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『あなたを独りにしないと決めた日』

もう15年以上前。私は父を亡くした。

つい昨日まで元気に生きていた人だった。
何も変わらない日常だった。
いつもと同じように笑って、憎まれ口を叩いて、一緒にご飯を食べて。

当時は反抗期だったから、ほとんど父と会話をすることもなくなっていたけど。
寝る前に母に促されて、渋々、その日は「おやすみ」と言葉をかけた。

その、ほんの数時間後の話だ。
父はあっさりと帰らぬ人になった。

事故のようなものだ。
突然、私と母は家族を奪われることになった。

父の司法解剖が終わる頃、わざわざ病院に取材にやって来た地元新聞の記者に、「ご心境は?」と訊ねられて、「ふざけんなこの野郎!」と、声を荒げて罵倒したことを、昨日のことのように覚えている。

父の亡骸にすがりつく母を見た。

あんなにも静かに泣く母を見たのは、後にも先にもこの時だけだ。

「これから、どうしようね」と、ポツリと告げられた言葉に、まだ高校生のガキだった私は、返す言葉を持たなかった。
その背中が寂しそうで、悲しそうで。
それでも前を向きながら、ポロポロと涙をこぼす母を見た時に、心に決めたことがある。

「この人を独りにしない」

「私が一生、面倒を見よう」と。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

父の葬式は、本妻があげた。
20年以上も、共にいたのは母なのに。
こんな時ばかり、父の部下や弔問客に対して、本妻として振る舞うこの女が一瞬で嫌いになった。

誰もお前のことなんか知らねえよ。
母のことは知っていても、誰もお前を気にしたことなんかねえよ。

父の部下や友人たちは冷ややかだった。
お悔やみの言葉も、これまでの感謝も、母にばかり伝える人たちばかりで、プライドを傷つけられたのだろう。

父が荼毘に付されている間、本妻は私と母の元にやってきて、「骨は拾わせないから!」と勝ち誇るように言った。

「家族でもないのに。赤の他人が、骨を拾うなんておかしいでしょ?」と。

弔問客に「それはおかしいんじゃないか」とたしなめられても、頑として譲らない。

確かに、私たちは“家族“ではないのだ。
法定文書に記載されたものを家族と呼ぶなら、私たちは家族ではない。それは、否定出来ない。

私はいい。でも、せめて母にだけは。
土下座でもすればいいのか、涙を流して頭を下げればこの人は満足なのか。
困惑する私を助けてくれたのは、腹違いの兄だった。

「母さん。家族ならいいんだろう?」

穏やかに笑う兄は、うつむいたままの私の背中を優しく叩いて言った。

「この子は俺の妹だから、いいよね?」

有無を言わせない響きだった。
本妻は不愉快そうに顔を歪めていたけど、兄に逆らう気はないのか、「勝手にしろ」と言い捨てて離れていった。

その後、兄は私の母に頭を下げた。
「言いたいことは、沢山あると思います。でもどうか、この場は堪えてください」と。
母はとても辛そうだったけど、吹っ切れたように私に全てを託してくれた。

「お母さんの分まで、お願いね」

兄と共に父の骨を拾う時。
私は父が亡くなって初めて泣いた。

父がこの世から消えてしまった、という実感。
この場に母がいられないことの無情さ。
何も変えることの出来ない、ガキだった自分に対する憤り。
ないまぜになった感情に押し潰されて、ただメソメソと泣いた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


我が家には父の骨がある。半分だけだが。
もう半分は、父の墓で眠っている。
兄が本妻を説得して、いや、興味を失って放置されたそれを、私と母に渡してくれたものだ。

「母(本妻)はきっと、骨がなくなったことにも気づかないから」と。父の部下を通じて、手渡してくれたものだった。

「これまで父の面倒を見ていただいて、ありがとうございました」と、走り書きで短く綴られた感謝の手紙は、キチンと母に渡っている。

兄がいなければ、私たちは父の魂のない位牌だけを拠り所にして、地面を見つめたまま、きっと立ち上がることは出来なかっただろう。
兄がいたから、私と母は今もこうして父の仏壇に手を合わせられるし、数ヶ月に一度、墓参りをすることも出来ている。

父が亡くなった、ということを、消化するだけの事実と時間を貰えた。

不倫なんてクソだ。

どんなに綺麗な言葉で取り繕ったところで、それは変わらない。クソ以外のなにものでもない。

だから、もしあなたが愛した人が家庭を持っている人だったとして。
あなたがその人との間に、子供を作ってしまったとしても。

いつか悲しい思いをすることになる。

どんなに共にいる月日を重ねたところで、愛した人の死に目に会えないかもしれない。
そして、愛した人との子供に、親の亡骸に会わせられないかもしれない、という残酷な事実を、覚悟しておくことだ。

それでもいい、という覚悟があるなら。
私はもう止める術を持たない。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

父が亡くなり、父に金銭面を依存していた我が家は、それはもう大変な目にあった。

父の友人から買い上げたはずの自宅からは「父が亡くなったなら返してもらう」と追い出され、母が父にかけていた保険金はほとんどを本妻に奪われた。

払い続けていたのは母で、受取人は私だった。
それでも、この国の優しくない法律では、相続かなにかの問題があって、その8割近くが本妻に渡ったらしい。

家もない。金もない。
母の負担を少しでも減らしたくて、私は通っていた高校をすぐに辞めるつもりだった。

言い方は悪いが、所詮、通信制だ。
学歴になるわけじゃない。
でもここでも助けてくれた人がいて、私は無事に高校を卒業することになるんだけど。

全てを失くした私たちは地元を離れ、一時、他県にある叔母の家に身を寄せた。

この叔母にもとてもお世話になった。
何もない私たちを受け入れてくれて、ご飯を食べさせてくれて、暖かい寝床を用意してくれて。

何も言わず、何も聞かず。
私たちの傷が癒えるまで、静かに見守ってくれていた。

そうしてひと月が経った頃。
母が突然、意を決した表情で言った。
「地元に帰ろう」と。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


母と私、2人分の生活を、今度は父ではなく母が背負うことになった。

私もバイトをしていたけど、母の助けになっていたかどうかは怪しいものだ。

毎日毎日、がむしゃらに働く母を見ながら、何の役にも立てない自分が情けなかった。

「苦労させてごめんね」と私が言うと、「子供はいつまでも子供だからね」と母は笑った。

覚悟を決めた母は強かった。
私との暮らしを守ろうとする母は強かった。

そんな母の為に、私が出来ることは、やっぱり働くことしかなかった。

前の職場で、私が心を壊した時。
頭の中に初めに浮かんだのは「生活が立ち行かなくなったらどうしよう」だった。

母がこんなにも頑張ってくれているのに。
私がここで折れてどうする。
せっかく安定した職につけたのに、ここで膝をついたら、またあの苦しい時代に戻ってしまうかもしれない。

家を失くした。全てを失くした。
抜け殻のように生きる時代に戻りたくはない。

怖かった。
苦しかった。

だから限界まで働いて、私の心は一度死んだ。

そんな時に現れたのが旦那だった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

父が亡くなったあの日。
母の涙を見て、私は心に決めた。

「母を独りにはしない」

だから周りの友人がひとり暮らしを始めたり、実家を出て彼氏と同棲したりしても、私は「家を出る」という考え方がそもそもなかった。

だって、私が家を出たらこの人は独りだ。

父のいない今、広い家にポツンと独りで過ごしている母の姿を想像するだけで辛かった。

普通は、それが当たり前なのかもしれない。
配偶者に先立たれ、子供もみんな巣立っていって、住み慣れた家でひとり、気丈に暮らす人もいるだろう。

きっと母も、私がそうしたいと伝えれば、なんだかんだ文句を言いながらも認めてくれたと思う。

でも、無理だった。
私が“出来なかった“。

寂しがるのを知っていたから。
涙を押し殺すのをわかっていたから。

だから独りにはしたくない。
この人を独りにはしたくなかった。

付き合うことになった旦那に、この気持ちを隠しておくことも出来なくて、お互いに結婚を意識し始めたその瞬間に、私は旦那へと伝えた。

結婚したらすぐに母と同居になること。
同棲は出来ないこと。
だから母と上手くやってくれる人じゃないと、結婚するつもりがないこと。
昔気質の人だから、結婚するとしても私は苗字を変えずに、婿養子になること。

並べられる条件を黙って聞いていた旦那は、私が言い終わるのを待って、こう言った。

「(`・ω・´)じゃあこれからお母さんに会いに行こう」と。

え?と私が聞き返すと、何でもないことのように旦那は笑った。

「(`・ω・´)だって、仲良くするなら早いほうがいいじゃん」

私の家に入る前、緊張しすぎて手が震えていたの、気づいてた。
母と話している間、ずっと「(´・ω・`)」こんな顔で、借りてきた猫のようになってたのは、おかしかった。

それでも気難しい母の顔がニコニコとしていたのを見て、「リトをよろしくね」と感慨深げに呟いていたのを聞いて、「ああ、この人なら大丈夫だ」って安心したことを覚えている。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


本音を言えば。

もしひとり暮らしをしていたら、私のこの甘えた根性が少しは矯正されてたのかなぁ、とか。

同居、ということにこだわらなければ、結婚の選択肢も、もっと幅が広がったのかなぁ、とか。

考えないわけじゃない。
考えないわけじゃないんだ。

でも、どこかの段階で私が母を見捨てていたとしたら、こうして3人で笑い合える日常は来なかったし、ちょっと、いや、だいぶ遅くなったけど、これまでに受けた恩を、ほんの少しずつだけど、母に返せることもなかったのだろう、と思う。

不甲斐ない子供でごめんね、とは未だに思うし、苦労ばかりかけてごめんね、とも思うけど。

今のんびりと笑っている母の顔を見ると、「これでよかったんだな」と納得する。

高齢の親との関係性は、時代によって変わってくるだろう。

今や、自分の子供と暮らすよりも快適な老人ホームがあったり、そもそもひとりで立つことが好きな人もいるし、それが自分の矜持だと胸を張る人もいるだろう。

どんな選択でも、それがその人にとって幸せならいいんだ、きっと。

これはたぶん私のエゴだから。
たぶん私の依存だから。

母を独りにしたくない、という、私のただのわがままだから。

わがままだけど、思うんだよ。
「お母さんも、私と一緒にいられて、幸せだと思ってくれてたらいいな」ってさ。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

『あとがきという名の余談』

久しぶりの大型記事になりました。

先日のコンテストで落選して落ち込んでいた昨日、とある方から私の文章について、ご指摘をいただきました。
それを受けて、私は一度原点に立ち返り、深く考えることにしてみたのです。

“書きたかったもの“、“誰かの心を動かすこと“、“人生の記録“、“伝えたいこと“、“なりたいもの“、“目指す場所“。

考えて、考えて。
色んな人から、さまざまな記事にいただいたコメントに何度も目を通しました。

「ただ、自分の地盤ともいえるところには大事な人が沢山いて、応援してくれていて、何よりあなたの記事をいつだって楽しみにしてくれている。」

西尾さんの記事より

そして西尾さんの記事に書かれたこの言葉を改めて読んで、ほんの少しだけ、道が開けた気がしました。

“私の記事をいつだって楽しみにしてくれている誰か“の為に、書きたい。
そうして生まれたのがこの記事です。

“私の人生の中で、心が震えた出来事を、皆さんに知ってもらいたい。その為に、書く“
それが今の私に出来る最大のパフォーマンスではないか、と考えました。

とはいえ、毎日毎日、こんな記事ばかり書けません。そんなことしたら底の浅い私なんぞ、すぐに枯渇して枯れ果てます。

こういう大きな記事も書く時もあるし、馬鹿みたいな話を書くこともあるし、日常の些細な出来事を面白おかしく書くこともあるでしょう。
それで、いいんですよね、きっと。

ま、早い話が、今までと何も変わらない、ってことです。

すみません、私はもう大丈夫です。
完全復活です。

また明日も、noteでお会いしましょう。

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