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On Your Marks


On Your Marks set…

世界で1番美しい瞬間だと思う。
どの競技においても、静けさと緊張感、空気の膨張が止まるこの一瞬は、何物にも変え難い。


いちについて、よーい。

子供の頃、私は陸上練習会に参加していた。
監督からは、

ゴールの先を見ろ。
足を止めるな、
足を止めるな、
スイングが大きい
プッシュプッシュ
と手を叩きながら、並走してもらっていた。

走ることは大好きだったが、
大ぶりに走る私は、無駄な力が外に分散していることから、リハビリ的な要素を取り入れたフォームの改善を行っていた。

私は窮屈だった。

友達とやるバドミントンも、
バスケットも、バレーボールも、
野球も、サッカーも、私は大の苦手だった。

そんな鈍臭い私が、唯一、皆んなが褒めてくれるもの。それが「かけっこ」だったのである。


誰よりも早く
軽い足元と、疾走感
ドキドキとする高揚感
研ぎ澄まされた視線と聴覚
自分の息遣いと
ほんの一瞬の、無。
ほんの数秒を、独占できる悦。

陸上は、何よりも美しく、魅力的だ。


しかし、私は、陸上から気持ちがだんだんと離れていくことになる。大人は残酷だ。得意なものを見つけると、それをやたらと伸ばしたがるのだ。
地域の陸上大会や、練習に参加しだして、私は、唯一自信を持っていた「かけっこ」で、一番になれないことを知った。
私が大切にしてきたもの。卵を温めるように大事に大事に育てた瞬間は、通り過ぎる風と共にみんな散ってしまった。フォームを変えてから、タイムは遅くなり、私はいつの間にか劣等生になっていた。



中学2年生に進級した頃の話である。
私は陸上大会の女子100メートルに参加した。
周囲にはゴリラみたいな女生徒がずらりと並んでいた。



クラウチングスタート。
スターターの音を機に、わたしは走りだした。
下腹部の違和感と共に。

冷や汗が流れた。
普段からお腹は緩いが、そういうことではない。

陸上のユニフォームはびっくりするほど丈が短く、太ももも露わになっており、あらゆる外力からの抵抗を減らしている作りをしている。
私の奥深くから、なにかが、流れている。
それは、綿のパンツでは頼りない、ナニカだった。

私は、呼吸をととのえた。


肘を絞めた。
姿勢を伸ばし、余計な力を抜いた。
膝を上げ、効率だけを意識する。
足底の圧力と、伸び、押し上げる反発と、体を連動させた。前を向く。目的は一つ。
ゴールテープの向こう側。


トイレだ。


私は走った。誰よりも、ハヤク。
子供の頃の監督の声が聞こえる。

足を止めるな
足を止めるな
プッシュプッシュ

隣で監督のクラップ音も聞こえるようになっていた。
私の視覚は、無になり、
そのままゴールテープを切ることになる。



初潮の始まりだった。
私は自己ベストを大幅に更新していた。


8月1日。
パリオリンピックの陸上競技がスタートする。
世界中の、陸上競技を選択し、継続してきた選手たちへ。

On Your Marks set…

その先が、どうか希望に満ちていますようにと、願わずにはいられない。

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