アスリートとネトゲ廃人
当アカウントではスポーツにおける様々な構造や仕組みを感情を切り離し「心のスイッチを切って」アスリート、広くスポーツ選手の位置づけを考えている。なお「心のスイッチを切って」構造や仕組みに注目している関係で、普段は見ないような表現や比較も行うことがある。予めご了承いただきたい。この記事では、ネトゲ廃人との比較をする。
ネトゲ廃人とは?
ではまず、ネトゲ廃人とは何だろうか?
ネトゲ廃人とは、ネットワークゲームに没頭するあまりに日常生活が送れなくなった人を指す。この本が出るまでは、もっぱら2chなどで、事情をよく知る人の間で頻繁に使われていたものだった。また、ネトゲ廃人と称される人たちの生活状態が深刻であることは、ゲーム仲間の書き込みなどで知られ始めていた。https://books.j-cast.com/book013/2012/03/14000166.html
このような調子で、メディアに取り上げられる際も、なんとも暗い取り上げられ方をする。
一方でアスリートはどうだろう?見方によっては部活廃人という見方も出来ないだろうか?世間からのイメージはネトゲ廃人のそれとはまったく異なる。一心不乱に頑張って結果を出すために世界で戦っているような捉え方をする。汗をかいて頑張って。素晴らしい若者だ。
アスリートも全員ではないが、こういう見方も出来ないだろうか?上の文章を利用する。
アスリートとは、スポーツに没頭するあまりに日常生活が送れなくなった人を指す。アスリートと称される人たちの生活状態が深刻であることは、引退後のアスリートの書き込みなどで知られ始めていた。
全員が全員ではないが、ネトゲ廃人も全員が全員ではないだろう。ここまで達成した人を廃人というのであれば正確な定義が必要であるが傾向はこのような感じと言っても過言ではない。
アスリート・港区女子変換「アスミナ変換」のようにアスリート・ネトゲ廃人変換「アスネト変換」とでもしておこうか。
しかし、イメージが180度違うほどに両者はそんなに異なっているのだろうか?この記事では考えていきたい。
イメージの差?
eスポーツプレイヤーとネトゲ廃人ではメディアや社会からのイメージが180度異なる。ゲームもプロセスが直接役に立つタイプのスキルとはいいがたく、一握りのトップ選手にすべての富が集中する構造である。これはトップアスリートが高年俸でそれ以外はそうでもない状態と同様である。
ネトゲ廃人という取り上げられたときの扱いはBGMからして暗くしんどいものが多い。取り上げられるイメージも決して良いスタンスではない。ゲーム以外のスキルが身につきにくい中、ずっと続けている人も多いようである。この状態を、社会問題と捉えている団体も多い。
しかし、一方で、毎日のように部活に取り組み日本一・世界一を目指す人たちのことは、非常に良い好青年のように取り上げる。決して悲惨な部活廃人という見方はされない。一心に取り組む青春の日々などと、むしろ好意的に捉えられている。
この差はいったい何なのだろうか?少し調べてみると以下のような見解があった。
そして一般のスポーツは、ほとんどの人にとって依存物には当たりません。スポーツ自体は「楽しい」かもしれませんが、疲れて続けられなかったり練習が苦しいことも稀ではないので、一般に「やりすぎ」てしまうという心配はほとんどないでしょう。
要するにフィジカルスポーツでは疲れてしまって続けられないからゲーマーよりは悪影響が少ないとの事である。
確かに一理あるものの、フィジカルスポーツでは、疲れてしまっては、それ以外のスキルの取得に対して時間や労力を割くことが出来ずに、疎かになっているという見方もできる。ほかの事に時間と労力を割く余裕がないという意味では、スポーツで頂点を目指してプロを目指すことと、eスポーツでプロを目指すことは仕組みとして同様である。
よって結局計画的に行わない限り、ネトゲ廃人もアスリートも、直接のプロセスは役に立たず他のスキルを身につけづらいという意味では共通している。
両者ともトップレベルになる以外ではプロセスには価値が出しにくい、という点でも共通している。
見方によっては・・・?
見方を変えれば、アスリートも、eスポーツプレイヤーとネトゲ廃人の差のように、こんな感じになるのだろう。
メディアが味方するレベルのトップアスリート:プロeスポーツプレイヤ―
それ以外:ネトゲ廃人
厳密なことを言うと収益発生などあるが、イメージとしてはこんなところだろう。ごく少数の当たりにほぼすべてが集中し、以外はハズレの宝くじと酷似している。
外部から見れば十分にトップ選手であれば、eスポーツプレイヤーとして以下のような状態に見えるはずである。
「世界で戦って凄いね。メディアに取り上げられて収入も凄い!まさにスター。引退してもコメンテーターとかいろいろ出来そうね。」
しかしそこまでではない場合、このような評価になりがちである。
「スポーツもいいけど、将来どうするの?ちゃんと働いたら?」
よって、この考えを当てはめると各スポーツでメディアのサポートが付くような人物は、イメージはこんな感じ。
画像:https://www.fca.ac.jp/work_books/7886/より
一方でそれ以外のギリギリでプロ・多くの代表選手・国内有力レベルまでの人たちはこんな感じのイメージだろう。
極端ではあるが、これくらいには扱いが違うことは念頭に置いておいたほうが良さそうである。
なおこの一つの事を集中する能力は、他の分野にも生かせるが、ある程度高い知能が必要である。これはもう幼少期から始めないことには身につかない技能である。
さらに発言が出来たとしても前者側のものを主に取り上げられる構造である。宝くじに全財産をつぎ込んで外した人のコメントはなかなか表には出てきづらいし取り上げられることもなかなかないのと同様である。
苦しい中で続けるリスク
引きこもりのネトゲ廃人に、仕送りなどを通して資金を提供したらどうなるだろうか?おそらくネトゲ廃人は現状のネトゲ廃人生活を続けるはずである。ネトゲ廃人を15年続けた方のブログによると以下のようにある。
10代の頃からネットゲーム(以下、ネトゲ)にドハマリし、それから15年以上引きこもり生活を続けていました。現在はなんとかゲームを断つことができ、社会復帰を目指していますが、長年引きこもった影響は想像以上に大きく、なかなかうまくいっていないのが現状です。
この方が15年間どうやって生活していたのかは定かではないが、受験などの私生活が綴られているため、実家生活だったと予想できる。
一方で続けるのがやっとのアスリートに投げ銭やファンクラブで資金を提供するとどうなるだろうか?おそらくアスリートは現役生活を続けるだろう。わずかながらもかすかな希望をつないでいきたい、そのためには資金が必要であるという気持ちもわかる。しかし、遅かれ早かれ引退をする。これは仮に成功をしたとしても同様である。引退をした後も、投げ銭制度を続けていくのだろうか?
現状の特に日本では、年齢が非常に重要な要素を占める。よって先延ばしにすればするほど「社会復帰」が難しくなるという意味では、仕送りでネトゲ廃人生活を続けるのに、近い構造になっていないだろうか?投げ銭をする側も、ネトゲ廃人に仕送りするように、社会復帰が一層難しくなるように間接的に導いてしまっている状況と言っても過言ではない。
前者側に移れればいいが、現実はそう甘くないだろう。統計的に見たら異常値中の異常値であろう。
なお、アスリートとネトゲ廃人を並べて書いていたら、身体能力の衰えで強制的に引退せざるを得ないアスリートの方がまだ、無限に続けかねないネトゲ廃人よりも健全な可能性が見えてきてしまった。
現状を把握し、納得のいくキャリアを!
多くのアスリートは、今まで一生懸命やってきたとしても、仕組み的にネトゲ廃人と大差がないというのは感情的に受け入れられない、というのはよく分かる。場合によってはトップレベルでなくても、平均年収よりも高い額を受け取っていた例もあるだろう。
しかし心のスイッチを切って、現状のスポーツの仕組みを見れば見るほど、アスリートは、社会において、特にメディアの影響で実態以上に持ち上げられる虚像の側面が強い点がある。しかしメディアもそれが仕事なので、かえることは難しい。感情や表現を取り払って構造や位置づけを考えると、ネトゲ廃人とも遠からずである。
逆に言えばスポーツだけをやっている状態は、ネトゲ廃人を何年も続けていた人物と同じ傾向なくらいには社会復帰位が難しくなる可能性を持ち合わせていることから目を背けてはならない。仕組み上似た部分がある。
さらに遅かれ早かれ引退をする。その際に何もできなければやはり厳しくなってしまうのはアスリートでもネトゲ廃人でも変わらない共通の課題ではないだろうか。こういう状況も踏まえて、長期的に見据えたキャリアの構築を行っていければ幸いである。
もっとカジュアルに
なお、「マイナースポーツ」ではなく「ベンチャースポーツ」では、よりカジュアルにスポーツに取り組み、場合によっては世界大会も目指せるような位置づけを目指している。「暇つぶし・余暇」を意味するスポーツの語源であるデポルターレを考えると、一周回って、余暇を楽しむというスポーツの原点に戻ってしまった状況である。これくらいの方が健全であるのかもしれない。