある種の作品を避けてきたところがある(後にこの作品がタワマン文学という謎のジャンルに分類されるということを知った)。
昔から、何かと「常識」を振り回したがる日本の老若男女と話す度に自分の可能性が狭められたような、下敷きを頭にこすり付けられたような不愉快さを感じ、「そんな事偉そうに言うけど、そんな観念は一歩日本の外に出てみたらゴミクズみたいなもんなんじゃないの?」と心の中で毒づいていた私は、20歳そこそこで日本を飛び出しヨーロッパのいくつかの都市を転々としたのちに、20年近くもパリに住み着いてしまった。
今日の私はヨーロッパが何もかも正しいと言うつもりは毛頭ない。
むしろその逆で、年を取れば取るほど日本人の民度の高さが恋しくなる場面に遭遇するようになる。

そのくらい、互いに一つの規範や価値観を共有し合っている日本のような社会はどこか非現実的なまでにレアだし、そこにはある種の家族的とも言うべき居心地の良さが漂っている。
それでもやはり、国民レヴェルでお互いに干渉し合う窮屈な社会であることも確かで、様々な場面で見せかけの自由主義国家であることを感じざるを得ないのが我が日本なのである。

そんなある日、パリでいつものようにKindle本を検索しているとこの奇妙なタイトルの本に出逢った。著者の名前を見るとこれもまた「麻布競馬場」という意味不明な著者名。しかもキャッチフレーズは
「Twitterで凄まじい反響を呼んだ、虚無と諦念のショートストーリー集」。
好奇心に駆られた私は迷わずサンプルをダウンロードし、20話ほどのショート・ストーリーが収められているこの本のうち、一番初めのエピソードを読んでみるとそれがヘンな感じに面白かった。
「3年4組のみんなへ」で始まる最初のエピソードは、30歳になりたての「若い」 高校の先生が、今年卒業する教え子たちに向かって、自分のこれまでの敗北の人生(とはいえ30歳だからたった10年かそこらの敗北の歴史だが)をバカ正直に語っている様子が、どこかみぞおちの辺りをくすぐられるように新鮮で、へえ。こんなふうに子ども達を励ます方法もあるのだなと妙に感心してしまった。

だが全エピソードをほぼ順番に読み進めていくうちに何やらじわじわと、本書に通奏低音のように流れる毒気にやられ始めたというのか、薄ら寒いような気分に苛まれていく自分に気付いた(ちょうどその時風邪をこじらせ熱があったせいかもしれないが?)。
自虐の中にサディスティックな爽快感が垣間見える文章がこの本の最大の魅力だ。でも養殖の魚みたいに不自由な主人公達の考え方や感じ方は、それぞれの立場は違えど互いに互いを写し合う鏡のようでもあり、その土台となる価値観は100パーセント日本的(日本でしか通用しない)カルチャーの上に形成されている点がうっすらと不気味で、私はまるで外国人を眺めるようにこれら登場人物たちを眺めた。それに「タワマン」くらいならまだいいが、当たり前のように降ってくる簡略化された名詞の数々は、巨大な浦島タロウである私からすると完全に外国語なので、いちいちwikiの助けを借りなければならなかった事には辟易した。

広い海に出たことのない魚であるところの彼ら(養殖の青年たち)は、日本という国の価値観があたかもこの世で唯一の、彼らに影響を及ぼしうる価値観と信じて日々を生きている。彼らがぼんやりと抱く幸せはこういうものだという漠然としたイメージの裏にはなんの熟考されたアイディアも実体もなく、そのイメージですら実は企業をはじめとする資本主義社会が長年彼らの脳裏に刷り込んできたものに過ぎない。
つまりおびただしい数の商品が象徴する都会の生活の格差とそのはっきりとしたイメージ。

ある種のステイタスとされる住所とか商品を手に入れること、もしくは「それらを手に入れられる環境を手に入れること」が多くの若者たちに課せられた課題であり、分かりやすい幸せの定義のようでもある。そして少なくともそうした幻想は裏で人々を操り、社会を動かす原動力になっているという現実。

でもほんとうは彼らが、大量生産できるこれらの商品と全く同じように、彼ら自身も商品コードを埋め込まれて大量生産された若者たちだということに気づいていないところに真の恐ろしさがあるように思う。
彼らの苦しみ、彼らの葛藤、彼らの戦い、そして勝ち取るべき彼らの幸せ。そのすべてがちいさな社会、ちいさな価値観の中で終始している。というふうに私からは見えるのだ。とは言えこのちいさな社会こそが毎日の彼らの戦場であり現実であることも確かだ。でもいったい何がこの若者たちをここまで卑屈にし、人間としての可能性を縮めたのだろうか?

意味もなく厳しい校則と極端な拝金主義的社会の中で育ち、人としての本質を問う力を十分に養うことができなかった若者たちと、その受け皿として機能するこれまた「異端を嫌う」社会。
その2つの要素が都合好く機能したおかげか、今日の日本社会は人間としては極めて「歪」だけれど自ら枠組みにこぢんまりと収まろうとするアンドロイドでいっぱいになった。
そういう意味でもこの作品は、一度は世界のトップに躍り出た資本主義国家の成れの果てとも言える現代日本社会が生み出した怪談話、或いは今となっては脱ぎ捨てるしかない旧体制へのレクイエム(鎮魂歌)と言えるのかもしれない。
それからふと、いつかこの作品のパリ·バージョン「この部屋からエッフェル塔は永遠に見えない」 を書いてみたいなんていう野心が心をよぎり、ひとり微笑した。








 



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?