”こころ”とは何か? 夏目漱石の「こころ」を読みながら考える|読書場所:マリゾー|読書記録
気仙沼市で最も訪れるカフェは、先日伝えた通りアンカーコーヒ内湾店である。
一方で、大船渡市で最も訪れるカフェは、マリゾーである。
ウッディな店内は、とても落ち着いた雰囲気であり、穏やかな音楽を耳にしながらゆったりと過ごせるので、とても気に入っている。閑静な住宅街の中にあるため、自動車の通る音がうるさくないのも良い。
ホットサンド、ミートソースのごはんが個人的に気に入っている。また、夏に飲むアイスコーヒーは格別で、コーヒーにそこまでこだわりがない筆者が、初めてとても美味しいと感じたくらい、スッキリした飲み味が良く、毎夏の楽しみになっている。
といっても生来の出不精と昨今の猛暑が祟って、毎夏訪れているかというとそうでもないのだが。さりとて、大船渡市内のカフェで最も頻繁に訪れているのは間違いない。とくに個人事業を専業としていた頃は、時間に余裕ができる都度通ったほどである。
昨今は個人事業のみではないためそう頻繁には行けないのが悩ましい。内心、仕事の合間に気儘に訪れては置いてあるブルータスを眺めながら穏やかな時間を過ごしていた頃が懐かしく、またあの頃に戻りたいと考えている。
夏目漱石「こころ」を読みながら”こころ”とは何か考える
さて、この日はマリゾーで夏目漱石の著作「こころ」を読んだ。といっても短い小説ではないため、マリゾーで読んだのは一部である。速読でもできれば、コーヒーを嗜みながら読破もできるのだろうが、生憎そんな技術は持っていない。仮に持っていたとしても、果たして文学作品を楽しむのに速読なんて野暮な真似をするのかは分からないが。
※広告
夏目漱石「こころ」は思い出深い作品の一つである
夏目漱石の「こころ」を読んだのは、実のところこれが初めてでない。今の時代どうなっているかは分からないが、筆者が高等学校に通っていた頃は、本作が現代文の教科書に載っていた。そのため、「下 先生と遺書」を部分的に読んだのが初となっている。
筆者の高等学校時代、同級生は愉快な者が多く、教師も比較的ノリが良かったため、何がきっかけだったか、どんな経緯があったかは覚えていないが、本作の一場面について同級生2名が演じるのを鑑賞するといった授業が行われた。だから、本作は筆者にとってある種思い出深い作品の一つである。
さりとて、これまでの人生で本作を通して読んだ経験はなかった。いつか読もうと思いながらも手に取ることはなく、結果的に読まず仕舞いで今日まで至っていたのである。だから、読書記録を始めて文学作品を手に取り始めた今、これも何かの縁だと思い、選書した次第である。
初めて通して読んだ夏目漱石の「こころ」に強く抱く感想は”分からない”
高等学校時代、初めて「こころ」を読んだときは、恋慕によって友情が壊れて最悪の結末に至った悲劇を語る作品といった印象を受けた。今回、初めて「こころ」を始まりから終わりまで通して読んだ後に抱いた印象は『分からない』である。
正直なところ、本noteを作成するために読んだと言えるわけだが、読み終わったとき、noteをどう書こうか悩んだ。本作について語ろうと思えば少なくない言葉を重ねられるとは思ったが、そのどれもが書きたいとも書くべきとも思えず、また何を書いても違和感を覚えると感じた。
今こうして本noteを書いているわけだが、書きながら尚悩んでいる。なぜそうした悩みが生まれるか。考えるに、本作の解説にも書かれている通り、本作には本来ならば続きがあり、それを読まずして物語が描きたかった像は浮かび上がらない点に思い至る。
つまり、「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の3物語では、「こころ」が描き出したかった何某かが判然としないためである。何せ私の物語がぶつ切りのまま、本作は終わってしまっている。私が電車に飛び乗ったその後は不明瞭であり、物語はある種先生の話として幕引きとなるのだ。
しかも先生の話は遺書として過ぎた話が描かれるのみで、先生自身の話が終わっているかと言えばそうではない。私の話に至っては、ぶつ切りとなったまま何が何だか分からず終わらせられてしまっている。現時点の「こころ」でも物語として完成はしているのだろうが、本来ならば今在る3物語だけだと未完と考えるのが道理でなかろうか。そう思わずにいられない。
また、結局のところ夏目漱石が「こころ」を通して描きたかったものは何なのか、核たるものが見えてこない。それは読者が各々考え、各々の答えを見出すべきだと、読者の責任に帰する話かもしれないが、そうだとしても「こころ」は不親切な作り、物語になっていると考えざるを得ない。
何せ、描写されているのは私の懊悩と先生への思慕、そして先生の悔恨と懺悔のような遺言である。二人の人間のどこか判然としない心の吐露がひたすら描写され続ける物語から、何を見出すべきなのか答えを出すのは、あまりにも困難である。だから『分からない』の一言ばかりが脳に浮かび上がるのだ。
「こころ」が描いた”こころ”とは何だったのだろうか
くどいようだが、「こころ」とは本当に分からない物語である。あくまで筆者個人の感想になるが、そもそもKなる友人が、男性なのかも本作は明白に描いているわけではない。先生はKを彼と書き続けているし、五分刈りの描写こそある(Kの性質を思えば、Kが女性であったとしても五分刈りくらいはやっていると思われる)が、Kが女性だったとしても本作は成立するのである。
むしろKが女性だったならば、真宗の坊さんの例で女が生まれた際に檀家が相談して嫁に遣るといった不自然に挿入されている文章が生きるようになる。また、養子となり姓を変えて先生の前に現れたこと、実家が頑なにKの仏門入りに反対していたこと、奥さんがKの居候話があった際に先生にとって悪いと要領を得ない不賛成を示したこと、先生に好意を寄せるお嬢さんがKと仲睦まじい様子を見せたことなどにも、明瞭さが差し込むのである。
何より、Kの自殺についても、ある種の説明がつけやすくなる。何せKは、先生の婚約後に死んだものの、もっと早くに死ぬべきだったと言葉を遺している。牽強付会めいた説明だと理解しているが、戒律を重んじるKがお嬢さんへの恋、つまり同性愛のような自身にとって許されざる慾に囚われたことに対して精進の精神で死を選んだと考える方が、些か自然さがある。
何せ、Kはお嬢さんに恋慕の情を抱いたこと自体について、複雑怪奇な苦悩をしていた描かれ方をしている。友人が恋慕の情を抱いていた相手に恋慕の情を抱いたことに対して苦悩していたわけではない。恋慕そのものに苦悩していたのである。
それはそれとして、そうした牽強付会めいた思索を巡らせながら改めて思うのは、「こころ」が著す”こころ”とは何だったのかという点である。主題として掲げるのであるから、そこには相応の理由があった筈だ。しかしながら、本作は確かに登場人物のこころの機微が重要な要素になっている一方で、登場人物たちのこころが描き出しているのはこころ故の苦悩ばかりである。
「こころ」においてこころがテーマに位置付けられるならば、それはつまり苦悩こそが「こころ」において重要なテーマと言う様なものでなかろうか。だが、その苦悩の先にあるのはどれもこれも死である。人は自身のこころ故に自死していくのだとでも、漱石は言いたかったのだろうか。取り立てて理由があるわけでないが、とてもそうは思えない。
それとも、「こころ」は未完の名作であり、本来ならば「こころ」が何を示しているのかを描く第4話、第5話があったというのだろうか。これはあっても良さそうだが、「こころ」は何も夏目漱石の遺作というわけでない。「こころ」の後にも作品は出ている。また夏目漱石は、飽きたら取り敢えず一冊にまとめて売り出すような雑な人間ではなかったろうから、未完の線も薄そうである。
”こころ”とは捉えがたい存在である
「こころ」もそうだが、筆者たちが生きる現実の人間の”こころ”も中々どうして捉えがたいものである。毎日のように諍いが耐えない人間同士が実のところ旧くからの親友であったり、お嬢さんのように恋慕の情を寄せる相手がいながらその相手の目の届く範囲で平然と別の異性と逢い引きめいたことをしたり、曖昧で模糊としていて、不明朗で不明瞭なのが”こころ”である。
もしかすると、夏目漱石が「こころ」で描きたかったのは、そうした誰にとっても理解し難い”こころ”そのものなのかもしれない。だからこそ、敢えて未完の物語のような構成にしたのだとしたら、なるほどしてやられた心持ちにならざるを得ない。そして、真の文学とはかくあるべきだと思いたくなる。
正直なところ、筆者は「こころ」を読んで、理解が及ばなかった。本noteを読んでいる皆さんはどうだろうか。中々読む機会もない作品には違いなかろうから、この機会にぜひ一度読んでみて欲しい。そして、あなたが感じた”こころ”をこっそりで良いので教えて欲しい。
▶以下、広告です。ぜひ手に取って読んでみてください
皆様のサポートのお陰で運営を続けられております。今後もぜひサポートをいただけますようお願い申し上げます。