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なぜ日本の草の根運動は淘汰される?~思想の欠如

はじめに

ぼんやりとずっと疑問に思っていたことがあります。私が触れたことがある、肌感覚で感じられる運動を例に挙げながら、それがなぜ実を結ぶ気配を見せないのかということについて考えていきたいと思います。

1.核兵器禁止条約

私は被爆三世。地元広島に平和教育は当たり前のようにありました。小学校では8月6日原爆の日は登校日です。ネイティブ広島人は折り鶴は折れて当り前。小学校で原爆の悲惨さ’のみ’を刷り込まれ「鬼畜米英、アメリカはなんて酷いことをするんだ」という意識が芽生えました。私はいわゆるネトウヨになっていてもおかしくはありませんでした。中高の6年間で日本の戦争加害の歴史を学んだ時間はとても貴重なものでした。その当時の恩師のおかげで戦争加害の反省なくして原爆の悲惨さを世界に語る資格はないと今でも思っています。

こんな私ですが「日本も早く核兵器禁止条約に署名すべし」という運動に加わって積極的に何かすることには躊躇いがあります。ある意味私も当事者のはずなのに、キレイごとのように聞こえるというか(核を使わずとも戦争は地球上のどこかでいつも必ず起きている)、何か敷居が高いというか、ICANノーベル平和賞は遠い遠い別世界。

2.沖縄辺野古埋め立て反対

Twitter上のご縁で関わった辺野古埋め立て反対運動。過去の投稿を引用します。デニ―知事を押し上げたオール沖縄はどうなっているのでしょうか。県民投票が沖縄の人たちに踏み絵を踏ませるかたちになり、痛みの上にさらなる痛みを強いたのではなかろうかと胸が痛いです。さらに沖縄戦の遺骨が埋まっている土を採取して埋め立てに使用するなど酷い仕打ち。本土に住む私ですら沖縄の声を政府中枢がかき消そうとすることへの憤りを感じます。

3.ジェンダー平等

次の日曜日に投票日がせまった衆院選2021の争点としてにわかに沸き上がっている選択的夫婦別姓、男女賃金格差の是正。自民党的家父長制度へのカウンター、穿った見方をすれば野党共闘の共通政策として一致できる無難な落としどころとされた節があるようにも感じます。

日本でもmetoo運動、フラワーデモ運動が次第に認知されてきています。しかし、いまいわゆるフェミニストとしてメディアジャックをしている一部の人たちのツイートを見る限り、「女性(マイノリティ)は被害者なのだから何をしても許される」というかなり乱暴な主張にみえます。それは、フェミニズムにあらず、ラディカル・フェミニズムだと教わったのはごくごく最近のこと。

小田急線の事件で女性が被害にあったときも、マスコミ第一報が付けたセンセーショナルな見出しにヒステリックに反応してTwitter上に「フェミサイド」というハッシュタグが登場しました。加害者側の不憫な境遇(派遣)に思いを馳せようものならば「加害者の味方をするのか!」「被害に遭うのはいつも女性!」と現職の国会議員にまで食らいついてそのツイートを撤回謝罪させる場面も。これには私も閉口しました。「我こそが正当に被害者を名乗るに値する」とイキることで誰が幸せになるというのでしょうか。社会からあるカテゴリーに属する人たちにレッテル貼りをして排除すれば、必ずや憎悪の連鎖を生み、犯罪は増えると私はここで断言します。

ラベリング理論・レマート】一旦逸脱者という烙印付け(レッテル貼り)がなされると、社会の健康的な側面との接触や、職を得る機会も減少し、逸脱行為を行う確率が増大してしまう。

批判は総じて「マンスプレイニングだ!」「誹謗中傷だ!」と反論を許す余地を与えず、それに耳を貸そうともしていません。敵(悪)とみなしたモノを「キモい」と私刑にも似たかたちで口々に吊し上げ、やみくもな厳罰化を求める一部の大きな声は社会に萎縮をもたらし始めていると感じています。

ここは社会学にお詳しい馬の眼さんの投稿リンクを貼らせて頂きます。

Vチューバー戸定梨香さん事件と似通った動きは過去にもあります。その焼き直しといっても過言ではありません。

そもそも90年代の「有害」図書規制運動は自民党と市民団体が一体となって押し進め「表現の自由」に揺さぶりをかけた経緯があります。いわゆるポルノ・コミックが標的となり自主規制や自粛がすすみました。

「’善意’と’無知’の草の根ファシズム運動」ルポライター 藤井誠二 抜粋・出典 『法と民主主義』92年6月号No268 日本民主法律家協会より 「性表現の過激なコミック」に対する官民一体となった排除運動を一言でいってしまえば”悪書狩り”である。/「母親が子供を守る様」はケチのつけようがないらしい。錦の御旗といえる。それはこの運動に対する批判を蹴散らした。/「子供を守る」という巨大な「善意」/「善意」は、自身たちの「無知」を温存させただけである。この「無知」とは、例えば「ちょっと待てよ」と追放運動が果たして憲法に触れないか、というように少しでも自信を疑ってみるということを全くしなかったことである。自己批判的に自分の言動を検証しないことは「無知」である。/だからこそ、権力に規制を委ねることになんの疑問もない。ワルイ、と決めつけたことは御上に上訴し、自分たちの権利を放棄していることに気付くことなく、ただただ自分たちの言動を妄信した。「善意」は偽善にすり替わっていたのである。

何が誰にとって「有害」かというジャッジは非常に曖昧です。一度制限されると回復しにくいものであるからこそ憲法にも二重の基準論があり、精神的自由をより慎重に守ろうとしています。

「 二重の基準論とは 」 芦部信喜『憲法』第一版 岩波書店 より抜粋精神的自由は立憲民主政の政治過程にとって不可欠の権利であるからこそ、それは経済的自由に比べて優先的地位を占めるとし、したがって、人権を規制する法律の違憲審査にあたって、経済的自由の規制立法に関して適用される「合理性」の基準は、精神的自由の規制立法については妥当せず、より厳格な基準によって審査されなければならないとする理論である。                 

近年でいうとあいちトリエンナーレ『表現の不自由展』で昭和天皇のコラージュ写真を燃やす大浦信行氏の作品が「不敬だ」と電凸攻撃を受け大きな騒動となりました。その他にも『狼をさがして』など上映が危ぶまれた映画作品もあります。これらはいわゆる保守層からの反発です。

今回、表現規制を求める一部の声を汲んだのはリベラル層を支持者にもつはずの野党側です。この時点で意味がわかりません。リベラルのあるべき姿との乖離が見られます。

4.疑問:なぜ日本の草の根運動は淘汰される?

例として挙げた運動がなぜ実を結ぶ気配がないのか。少なくとも私が本気でこの国がどこかおかしな方向に向かっていると気づいてからずっと。答え合わせを願いたく、以下のようにツイートしました。

「日本には思想がない」とツイートしておられたことを思い出し、『カブールノート』の著者であられる山本芳幸氏に答え合わせを願い出たのでした。

ずっとそうなのか…この国を1ミリでも良い方向にもっていく手段は当面見当たりそうもない。暗澹たる気持ちになりました。では、海外と何が違うのか?何が足りないのか?いくつか考えてみました。

①政治権力とは別に確固たる宗教的権威が存在するか否か。(戦後もGHQが日本の天皇制を敢えて残した経緯があるとはいえ、皇室が現代日本人の精神的支柱たる存在かどうかについては議論がわかれると思います)

②ルースベネディクト著『菊と刀』に書かれているような「恥の文化」と「罪の文化」の違い(前者が日本、後者が欧米)

③中曽根元総理による国鉄民営化に伴う労働組合の弱体化(アルジャジーラ記事より)しかし、これではその前の時代の説明がつきません。

これぞという正解はまだ見つかりません。この国が消滅する最後の日まで私の謎解きごっこは終わらないかもしれません。もうしばらく考えてみます。

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