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【創作短編】煌めきは消えない

時計の短針が、11に辿り着いた。数年前に大流行したコロナウイルスのおかげで定着したリモートワークを終え、入浴と夕食を適当に済ませた私は、夏のぬるい夜風と扇風機がもたらす人工的な風に揺られながら缶ビールをあおる。ゆらゆらと口に届くビールを飲んでいると、夏の夜の思い出に心まで震わせる。人生で最も濃密に感じた、彼と過ごす夏の夜に。

二十歳の夏の私は、お酒を嗜むどころか浴びるように飲んでいた。それは当時の好きな人との二人での居酒屋でも同様。遠くの大学に通っていた彼が帰省してそのまま居酒屋で最初の乾杯をし、そのまま二件目、駅の電車待ちの時間にも飲んだ。三月生まれの私が二十歳になって半年が経ち、生ビールの美味しさに気付き始めていたころだった。

ジョッキのビールを飲んでいて、いつも思っていたことがあった。ビールの泡は、他の泡よりも消えるまでの時間が長いうえ、全ての泡が消えることはない。この時間も、ビールの泡のあの煌めきのように全て消え去ってしまうのではなく、少しでも跡が残ればいいのに。ついそう願ってしまった。

最寄り駅に到着し、私たちは歩き始める。家まで送ってくれる彼にばれないように、私は一番遠回りの道に誘導した。私は彼に、どこか儚いものを感じていたからだ。彼とのLINEが終わるたび、彼との話題が尽きるたび、そして彼と別れるたび、永遠の別れではという莫大な不安に駆られた。酔いも回っていたし、次に会うのはいつか分からないし、なるべく楽しく別れたかった。

道の途中で私が大好きな道、つまり私の小学校時代の通学路に差し掛かると、思わずおんぶをねだった。彼は私に応え、背中に乗るよう促す。私は彼の背中に乗る。私はあの煌めきのみならず、彼の細身ながらも男性らしさを感じる背中に、柔軟剤や彼本来が持つものが混ざった匂いに、彼のもたらす全てに酔いしれた。その最中、私がもたらす会話史上最もくだらない話を展開した。話題が尽きて、彼と会えなくなるのは嫌だから。そう思った私の心は痛む。それを癒すかのように、夏の夜風のぬるさと彼の背中の温かさで、私の心身は温まる。永遠にこの時間が続けば良いのにと、私は強く願った。強く強く願った。

それでも家に辿り着く。私は彼から降りた。考えてみたら長い時間おぶられていた。重かったはずだ。普段の私は人に対して常に「申し訳ない」と思って生きている。だが彼と煌めきの魔法にかけられていた私は、そんなことさえも忘れられていた。刹那、孤独と不安と寂しさが私を襲った。顔の奥から何かがこみ上げる。涙だ。目に力を入れる。しかし私の心中は感情で飽和状態。ついさっきまで温まっていた心は即座に冷え、痛みを思い出した。私は彼にこう言った。
「二度と会えなくなる気がして怖い」
私がずっと彼に抱いていたことを吐露した。彼の口が開く。
「LINEはずっとしてるし、そんなことはないよ。今度は僕のところに会いにおいで」
その日はそこで別れた。玄関の扉を開けたときふと足元を見ると、雨なんて降っていなかったのに、黒い水玉ができていた。

あれから数年が経った。今彼が何をしているかなんて知りもしない。あのとき、私ばかり話し、私ばかり心を痛め、私ばかり夢中になっていたなと、振り返って思う。

一人で飲む缶ビールは良い。煌めきを見なくて済むから。乾杯をして缶を揺らし、煌めきを見なくてに済むから。あのときの思い出を、振り返らなくて済むから。

分かっている。それがただの強がりだと分かっている。本当は強く願っている。また彼と乾杯をすることを。彼の元へ行って、ジョッキになみなみと注がれ、たくさんの煌めきの乗ったビールを飲むことを。煌めきは消えないと彼に伝えることを。

明日は久々の出勤日だ。また乾杯できる日のことを思いながら、今日は眠りにつこう。

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