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【哲学】分かるのは、分からないということ

私というものの本質を、今年はずっと考えていた。大学で、哲学の入門の講義を受けてから、妙に頭の中から離れず、ずっと毛嫌いしていた哲学に八カ月くらい毎日集中している。

そこで、ずっと「私」とは誰かという疑問を解決しようと試みてきた。最初は、生物進化学や言語学から「私」というものにアプローチしていたが、より確信に迫ることが出来そうなのは、哲学ではないかという希望を持ち、考えてきた。

これは、もう最近薄々勘づいてたかもしれないものであることは、間違いない。

「私」というものが、存在せず、むしろ「私」という言葉で捉えようとしている時点で、個人としての私は消え、或いは「言葉」を使おうとしている時点で、「私」は消滅しているのということ。

様々な哲学者、心理学者、その他偉人の力を借りながら、おそらく何千年もかかるであろう一つの確信に私はたどり着いたのだ。八カ月で、ここにたどり着くことが出来たのは、死んでいった数多の人間があってこそ。しかし、同時に残念でもあった。

私(?)が、私が決して表せない存在であること、解ることのない存在であると確信した文章を、「ラカン的思考」から引用したい。

ひとつは「事物の本質は表現されえない」という考え方であり、もうひとつは、もしもある事物、ある人間を表現するとしても、それはその事物・人間そのものとは異なった、何か別のものを使わなければならないということ〔中略〕言語は対象の本質を表すことができない(宇波彰、2017、181)

前半は、ゲーテの言説の意見であり、後半は、プラトンとアリストテレスの考えであると説明されている。

もちろん、この引用文の先には、詳しい説明が書いてあるが、それはあまり必要ないのかもしれない。この記事では、引用文の意見について、私の記事からの引用文を基に、意見を述べていこうと思う。

ドーナツの私(穴)

まず、

もしもある事物、ある人間を表現するとしても〔中略〕何か別のものを使わなければならない

について。

私が書いてきた記事には、このような「ラカン的思考」で説明されている言説を類似しているような文がある。それを幾つか、ここにまた引用しよう。

『似せ者ですが、何か?』より

だから私の思想そのものが、私自身のものであるかと言われれば、それは怪しいのである。それは、私が盗んだものだからだ。精巧に私が自分の中で再構築しようと試みたものだからだ。

『自分に興味ありますぅ?』より

というのも、「私」と「私の要素」が、どこかで乖離しているように思えるからだ。

『「私」とは原理そのものか?』より

「私」とは一人ではない。一人に見えているとしても、その実、「私」の中には幾つも顔が潜んでいるのである。「私が動詞」ということは、私というものが定まっているものではなく、日常で少なからずの動詞を使うように、不安定だということ。さらに言えば、食べる、寝る、話す、考える、歩く・・・etc の行動によってさえ、「私」という存在自体がぐらつく。

『ラカン的思考』からの引用文、そして以前記事で書いていた文章の根幹は一貫しているように見える。

とどのつまり、「私」というものが、たった一つの、原理としての「私」そのものから成り立つものでも、それ自身であるわけでもなく、あらゆる要素、状況によって変化する私から成り立つ存在であるということだ。


私は、やはりドーナツの穴。


周りの生地があることによって、「穴」として現れるが、しかしそれは依然「穴」、つまり「無」なのである。ラカン的な主体、或いはアルチュセール的主体、換言すれば「欠如として主体」が、本当の「私」の正体なのではないか・・・。


言葉に意味はありません

では次に、「言語は対象の本質を表すことができない」について、同じに私の記事から、文章を引用しながら、考察したいと思う。

『「分かる」ってどういうことさ?」より

「分かる」ってことは、どこかで「分からない」ということを認めているのと同義ではないのか。では、「分かる」とは、つまりは「分からない」ということではないのか。しかし、「分からない」とは、終局どういうことだろう。単に知らないこと?それでは、「分かる」と「分からない」は同義ではないね。でも「分からない」という言葉の最果てが見えないね。

これは、少し違うかもしれないが、「分かる」という言葉の本質を考えようとしている文章だ。「分かる」もしくは「分からない」という動詞の対象には、どのような作用が及ぶのか、ある対象が「分かる」「分からない」とは、畢竟どのようなことを意味するのか、ということを考えているが、結局失敗してしまったと覚えている。

しかしそれもなんら不思議なことではないだろう。

そもそも言葉には、「本質」を表す機能がないらしい。だから、「◯◯という言葉は、つまるところどういう意味か」と考えること自体は、もう無意味というか、答えの(おそあく)絶対にでない問いなのであると、私は信じようと思う。

では、「言葉の意味(辞書とかに載ってるやつ)」って、一体なんなの? と感じる人は、竹田青嗣さんの「現象学は〈思考の原理〉である」という著書を読んでみることを勧めたい。


2020年 9月7日 

天気はどうやら近回り、九州では大雷雨がたっこらたっこら募っている。

今日


「分かるのは、分からないということ」を学んだ。



今日も大学生は惟っている。


引用文献

宇波彰.2017.ラカン的思考.作品社


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