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【創作短編】夕暮れの道

仕事帰り、夕暮れの住宅街。昼間大活躍している太陽が身を潜め、橙と紫と紺と黒が混じる薄暗い空。住宅から漏れ出てくる、肉があまり煮えていない肉じゃがの匂い。それら全てを独り占めしながら歩くこの時間が、僕は好きだ。どんなに仕事でくたくたになっていようと、この道が癒してくれる。そう感じられるから。その先に繋がるものはもちろんワンルームのアパートではあるが、僕はそれだけで満ち足りた。周りは結婚だ何だと恋愛に勤しんでいる様子だが、僕はあまり興味がない。

何よりの癒しは、家から数百メートル離れた家から聴こえるピアノの音色だった。数か月前から聴こえるようになった音で、最初は鍵盤をなぞるだけだった音が、次第に聴き慣れた曲を奏でるようになっていった。その成長過程を見届け、否、聴き届けることが今の僕の日課だった。

今日も僕はその道を歩く。太陽の力の劣勢を感じさせる空の色、ルーを入れる前のカレーの具の匂い、それらを全身に浴びながら歩く。家のそばに辿り着くと、上達していくピアノの音色を聴く。

だが今日は一人ではなかった。見慣れない女性が歩いている。方向的に僕と同じアパートかもしれない。一人にさせろよと若干いら立ちを覚えたそのときだった。彼女は、ピアノの音色に完全に聴き惚れていた。伏せた目が際立たせる長い睫毛、紅潮した頬、作り物のように綺麗な桃色をした唇。女性をこんなにまじまじと見たことはなかった。こんなことが自分にあるとは思いもしなかった。僕は彼女に一目惚れしていたのだ。

ここで声を掛けるべきだったのかもしれないが、僕は声を掛けられなかった。なんせ女性とまともに話したことはなかったし、誰もいない夕暮れの道で男から声をかけられるなんて、女性としては気持ち悪いだろう。もやもやと家路を辿る。そしてアパートの部屋につく。初恋、それも一目惚れ、彼女の姿形、ピアノの音色、全てに思いを馳せながら眠りに就いた。こんなに心中が温かくて、でも苦しい。こんなに相反する感情を同時に抱いたことは、人生で初めてだった。

翌日もまた、いつもと同じ道を同じ時間に歩く。太陽の力はすっかり弱まり秋の訪れを感じさせる空気。中華麺を茹でる音やその汁の匂い、恐らく冷やし中華だろう。そして、ピアノの音色。今日も僕は一人ではない。今日も彼女がいたから。大げさかもしれないが、僕はこれを運命だと信じることにした。昨日抱いた相反する気持ちを共感してくれるかのような空と匂い、そして徐々に盛り上がうピアノ。それら全てが僕を勇気づけた。

「あの」
なんてありきたりな話の切り出し方。我ながら驚いた。彼女は若干表情を強張らせつつも振り返る。
「ピアノ、お好きなんですか」
そして彼女の唇がゆっくり動いた。
「ううん、ピアノの音色を通して想像できる、演奏者が好きなんです」
僕は驚いた。演奏者にまで考えを巡らせたことはなかったから。彼女はこう続ける。
「この子、心の底からピアノを弾くことに楽しみを覚えているように感じません?私にとっての最大の幸福はピアノを弾くことです!って全世界に宣言するかのよう」
「とても素敵な発想だと思います。僕は単に、この子のピアノの腕前がどんどん上達する様子を眺めているのが楽しくて」
「そうなんだ。私つい最近引っ越してきたから成長過程について考えることがなかった」
「ですよね。僕この誰もいない道が好きで、毎日歩いてるからあなたを見てびっくりしましたもん。人がいる!って。空の色とか、空気感とか、夕食の匂いとか、この子のピアノとか、全部が、好きで、それで、あなたがその一部を、楽しそうに、美しい顔で、見てたから、あなたも、好きで」
僕は話していて驚いた。誰にも言っていなかったこの道の話に続いて、彼女に想いまで伝えている。彼女は僕を真剣な眼差しで見つめ、やがて再び彼女の唇が動いた。
「こんなにまっすぐに、私の考え方を肯定してもらえたの、初めて。うれしい」
こうして、僕たちは交際を始めた。

彼女は大学院生だった。歳は僕と同じ。驚くことに、アパートの部屋が隣だった。僕の仕事が終わり、彼女と歩く道。同じ時間ではあるが秋が深まったゆえ橙の勢力は完全に沈んだ。紫がかった紺と黒の世界。シチューの匂い、そして切ない音色を奏でる鍵盤。彼女は付き合った当初は表情が堅かったものの、次第に綻ばせていった。堅く閉じていた蕾が、震えながら開く様を彷彿とさせた。
「この道の話をしたの、あなたが初めてだよ。僕の周りの人には否定されそうだったから言わなかった」
「僕の周りの人って言っちゃだめ。あなたの周りの人の一員に、あなたのことを誰よりも肯定しているあたしがいるんだから」
彼女の強気で肯定的な思考に、僕の冷え切った心は溶けゆく。発言は強気でありながら、花のような儚さを帯びた表情をする彼女を、僕はもっと知りたいと思った。

季節はすっかり冬。夕暮れと言えど紫や紺の主張も弱まるどころか完全になくなり、空は黒とまばゆく輝く数多の光に満ちていた。風は冷たくとも、住宅から香る鶏の照り焼きやチョコレートの甘い匂いや、楽しそうに跳ねるピアノの音色。寂しさなどどこにもない。それどころか横で僕と指を絡める彼女のおかげも相まって、安心感さえもある。

今日は僕の部屋でささやかにイエスキリストの生誕を祝った。スーパーで買ったまるまると太った鶏肉とケーキを食べ、シャンパンを飲む。互いにまどろみながらベットに入る。僕は電気を消した。

少し酔った彼女は僕にすり寄る。熱く紅い唇が、僕の唇から首筋を這う。少し驚いた。そんなに切ない接吻をされたことがなかったからだ。僕は彼女の頬を撫でながらどうしたのと尋ねる。彼女は僕の喉仏辺りに顔を埋め話し出す。
「あたしは人と一緒にいると弱くて何もできない人間だった。いつも誰かの調子に自分の調子を合わせて、適度にノリの良い、むしろ元気すぎるくらいに見せてた。あなたに出会うまで、それが自分の素だと思ってた。違った。あなたといると自分の思ってることが素直に言える。あなたといると、見かけだと大人しい方かもしれないけど、心は常に上機嫌で、お腹の底から息が吸えるように思えるの。そんな人は、後にも先にもあなただけだと思う。」
僕はそれを、彼女のシャンプーの香りと濡れ行く自分のスウェットの襟元の思いを馳せながら聞いていた。
「僕はあなたのことが全部好きだよ。自分の調子を相手に合わせられるなんてなかなかにできないことだ。あなたのその元気に救われる人はたくさんいるし、僕もその一人。でも、僕の前だけではお腹の底から息が吸えるって言葉。僕は今までのあなたの言葉の中で一番救われた。あなたが初めてそう感じることができる相手が僕だったこと、僕に最大限の信頼を置いていること、全てがうれしい。あなたに出会えて良かった。有難う」
彼女の頭が上下に揺れる。僕はそんな彼女を抱きしめる。そして僕たちはそのまま、眠りに就いた。

あれから数年が経った。今でも僕は、夕暮れの道が好きだ。水色と薄橙が混じった空の下、たけのこご飯の匂いやでたらめな鍵盤の音に思いを馳せながら歩く道が。

ドアノブを捻ると彼女がおかえりと笑う。
「夕のピアノ外まで聴こえてた?あの子今日一日中ピアノ弾いてたの」
「うん。あとあなたの作ったたけのこご飯の匂いもしたよ」
「さすが。今日はたけのこご飯よ」
「ふふ。楽しみだ」

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