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聖フランチェスコ大聖堂とフランチェスコのこと

YouTubueのWalking Tour映像に合わせたアッシジのお散歩ツアー。
(5)からだいぶ間が空いてしまいました。

「アッシジお散歩ツアー」の投稿は、YouTubeのWalking Tourという映像に沿って、旧市街のポイントを簡単にご紹介しています。前回は、サン・ルフィーノ聖堂と聖キアーラの生家について書いてみました。

この後、映像は私があまりよく知らない町の上部に上がっていき、ふたたびコムーネ広場に戻って、そこから行きとは違う道を通って聖フランチェスコ大聖堂に戻って行きます。

1時間51分くらいから、道の先に大聖堂のファサードが見えてきます。
道を抜けて、視界がふわっと広がり、真っ青な空の下に聖フランチェスコ大聖堂が建っている光景が大好きです。よろしければ見てみてくださいね。

*聖フランチェスコ大聖堂

そして最後に聖フランチェスコ大聖堂のことを書こうと思っていたのですが、ここでどうしても手が止まってしまいました。
この建物のことを説明しようとすると、修道会の歴史にも触れないといけないだろうと思い、なかなかまとめる気力が足りなかったのでした。

ガイドブック的にこの大聖堂を説明すると・・・
上部聖堂、下部聖堂の二層になっていて、地下に聖人の墓所、うしろに大きな修道院があります。
上部には有名なジョットー作といわれる聖フランチェスコの生涯の28枚連作壁画があります。

バジリカ

聖堂内は確か撮影ができないので、昔もらった古いパンフレットの写真をスキャンしています。
左右両側に並んでいる、ジョットー作といわれている連作壁画は、研究者によればジョットー作は一部で、他は弟子や協力者の手になると言われています。

バジリカ2

下部聖堂の部分写真。こちらも、チマブーエ、シモーネ・マルティーニ、ピエトロ・ロレンツェッティなどそうそうたる顔ぶれの画家たちの壁画があります。

トンバ

地下墓室。正面の上部にフランチェスコの棺があります。周りには、初期の仲間のうちの5人の墓が取り囲むように壁に埋め込まれています。

トンバ2

初めて観光でアッシジに来た時、ここでなぜか泣けて仕方なかったことは以前書きました。

アッシジにくると私はいつも、まずはこの大聖堂に来ます。そして、お墓の前で「来ましたよ」と、フランチェスコとその仲間たちに挨拶します。
そんなことしているのは、自分だけかと思っていましたが、そうでもなかったようで。

 何度アッシジを訪れようとサン・フランチェスコ聖堂は必ず見にゆく。基本的な確認と挨拶のために。まず、そこにちゃんと聖堂があることを確かめる。そして、黙って告げる。また、来ましたよ ー 子どもの頃の夏、遠くに住む祖母の家に行って、会ったことのない祖父の仏壇に線香をあげていた時のように。
 それから、もう一箇所、必ず行かなければならない場所まで、坂だらけの小さな町をゆっくりと歩く。(岡本太郎著「須賀敦子のアッシジと丘の町」)

「須賀敦子のアッシジと丘の町」の著者で、東京大学大学院で作家の須賀敦子さんの教えを受け、愛弟子で友人でもあったというライター、イタリア語の翻訳者でもある岡本太郎さんも、私と同じくらいアッシジとフランチェスコが好きな方だなと、この本を読んで感じたのでした。
引用した「もう一箇所、必ず行かなければならない場所」とは、聖キアーラがいたサン・ダミアーノ修道院のことで、それも私と同じです。

大聖堂は素晴らしい美術館でもあり、聖人の墓や着ていたボロボロの衣服もあるので、彼が存在したことを確認はできるかもしれないけれど、「そこにフランチェスコ自身の感性を探ることはできない」と岡本さんは書いていて共感します。

彼はただひたすらキリストに倣って生きることを望んで、いっさいの所有を拒否し、ポルツィウンコラという自分たちのちいさな御堂も、年に魚一かご分で他の修道会から借りていました。

はじめのうち、少数の仲間たちとともに活動していた時はそれでよかったのけれど、彼に惹かれてどんどん人が集まり、さまざまな人間がやってくることになります。すると、徐々に妥協して多少の所有は認めるべきだという考えの者も出始め、フランチェスコの教えを守ろうとする厳格派と、会としての所有は認めてもよしとする穏健派に分裂していくことになり、それは今でも続いています。
(16世紀に、カプチーノの語源にもなったカプチン会も分派しています。)

「わが心のアッシジ」(人文書院 1994年初版)という本以外、どこにも書かれていないと思いますが、この大聖堂の落成式に出席することを初期のメンバーが拒み、リンチにあったという記録も町に残っているそうです。

批判するつもりはないけれど、考えが違うならフランチェスコの教えから離れればいいのに、と単純に思います。が、カリスマ的な人気に惹かれたのでしょうか、会はどんどん大きくなって、でも彼の教えからはずれていき、それによってフランチェスコはとても苦悩したと同時に、晩年は病気にも苦しみました。

神の愛に目覚め、財産や家や家族を捨てて野に出て行った時、彼はとても幸せだったはずです。財産を持っていれば、それを守るためのものが必要で、争いも起こります。でも何も持っていなければ、すべてが神から与えられたもの、太陽も月も水も大地も、すべてが自分と同じ神から創られたもの、兄弟でした。

フランチェスコは学問を必要とせず、ただひたすら福音書に、キリストに従おうとしていました。しかし、大学で神学を修めた人たちも会に入ってきます。彼らはおそらく頭でっかちで、彼の感性を理解しなかったのかもしれません。

「清貧」というと、豊かさへの道を閉ざされた人間が貧しく慎ましくあること自体に価値を見出そうとしているようにも感じられるが、フランチェスコの「貧しさ」は、あらゆる豊かさと所有を否定することによって、その先にある、自由で晴れやかな歓喜に至ろうとする積極的な、ある種の美意識や詩情を内包したもののように見える。(彼の出発点が物質的な豊かさだったのはたしかだが)。もちろんミニマリズムではないし、ともに清らかさにつながるものではあっても、かがやく生命力が違う。(岡本太郎著「須賀敦子のアッシジと丘の町」)

岡本さんが的確に書いてくださっていて、これを読んだ時、まさにと思いました。貧しくあろうとしたというよりも、物ばかりに目を向けていたのではわからない、もっと真の豊かさを感じていたのだろうと思います。

キリストを愛し、自然を愛し、ぼろぼろの服をまとい何も持たずに、フランス語で唄いながら楽しそうに歩いて行く。
そういう素朴なフランチェスコの姿を感じられるいくつかの場所を、また投稿できたらと思います。

長文を読んでくださって、ありがとうございました。




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