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私の名前は、福座津仲尾です。

私の名前は、確かに福座津仲尾だったや。

でも、これは、私自身が「福座津仲尾」なのではなくて、私の名前が「福座津仲尾」なのではないかという、屁理屈を抱くようになった。

名前を呼ばれて、私が手を挙げるけれども、私自身が「福座津仲尾」である必然性は無かったんだ。おそらくその証拠に、「名は体を表す」という言葉がある。

「福座津仲尾」という「名」は、あくまでこの「身体」に与えられらたものであって、私自身、私のこの意識に与えられたものではない気がするのだ。

私の名前は、確かに「福座津仲尾」だ。しかし、そこに私自身を示すものはない。(やっぱりクソ見てぇな屁理屈だ)

福座津仲尾は、「私」ではない。福座津仲尾は、私の名前である。

なら、「私」とは、誰なのか。私の名前は確かに「福座津仲尾」であるが、私はやはり福座津仲尾ではなかった。

私が私でなくなっても、福座津仲尾は依然、「福座津仲尾」なのである。そこに、私である必要性も必然性も見つけられない。

歴史には、数多くの「名」が残っている。

ネブカドネザル二世は、ネブカドネザル二世のまま。

ネルヴァ帝は、ネルヴァ帝のまま。

アメンホテプ四世は、アメンホテプ四世のまま。

森有礼は、森有礼のまま。

「名」だけがそこにある。それと少しの想起された言語的意味だけ。彼らは、彼らでなくなっても、依然その「名」であり続ける。色々考えていると、「私」や「彼ら」と、「名前」って、とてつもなく乖離したものなのではないかと。

無理やり結び付けている、水と油なみに相性の悪い何か。その差に、違和感を抱かない私は、異常なのだろうか?この当たり前に、もう慣れてしまっているのか。(怖いなぁ)

名前なんて、所詮虚飾に過ぎないのではないかと思ってしまう。

でも誰かさんが、私の名前を呼ぶと、私は自然に反応してしまう。不思議だ。(それが名前の役割なんだよ!)

この名前は、一体なんなのか。それは少なくとも、私自身では無いのに。私自身のように感じてしまう。その言葉の指示機能に、驚きを覚える。直示すると、それは私ではないと分かるのに。

私という時の「私」は、私の名前という時の「私」と同じなのか…。ァァ疑問が湯水のごとく湧いてくるわ。



本当に、私って、誰だ。





今日も大学生は惟っている。



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p.s.

「福座津仲尾」は、家族に「なんか悪口を語彙力上げて行ってみて」と頼んだところ、「複雑な顔」と言われたものに音を当てはめただけです。なぜこう面倒くさいことをしたのかというと、二葉亭四迷という文豪が関係しています。(ここから雑学です。)

二葉亭四迷(ふたばていしめい)は、もちろん偽名なのですが、元々は「くたっばってしめえ」という悪口を文字って生まれた名前。「福座津仲尾」も、二葉亭四迷を意識したみたという、非常にどうでもよいお話です。

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